まわる、まわる
見つめられる、とかではないんだけど。
目が合う、くらいなものなんだけど。
そんなわずかな間だというのに、あの目と目が合うと、私の脳も身体も、動かし方を忘れたみたいに機能が停止する。
大げさじゃなく、”殺された”みたいな。
あの目は私にとって、毒なのかもしれない。
*
「あら、懲りずにまたいらしたんですか? 船長さん」
ママのからかうような話し声につられて、私は野菜を刻んでいた手元からカオをあげた。
キッチンからホールを見れば、ママに相対する男の正体を探る。まァ、探らなくても、正体は分かりきっているんだけど。
「あァ。そろそろイイ答えが聞ける頃かと思ってな」
「さァ、それはどうかしら。……ロー船長さんたち、いらしたわ。奥の席にご案内して」
指示された女の子たちは、待ってましたと言わんばかりに競い合って走っていく。徒競走みたいだと、心の中で圧倒された。
「おっ、今日も来たな。モテモテ海賊団」
「あ、料理長」
「***、今のうちに下ごしらえだ。じゃんじゃん注文来るぞ」
「はっ、はい……!」
そうだ。圧倒されているヒマはない。まな板の上で待ちぼうけを食らっていた野菜たちを、私は慌てて刻み始めた。
*
「失礼します」
耳障りにならないくらいの音でノックすると、小さくドアを開けて隙間から滑るように中へ入った。
以前大きくドアをあけてしまった時、ママにこっぴどく叱られたもんだ。「ここはVIP席なんだから、なるべく外からは見られないようにしなければいけない」と。
テーブルは賑やかだった。キャスケット帽子の子がおどけて女の子たちを笑わせれば、少し大人っぽい子がそれをたしなめる。帽子には”Penguin”とプリントされていた。
数十人が騒がしくしている横で、ママと”あの男”は二人きりで語らっていた。
刺青だらけの手はママの太ももをいやらしくなでていて、顎ヒゲをたくわえた口は耳元で何かを囁いている。
”ママを船に乗せたいみたいよ。あの船長さん”
数日前、閉店した店内で耳にしたのは、そんな噂話だった。
イヤでも耳に届いたその話によると、どうやらあの船長さんは、ママにゾッコンらしい。毎日足しげく来店しては、ママを必死に口説いている。
うちのママはモテる。”ママ”といっても、私とさほど歳もかわらない。若くして苦労して、この店を立ち上げて。中身の美しさが、そのまま外見に表れているようなヒトだ。ママに憧れてこの店で働く子も少なくなかった。
そんなママのことだから、こんなことも初めてではない。だけど、あの船長さんは、今までママに言い寄ってきた男の人とはあきらかにレベルが桁違いだ。なんたって、億越えの賞金首。いよいよママも年貢の納め時かと、店の女の子たちは本気で他の働き口を探し始めている。
さて、そうなったら私はどうしたもんか。料理長はどうするんだろう。私にもどこか紹介してくれないかな。
そんなことを考えながら、持ってきた料理皿をテーブルに置いた。一つは賑やかなほう。そしてもう一つは、ママと船長さんのほう。
小さく一礼をして去ろうとした、その時だった。
「なんだ、これは」
低くてキレイな声がそう言った。まさか自分にかけられたものだとは思わなくて、私は足を止めなかった。だけど、わずかに室内がシンとしたので、私は慌てて振り向いた。
コバルトブルーの目が、まっすぐに私を見ていた。
「はっ、はいっ?」
「……なんだ、これは。と言った」
そう言って、武骨な指は目の前の料理皿を指した。いっきに全身が寒くなった。
「あ、す、すみません。お気に召さなかったら下げま、」
「だから。なんだ、これはって聞いてんだよ」
「***、これはなんのお料理?」
ママが助け舟を出してくれた。私はエプロンのすそを縋るように掴んだ。手が震えていると、知られたくなかった。
「あ、あの、炊き込みご飯です。お米を、野菜やシイタケ、糸こんにゃくなどと一緒に出汁で蒸してあります」
「……初めて見たな」
「ワ、ワノ国の料理だと聞いてます」
「……おまえが作ったのか」
「あ、は、はい」
「……へェ」
そう口の中で唸ると、船長さんはにやついた口元を作ってからママを見た。そして、「料理のできる女はいいな」と言った。ママは扇状のまつ毛をツンッと流して、そっぽを向いた。
