トラファルガー・ローの、異変 -まわる、まわる続編-

 この大海賊時代を騒がせている海賊団の一つ。"ハートの海賊団"が、私の住んでいた小さな村を訪れてから、数日。


 船長兼船医、トラファルガー・ローの胃袋を掴んだらしい私は、あれよあれよというまに一村人から海賊へと仕立て上げられた。


 ママが持たせてくれた小さな旅行カバンと、頼りないこの身一つ。


 そんな私を、ペンギンくんやベポくん、シャチくんを始めとする仲間たち。……それに、


 ロー船長が、温かく見守りながら、支えてくれた。


 ロー船長への恋心に目を向ける暇もないくらいに、一日一日が目まぐるしく終わっていって。


 それでも文字通り、ロー船長と一緒にいられるだけで、私は幸せを感じていた。





「ん? あれは……」


 停泊中の街中。


 一緒に買い出しをしていたペンギンくんが、何かに気付いて足を止めた。


「どうしたの? ペンギンくん」


 私の問いかけに、ペンギンくんは言葉ではなく、顎で答えた。キレイに尖った顎で指し示した先には、見慣れたシルエットがあった。


「あれって……ロー船長?」


 左手に愛用の長刀、右手に買い物袋を引っ提げて、ロー船長が道の真ん中で突っ立っている。


 正確には、ただ突っ立っているわけではなかった。一つに見えたシルエットは、よく見ると二人分あった。


 一つはロー船長。もう一つは、胸とお尻が丸く膨らんでいる。女性だ。


「……誘われているな」

「えっ」

「ログが溜まるのは、確か明日の朝か」

「あ、あの」

「まァ、大丈夫か」


 一人でそう納得すると、ペンギンくんはさっさと歩き始めてしまった。


 ロー船長の方とペンギンくんの背中を交互に見てから、私は慌ててペンギンくんを追った。


「そ、それって」

「あァ」

「今日、ロー船長は、その……戻らないってこと?」

「あァ」

「……」

「見ただろう。イイ女だった」

「……」


 確かに。胸とお尻はきちんと出ているのに、お腹周りはぺったんこ。太ももは肉厚で柔らかそうなのに、足首は棒のように細い。腰まで伸びた黒髪は、遠目から見ても絹のようになめらかだった。


「……ロー船長って」

「あァ」

「ああいう女の人が好きなの?」

「そうだな」

「……」

「しかもあれは、割とドストライクな方だ」

「……」


 歩きながら、私は自分の身体を見た。見て、すぐに目をそらした。ダメだ。違いすぎる。


 一人落ち込んでいると、右斜め上から視線を感じた。


 ペンギンくんが、愉しげに口元を歪めながら、私を見下ろしていた。


「大変だな、おまえも」

「なっ、なにが? なんの話」

「さて、何ヶ月持つか」

「だ、だからなんの」

「さっさとあきらめたほうが、身のためだぞ」


 "叶わぬ恋は、長引くとツライからなァ"、とかなんとか。意地悪くそう言って、ペンギンくんはすたすたと行ってしまった。か、かわいくない。


「ドストライクか……」


 胸が大きくなる食材、調べてみようかな。


 無謀な野望を抱きながら、私も一緒に船へと戻って行った。





「あれっ、どうしたんですか? 船長」


 夕飯時のキッチン。船員全員分の夕食を作っていると、キッチンカウンターの向こう側からそんな声が聞こえてきた。この声は、ペンギンくんだ。


 船長、今日は帰って来ないんじゃ?


