恋人以上、恋人未満 2/3

 その日の夜。お風呂上がりに船内を歩いていると、すれ違った船員に「船長か副船長知りませんか」と訊かれた。


「町で見かけたきり見てないから、まだ戻ってないんじゃないかな」

「そうですか。今日中に確認したいことがあったんだけど、まァいいか」

「大丈夫? 私で良ければ聞くけど」

「本当ですか? 分かればでいいんですけど……」


 幸いにも、彼の確認事項は私でも答えられる範囲内のことだった。一言、二言会話を交わすと、彼は満足気なカオをして去って行った。


 十五年も乗っていれば、少々のことなら私でも力になれる。ましてや、血気盛んな新人クルーたちからしたら、私はかなりの年上だ。年上というだけで、頼りになるように思えるのだろう。


 年齢のことを考えたら、昼間見た副船長の逢瀬を思い出した。


 失恋したわけでもないのに、そんなような気分になって、なぜか心が沈んでしまう。


 副船長でも、やっぱり若い子がいいのか。


 それなら、何事にも奔放な船長が、若い子にばかりちょっかいかけるのも頷ける。


 私と船長の年齢は、わりと近い。近いとは言っても、彼が相手にする女性よりは、というくらいだ。


 彼が年上であることに変わりはないのだが、十五年も一緒にいると、この程度の年齢差はあってないようなものになる。


 実際、私が彼に小言を言うと、「母ちゃんかおまえは」と突っ込まれることもしばしばあった。


 この十五年の間、私はいろんな光景を見てきた。船長の隣にはいつも、若々しくて美しくて、芯の強そうな女性がいた。


 そんなことを長年繰り返していたら、期待なんてものは否が応でも出来なくなってくる。


 いつのまにか、嫉妬も羨望もうまく自分の中で消化できるようになって、そのうちに彼の一挙手一投足にも、一喜一憂しなくなった。


「人間って、いろんなふうに成長するんだな……ん?」


 しみじみ頷いていたら、少し先の廊下に人影が二つ見えた。どちらも身体が大きくて、すぐに船長と副船長だと分かる。


 船長は、副船長に肩を担がれた状態で、ようやく歩けていた。赤い髪は、重力に負けて力なくうなだれている。


「どっ、どうしたんですか……!」


 私が走り寄ると、副船長は私のカオを見るなり、あきれ顔をした。


「美味そうな赤い果実が成ってたから、食ったんだとよ」

「……は?」

「それで――」


 副船長の言葉が続く前に、船長が頭を上げて「いてててて」とカオを歪めた。右手は、お腹の辺りを慰めるようにさすっている。


「もしかして……それでお腹壊したんですかっ?」

「あいてて……***、頼むからもう少し静かな声で」

「なんっであなたはそうなんですかっ! あれほど拾い食いはしないでって言ったのにっ!」

「おまえの声、腹に響く……」


 蒼いカオをして力なく笑う船長に、怒りと心配が同時に押し寄せる。


 すると副船長が、担いでいた船長の肩を降ろしながら言った。


「***、悪いがあと頼めるか?」

「……えっ?」

「なァに、これだけ軽口が叩けるんだ。胃薬でも飲ませてベッドに転がしときゃ治る」

「冷てェぞ、ベン!」

「自業自得だ」


 深いため息と共にそう吐くと、副船長は踵を返して本当に行ってしまった。


「ベン……ベンが冷たい……」

「いい加減にしないと、本当に見捨てられますよ」

「***も冷たい……」

「行きましょう。船長室まで、着いて行きますから」


 そう言って船長室の方へ足を進めたが、船長が歩き出す気配は一向にない。


 振り返って見てみると、船長は大きな身体で壁にもたれたまま、右手を突き出していた。


「……はい?」

「見てただろ? おれここまで担がれて来たんだよ。手を貸してくれ」

「いや、無理ですよ。身長差激しいのに」

「だから、ほれ」


 まるでお菓子でも催促する子どものように、船長は尚も右手をずずいと差し出した。


 な、なに? 手でも繋げって? 嘘でしょ無理。絶対無理。


 だけど、そうは思っても、私に拒否権がないことは察しがつく。船長は時々、よく分からないタイミングで頑固になる。今はまさに、そのタイミングらしい。そういうカオをしていた。