どうやら、ヤキモチを妬かせようとしたらしい。噛ませ犬にされたことと船長さんの得意げなカオが不愉快で、私は再び一礼をしてそそくさと立ち去った。
ドアを閉めようと振り向いた時、あの目と目が合った。
本当に、藍が濃い。深くて溺れそう。蔦が足から這い上がってきて、引きずりこまれる。海の底みたいだ。
ああ、まわる。毒が。
あまりにも未知で、おそろしくて、私はその蔦を振り払うようにしてドアを閉めた。
*
「明日の夕方、島を出るって」
出勤一番、そんな噂話を耳にした。言わずもがな、あの海賊団のことだろう。ここは小さな村だ。最近の話題は、もっぱらあの海賊団のことだけだった。
「寂しくなるわねェ。イイ男ばっかりだったのに」
「きっともう一生、会うこともないでしょうねェ」
「私、今日ダメ元でペンギンくんに迫ってみようかなっ?」
「バカじゃないの、アンタ。あの人たちがこんな田舎者、相手にするわけないじゃない」
「そうそう。ママならまだしも」
「そう言えば、結局ママったらどうするのかしら?」
「だれか、何か聞いてる?」
「さァ、私は特に何も。……ねェ、***。アンタ何か聞いてる?」
マスカラをたっぷり塗った目が、一斉に私に向けられた。私は首を横に振った。
「あら、そう。まったく、こっちの身の振り方も考えなきゃいけないのに」
「まだ悩んでるんじゃない?」
「悩む必要なんてないじゃない! ねェ? あんなステキな人たちと、世界中を旅できるのよ?」
「バカね。旅行じゃないのよ? 海賊なんだから、命をおとすかもしれないし」
「それにママ、このお店好きだしねェ」
「それはそうだけどさァ」
おしゃべりをしながらも、みんなの手はテキパキとヘアメイクをしている。アシュラみたいだ。かわいくて、私は小さく笑った。
明日の夕方、か。
ダシを煮こんでいるナベに目を落とした。濁っていて、底が見えない。海の底も、こんな不安定さなんだろうか。
ママはおそらく、共に行ってしまうだろう。
香水をプッシュする回数、口紅を塗り直す回数、鏡をチェックする回数。あの船長さんに出会ってから、すべての回数がいつもより多い。
ママは、船長さんに恋をしている。つまり二人は、駆け引きを楽しみながらイチャついているのだ。
海か。広いな。広いだろうな。この村何個分かな。わからないけど。かなり広いんだろうな。
やっぱり私にとっては、未知でおそろしい世界だ。
この日の夜、二人は宿に行ったっきり、ついには帰って来なかった。
*
「おっ、重……! 買いすぎた……!」
出勤前に買ってきた大量の食材を引きずるようにして、私はよたつきながら店へと向かった。
ビニール袋の取っ手が手のひらに食いこんでいる。指がちぎれそうだ。いっそもう本当に引きずってしまおうか。ダメだ。食材がダメになる。
脳内でああだこうだと呻きながらも、足取りが重いことに私は気付いていた。頭の中を騒がしくしていないと、余計なことばかり考えてしまうことも。
この感情は、いったいなんなんだろう。投げ出したいような、泣きわめきたいような、叫びたいような、暴れたいような、この言いようのない感情は。
ただひとつわかっていることは、今少しでも気を抜いたら、そのすべてを実行してしまいそうだということ。そうしてしまったら、私の中の何かが、音を立てて崩れてしまいそうだということだった。
前方から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。カイゾクとカイグンに扮して、ダンボールで作られたチャチな刀を交えながら元気に走り抜けていく。
そういえば、あの人も刀を持ってたな。そうか。あれはあの船長さんの真似っこか。子供になんて好かれそうにないのに。あの目が怖くないのだろうか。
気付いてはいけない。
寂しいのは、ママがいなくなるからじゃないことも。
悔しいのは、あの店で働けなくなるからじゃないことも。
切ないのは、今日の夕焼けがやたらキレイだからじゃないことも。
知ってはいけない。自覚してはいけない。
這い上がってくる蔦が、まわってくる毒が、
心地良かったことを。
忘れたい。あの目を。あの声を。あのひとを。
だって、あの人、あの人には、
もう一生、会えない。
ぼだぼだぼだっ、と、ビニール袋に水が弾いた。雨かと思ったら、頬が生温かい。私は泣いていた。