 ご飯を盛り付けながらそんなふうに思ったが、その後に聞こえてきた「何がだ」は、間違いなくロー船長の声だった。


「あ、いえ。実は今日、街であなたと女性が話しているのを見かけたので」

「……あァ」


 ロー船長は、合点したように呟いた。よく今の一言で分かったな。ペンギンくんの言わんとしていることが。


 この船に乗って分かったこと。ロー船長との会話は、極力省エネで行われる。普通なら三往復は要するであろう会話も、ロー船長が相手だと一往復で済む。


 ロー船長は頭の回転が速いから、会話も先の先を読む癖がついているのだろう。


「気分が乗らなかっただけだ。……おい」


 後半の呼びかけは、少し音量が大きかった。つられてキッチンカウンターの方を見れば、ロー船長はカウンターに肘をついて私を見ていた。


「はっ、はいっ」

「メシ、まだかよ」

「あっ、もう出来てます。お持ちしますね」

「あァ」


 素直な返事と共に、ロー船長はカウンターから引っ込んでいく。すぐ近くの椅子を引くと、愛刀を傍らに置いてテーブルに頬杖をついた。


 かわいい。その様子が、まるで母親のご飯を待つ子供のようで、母性本能がくすぐられる。


 ……母親って。妄想くらい「恋人同士みたい」とか思ってもいいのに。


 勝手に落ち込みながら、ロー船長専用のお皿に、海藻サラダ、魚の煮付け、山菜ご飯を盛り付ける。


 お盆にその全てを乗せて、私はロー船長の元へ向かった。


「お待たせしました」


 お盆ごとロー船長の前に置くと、ロー船長は目を煌めかせた。まるで宝石でも目の前にしているみたいだ。


「……タキコミご飯」

「今日は、山菜を入れてみました」

「サンサイ?」

「山で採れる植物です。今日、珍しく山菜を売っているお店があったので」

「……へェ」


 ご飯と一緒にすくったゼンマイをまじまじと見つめながら、ロー船長はそれを口に入れた。


 数回咀嚼してから、納得したように何度か深く頷く。それからは無言でサラダ、煮付け、ご飯、煮付け、ご飯、ご飯と、箸と口を休めることなく動かした。


 山菜なんて、海で生きる人の口に合うかなって、少し不安だったけど。


 気に入ってもらえたようで良かった。


 ほっとしたのと嬉しかったのとで、私はほくほくしながら踵を返した。


 返したところで「***」と、低い声が私を呼んだ。


「はっ、はいっ」


 慌てて振り向くと、ロー船長がハムスターみたいに頬を膨らませながら、言った。


「話がある。後で船長室に来い」

「は、話……ですか?」


 ロー船長は、言葉で答えることなく、咀嚼しながら二回頷いただけだった。


 それ以上の情報は引き出せなさそうだったので、私は「はい」とだけ答えて、一礼してキッチンへ戻った。


 すれ違ったペンギンくんとシャチくんが、目だけで「お前、何やらかしたんだ」と訊いてくる。


 こっちが訊きたい。音速でここ数ヶ月を振り返ってみたが、まったく心当たりがない。


 まさか、"おまえはこの船にふさわしくない"とか"船を降りろ"とか。


 そんな話なんだろうか。


 それともまさか、"おまえが好きだ"とか。


 思い上がった考えと共に、昼間に見たあの女性の姿を思い出した。愛の告白論は、真っ先に頭から消えた。


 いずれにしても、どんな話なのかが気に掛かってしまって、それからの仕事はまったく手につかなかった。





「勃たなくなった」


 藍の濃い瞳で、まっすぐに私を見つめながら、ロー船長は開口一番そう言った。


「……」

「……」

「……はい?」

「勃たなくなった」

「……」

「……」

「え、ええっと」

「……」

「それは、つまり」

「……」

「……性交渉ができない、ということでしょうか」

「あァ。勃たねェからな」

「……」

「……」

「は、はァ……」

「……」

「なるほど……」


 私は、考え込むフリをした。フリだけ。実際は、頭の中を整理したかった。


 話があるって。ロー船長。わざわざ私を呼び出して。え? 話って、これ?