「ええ、もう……」


 わざとらしく、迷惑そうな声を出す。実際、本当に迷惑なのだ。


 好きな人の体温ほど、厄介なものはない。"触れる"という所業は、気持ちが溢れだしかねない要因の一つだからだ。


 仕方なく、私は船長の右腕の方へ回った。乱暴に引っ掴んでも優しく触れても、どっちにしても緊張が伝わってしまいそうで、怖かった。


「ほら、行きますよ」


 乱暴と優しさの中間くらいの力加減で、船長の右腕を持ち上げるようにして身体を支えた。


 船長は満足したらしく、ようやくよろよろと歩きだした。


「また得体の知れない物食べたりしたら、今度こそ本当に死にますよ」

「おっかしいなァ。あんなに美味そうだったのになァ」

「どこに成ってたんですか? そんな実」

「茂みあったろ? 昼間に会った」

「ああ、はい」

「あの辺で成ってたんだ。木の上の方に」

「……ということは、私が注意した時はすでに手遅れだったんですね」

「あァ。拾った後だった。残念だったなっ」

「威張らないで下さい」


 いつものようなやり取りをしていれば、両手の感触に意識もいかなくなるだろうと思ったが、そんなことはやっぱり無理で。


 手汗をかいてないだろうかとかかいてたとしてそれがバレてないだろうかとか早鐘を打ち始めた鼓動が血管を通して伝わってしまっていないだろうかとか、そんなことばかりが脳内を巡ってしまう。