もっと美しくしていればよかった。お化粧も、ちゃんとしていればよかった。爪も、こんなボロボロじゃなくて、もっとちゃんと。
わかってる。そんなことじゃない。あの人の心を魅了したのは、そんなことなんかじゃ。
悔しい、悔しい。切ない。どうしようもない。寂しい。会いたい。
あの人に、会いたい。
目をガシガシ拭って、歯を食いしばった。負けたくない。”何に”なんて、わからないけど。これ以上心が折れたら、もう立ち直れなさそうだった。
大きく一歩、足を出して、いつもの花屋を曲がった。そして、私のすべてが止まった。
店の前に、あの男が立っている。
横を向いていて、まだ私の存在には気付いていない。
壁に寄りかかりながら、退屈そうに夕焼けを見上げている。
そのカオは作りモノのように完璧で、やっぱり美しかった。
あんなに騒がしかった頭の中が、いっきに真っ白になった。いつのまにか手の力が抜けていて、ビニール袋が足元でガサッと音を立てた。
その音のせいなのか、男はようやくこちらへ振り向いた。
海の底みたいな目が、私を見た。
這い上がってくる。蔦が。
まわる、まわる。毒が。
「……あァ。よォ」
「……」
「? ……よォ」
「こ、……んばんは」
「”こんばんは”?」
船長さんは小首を傾げると、空を見た。そして、私に向き直ると、言った。
「まだ、”こんにちは”だろ」
「……もう、夕方ですよ」
「……明るいうちはいいんだよ。”こんにちは”で」
「いや、……そうじゃ、なくて」
「あ?」
凄むように眉をひそめた船長さんに、怯むこともなく私は言った。
「今日の、夕方に出るって。船が。村を」
まるで覚えたてのコトバを話すように、片言になってしまった。だけど、きちんと伝わったようで、船長さんは「あァ。」と頷いた。
「じき出る。クルーは全員もう船だ」
「……なんで、じゃあ、ここに」
「……」
船長さんは身体ごと私に向いて、笑った。
「新しいクルーを、迎えにな」
まっすぐに私を見てくる目と、たゆんだ口元に思わず期待してしまった。だけど、船長さんの足元に置かれた旅行バッグを見て、現実に引き戻される。ママのお気に入りのバッグだった。
「あの女、おれに迎えに来させるとは、なかなかいい度胸してやがる。こんな荷物まで預けやがって」
「……海賊に、向いてるかもしれませんね」
「……あァ。そうかもな」
可笑しそうに笑って、船長さんは言った。日の当たるところで見ると、少し幼く思える。妖しげに笑わなければ、意外と年相応なのかもしれない。
「……あの」
「あ?」
「よろしく、お願いします」
深く頭を下げて、そう言った。
ママのこと、大好きだった。海賊なんて、とても心配だけど。この人と一緒なら、きっと大丈夫だろう。
船長さんは、切れ長の目をほんの少しまんまるにした。
「なんだ。聞いてたのか。アイツ、おれから言えって言ってたのにな」
「え、あ、いえ。直に聞いたわけじゃないんですけど。店ではもう噂になってたので」
「へェ。まァ、それなら話は早いな。異論はねェんだろ」
「異論も何も、……ママが決めることなので」
「……ヘンな女だな、おまえ。まァ、それ相応の代償も払ってる。今更異論を唱えられても、聞き入れねェからな」
「だ、代償?」
「あァ」
船長さんは、先ほど寄りかかっていた店の壁に手をついて言った。
「店の改装にかかる金と、船にあったありったけの上等な酒。それから、」
Aの刺青が入った指を、自分の方へ向けた。
「おれの、カラダ」
「カ、カラダ……」
「海賊相手に商売とは、根っからの商人だな。アイツは。駆け引きも、まァ楽しめた」
打算的なのは嫌いじゃねェ。と付け加えて、船長さんは笑った。その言い草が素直じゃなくて、なおさら幼く感じた。
だけど、改装なんて。初耳だ。てっきり、店は閉めるもんだと思っていたから。いずれにしても、ありがたかった。悩みがひとつ減った。
「……で?」
「は、はい?」
「挨拶は、して行かなくていいのか」
「……あ」
ほんの少し悩んだが、私は首を横に振った。「寂しくなるので」と伝えれば、船長さんは「へェ」とだけ言った。
「日が沈む。そろそろ行くぜ」
「あっ、あの……!」
思わず引き止めていた。また、あの目と目が合う。何を。何を言うつもりなんだろう、私は。
いつも数秒しか合わない目を、ただただみつめた。いや、そうじゃない。そらせなかった。深い藍に囚われて、溺れていく。息が苦しい。私はずっと、こうなるのが怖かった。
”あなたと一緒に、海へ行きたい。”
その願いが、心の底から溢れてきて、ノドの奥で止まる。言わなきゃ。言わなければ。今じゃなきゃ。もう、”またね。”なんてないのに。
でも、だけど、
「……」
「……」
「……なんだよ」
「……」
「……」
「……いえ、なんでも」
「……」
「……すみません」
言えるはずがなかった。だって、存在が大きすぎて、おこがましい。今の私がそれを伝えること自体、恥なのだ。
「あの、……じゃあ」
足元で放置されていた買いもの袋を持ち直した。さっきよりも重い。心の中と比例している。
”さようなら”も、”お元気で”も、”気をつけて”も、言えなかった。別れを飾る言葉は、言いたくなかった。
「あァ、もう行くぞ」
船長さんは、私の方へ歩いてきた。いや、正しくは、海の方へ。泣き叫んでしまわないうちに、早く行ってほしかった。
買い物袋と、ちぎれそうな取っ手と、地面しか映っていない目に、黒いブーツの爪先が加わる。
船長さんが、私の目の前で立ち止まった。俯いていた頭を上げるより早く、刺青だらけの右手が、買いもの袋を持ち上げた。
「重いな。買いすぎだろ」
それを持ったまま、船長さんは歩き出した。唖然している私を追い越して、長い脚ですたすたと。ようやく、はっ、と気付いて、私は慌てて追いかけた。
「あっ、あのっ」
「おまえ、これよく持てたな。袋がちぎれたら悲惨だ」
「すっ、すみませんっ、それっ、うちのなんですっ」
「? だから、持ってやってんだろ」
「う、うちってあのっ、お店のっ」
「あァ。買ってきたんじゃねェのか。しかしおまえ、量考えろよ。これ泥棒の域じゃねェか」
「……」
なんか。何か、おかしい。いや、本当は、結構前から思ってた。
なんか、話がまったく噛み合ってない気が、
「貝に海老にパプリカ。今日は何作る気なんだ」
「あ、あの、……パ、パエリヤを」
「パエリヤ? 聞いたことあるな。食ったことはねェけど。米か?」
「……お、お米です」
「そうか。それは楽しみだ」
「……」
どくっ、どくっ、どくっ、と、鼓動が高鳴る。一つ可能性が、頭をよぎる。確かめなければ。だけど、大きな歩幅に着いて行くのに必死で、うまく声が出せない。
「あれも良かった。”タキコミご飯”」
「……お、おいしかったですか」
「あァ。おまえのメシを初めて食った時、一口で分かった。おれの味覚にドンピシャだ」
「ド、ドンピシャ?」
「あァ。特に、タキコミご飯は良かった。あァ、そうだ」
何かを思いついたような声を出すと、船長さんは私の方へ振り向いた。
オレンジの光で、藍色の瞳が透ける。その向こうで、水平線が誘うようにキラキラと揺れていた。
「明日、作れよ。あれ」
「あ、……あした?」
「あァ。材料は、……まァ、なんとかなんだろ。似たようなもんがあれば」
「あ、……明日が、あるんですか」
「……は?」
口から、そんな質問がこぼれた。船長さんが、何を言い出すんだ、というカオをする。だけど、だって、
私とあなたのあいだに、明日があるんですか。
すると船長さんは、声をあげて笑った。はははっ、って。少年みたいに、爽やかに。そして、
「そうだな。今日、船が沈まなきゃあ、来るんじゃねェか」
おどけるように肩を竦めて、そう言った。
蔦が、わっさわっさと這い上がってくる。
毒が、全身の血管を走ってまわる。
まわり、まわって、
ああ、私、
あなたが、すきです。
夕焼けが、海におっこちていく。今の私みたいだ。もしかしたらあの夕日は、海に恋をしているのかもしれない。
「ところで、今日おまえに会ってから、なんとなく感じてたんだが」
船の手前で、船長は足を止めた。船の上から大きな白いクマが手を振って出迎えている。未知だ。これからの世界は、きっと、もっと。
「おれとおまえ、なんか話噛み合ってなくねェか?」
まわる、まわる
あ、あの、今さらなんですけど、私、一緒に行っていいんですか。
……おまえ、船出て二日目でそれ聞くのか。[ 4/5 ][*prev] [next#]
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