 早く船長室に辿り着きたくて、自ずと歩みが速くなっていく。


 ようやく船長室へ辿り着くと、私は逃げるようにして船長の腕から手を離した。


 ドアノブに手を掛けて扉を引くと、船長の身体を無理やりその中へ押し込んだ。


「なんだよっ、押すなよっ」

「寝てて下さい。今、船医室から胃薬もらってくるんで」


 そう言い残して扉を閉めようとしたら、船長の手が私の手首を掴んで、中へ引き入れた。


「ちょっ……! なんっ」

「薬ならある」

「えっ」

「そこにあるから、取ってくれ」


 そこ、と言って船長が指差した先には、海図やら本やらペンやらガラクタやらで、かなり散らかっている机があった。


 こ、ここから探せって……。


 船長はというと、私に頼むだけ頼んで、さっさとベッドへ横たわってしまった。


 一つ、小さくため息をつくと、仕方なくその上を探った。


 体温に次いで厄介なのは、"匂い"である。その人特有の、香り。


 当たり前のことながら、この部屋は船長の匂いで溢れていた。うっかり大きく吸い込んでしまおうものなら、たやすく涙腺まで届いてしまうだろう。


 極力浅めに呼吸をしながら、私は本や海図を次々にひっくり返していった。


 しかし、探せど探せど、薬らしき物は見当たらない。


 さすがに苛々してきて、私は船長に問いかけた。


「船長。薬なんて見当たりませんが……」

「んあ?」

「薬。ないです」

「箱にねェか?」

「箱?」


 船長の方を振り向いてから、もう一度机の上を見た。あった。思いっきり目立つところに。


「先に言ってくださいよ……」


 思わず小言が口からもれて、そんな自分に辟易する。言われている船長も、きっと同じ気持ちだろう。実際、私の小言はうるさい。


 箱を持ち上げて、手近に置いた。蓋を開けると、いろんな種類の薬が、お弁当のおかずのように並んでいた。


「船長、胃薬どれですか?」

「ラベルに書いてある」

「ラベル?」


 よくよく見ると、確かにラベルはあった。その一つ一つに、薬名らしき単語と効能が、キレイな字で記されている。


「これ……船長の字じゃないですよね?」

「前に、ナースやってる女乗せたことあったろ」

「ナース? あァ、もしかして、この前上陸した町の大きな病院で、師長かなんかやってたっていう……」

「あァ。アイツが残していってくれたんだよ」

「ヘェ……」


 もう一度、まじまじとそのラベルを見た。


 思いやりに溢れた字だ。粗雑で読み物が苦手な船長のために、分かりやすく丁寧に書いてある。


 そういえば彼女は、とても思いやりのある子だった。彼女の言動はいつだって、自分のためではなく、他人のためにあった。


 特に、船長に対しては、敬意と愛情を持って接してくれていたように記憶している。


「懐かしいですね。お元気ですかね」


 ラベルの上の美しい文字をなぞりながら言った。確か、世界中の医学を学んでたくさんの人を救いたいと、彼女はそう言って船を下りた。


 そう。本当は、分かっている。彼らがただ単に、若さだけに魅了されているわけではないことを。


 実際、船長が傍らに置く女性に、中身がすっからかんな女性なんて、一人もいなかった。「赤髪のシャンクス」に、きちんとふさわしい女性ばかりだった。


「そうだなァ。元気にしてるといいな」

「ステキな子でしたよね」

「あァ。全体的な肉付きはいいのに、胸が小ぶりなのがまたたまらなかった」

「……」


 最低なんですけど。この人。


 私の蔑むような視線もなんなくかわして、船長は物思いに耽り始めた。


 船長は時たま、こうやって出会ってきた人々のことを思い出す。女性だけではなく、男性も老人も子供のことも。


 入道雲を見上げれば、ソフトクリームが好きだった女の子のことを。バラが咲けば、ダンスが得意だった女性を。ピザを食べていれば、大食い競争をしたおじいさんを。麦わら帽子のお店では、ルフィくんを。


 だけど、船長が私を思い出して物思いに耽るなんてことは、一度もない。これからもない。だって、ずっと一緒にいるから。


 私は、船長の最期を看取りたいと思っているけれど、船長が最期に想うのはきっと、そういう特別な出会いの数々なんだろう。


 私のことなんて、


 きっと微塵も――。


「***。――***っ」

「……! はいっ」

「どうした? ぼおっとして」

「え、あ、ああ、いえ。すみません。なんでも。ええっと、そうだ。胃薬胃薬……」


 慌てて薬箱を探った。『お腹を壊した時に』というラベルのところに薬が何包かあって、そのうちの一包を取り出した。


「すみません。お待たせしました」

「おう。ありがとう」


 薬を手渡すと、船長は歯で袋を破って、中身を口の中へ入れた。そして、ベッドサイドに置いてあった飲み水の入ったコップを手に持った。


「待った」

「んあ?」

「そのお水、いつのですか?」

「……」


 船長は、眉を寄せてから、首をぐいんと右側へひねった。


 船長の手からコップを取り上げると、窓を開けてその中身を捨てた。


「ひんへいひふらな。ほはへ」

「私が神経質なんじゃなく、船長が無頓着なんです。冷蔵庫、失礼しますね」


 お酒好きな船長専用の小さな冷蔵庫を開けると、水差しを取り出して、コップに注ぐ。


 それを船長へ手渡すと、船長はようやく薬を嚥下した。


「にっが」

「苦いとなんか効き目良さそうですよね」

「***、ついでに酒も取ってくれ」

「さっ、あとは横になって寝て下さい」


 コップにもう一杯水を注いで、ベッドサイドに置く。水差しを冷蔵庫にしまおうと、もう一度冷蔵庫を開けた。


 ああ、今日はなんだか変だ。


 いつもなら、するするとすりぬけてくれる感情が、どうも今日は胃に溜まる。


 今日一日でいろんなことがあったから、消化しきれていないのかもしれない。


 だけど、こんなことも初めてではない。誰だって、体調や心の状態に左右されて、うまく振る舞えない日がある。


 そして、こんな日は何も考えずに、ただひたすらゆっくり眠るに限るのだ。


 水差しをしまう時に、お酒の瓶を見つけた。


 船長が易々と取り出さないよう、水差しの陰に隠す。そしてそれを、さらに奥の方へ押し込んでいる時だった。


「――なァ」


 眠っているだろうと思っていた船長が、私にそう呼びかけた。


「なんですか? お酒ならダメですよ」


 船長の言わんとしていることを見抜いて、先回りする。


 船長は一呼吸置いて、言った。


「おまえ――おれと一度寝てみないか?」


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