「三大欲求が逆転してる」


 大混乱している私を置いてけぼりにして、ロー船長は話を進めた。


「少し前まで、性欲、睡眠欲、食欲の順だったのが」

「……」

「今は、食欲、睡眠欲、性欲の順に優先順位が入れ替わってる」


 刺青の入った細く長い人差し指が、私を指した。


「おまえが来てからだ」

「えっ」

「つまりは、おまえのメシがうますぎるせいだ」

「……」

「どうしてくれる」

「……」


 そ、


 そんなこと言われましても。


「……そんなこと、言われましても」


 何の言葉も思い付かなかったので、仕方なく素直に思ったことを口にした。


 ロー船長は、険しく眉間に皺を寄せた。


「おまえのせいだろ。なんとかしろ」

「そんな無茶な」

「もう少しだけマズく作れ」

「で、出来ません。おいしく食べてほしいです」

「タキコミご飯を週三回にしろ」

「今も週三回です」

「メシの量を減らせ」

「ロー船長、いつも勝手におかわり持っていくじゃないですか」

「……」

「今日だって、ペンギンくんに"食べ過ぎですよ"って止められてたのに……」


 都合が悪くなったようで、ロー船長は、つんっとそっぽを向いた。


 ハァっ、と、大きなため息をつくと、ロー船長は座っていたベッドへそのまま倒れ込んだ。


「あー……セックスしてェ」

「……」

「まいった……」

「……」

「おまえのメシがうますぎる」

「……ありがとうございます」


 倒れ込んだ状態で、ロー船長はギロッと私を睨んだ。


 気圧されるように「す、すみません」と詫びた。なんて理不尽。


 いや、しかし。


 何かと思って来てみれば、こんな話だったとは。


 でも、本気で悩んでるんだろうな。きっと。私をわざわざ呼び出すくらいなのだから。


 ロー船長の立場で考えたら、好みの女性を目の前にして、心とは裏腹に体が反応しなかったら、それはやっぱり落ち込むかもしれない。


 ましてや彼は、自由に生きる海賊。何事も、本能に従って行動したいはずだ。


 頭を抱えたまま、ベッドに倒れ込んでいるロー船長を見る。


 力になるべきだ。この船の、コックとして。


「……滋養強壮に効く食材を、明日から使用してみます」


 そう提案すると、ロー船長はむくりとカオを起こした。


「あんのか。そんなの」

「は、はい。一般的には、ウナギとかアナゴとか。新世界で獲れるかは分かりませんが」

「ベポに言っておく」

「あとは、今ある食材だと、ニンニクとかゴマとか。せ、精力アップだと、牡蠣も良いって聞いたことがあります」

「牡蠣か。この前食ったタキコミご飯にも入ってたな」

「牡蠣の量を増やして、また作りますね」

「あァ、頼む」


 脱力したように、ロー船長の頭は枕に沈んだ。一重のすっきりとしたまぶたが、眠たげにとろとろ落ちかけている。


「眠い、ですか?」

「あァ。やたら眠くなんだよ。最近」

「満腹になると、眠くなりますもんね」

「……これもおまえのせいか」

「えっ」


 "ああー"と呻いて、ロー船長は自分のお腹をさする。パーカーが捲れて、キレイに割れた腹筋が見えた。


「腹減った……」

「ええ? さ、さっき食べたばかりですよ」

「なんか……トマトみてェな匂いがする」

「トマト? ……あ」


 心当たりがあったので、私は自分の二の腕の辺りをすんすんと鼻を鳴らして嗅いだ。


 ロー船長が、薄目を開けて私を見た。


「私かもしれません。さっき、明日の朝ご飯の仕込みをしてきたので……」

「……」


 すると、ロー船長は突然、ベッドに横たわったまま、大きく両手を広げた。


「……」

「……はい?」

「嗅がせろ」

「はっ、はいっ?」

「匂いで我慢する」

「におっ……!」

「これ以上食ったら肥えちまうからな」

「ロっ、ロー船長は太らない体質だから大丈夫ですっ」

「船長命令だ」

「……!」


 この船に乗って、もう一つ分かったこと。


 ロー船長は、一度言ったら引き下がらない。


「し、失礼します……」


 船内履きにしている靴を脱いで、ベッドへ片膝をついた。


 ギシッと色っぽい音が出て、ますます緊張感が高まる。


 どこまで近付いたらいいかとにじり寄っていると、ロー船長が私の右手を乱暴に引いた。


 私は、すっぽりとロー船長の胸に収まった。


「ちょ……! ロっ、ロー船長……!」

「あァ、これだ。うまそうな匂い」

「っ、」


 他意はないと思うが、ロー船長が言うとどうしてもいやらしい意味に感じる。


 こちらの動揺などおかまいなしに、ロー船長は私の首筋付近で深呼吸をした。


「明日の朝飯、なんだよ」

「あ、明日は……パエリア風の洋食っぽい炊き込みご飯です。海鮮の」

「それでこの匂いか」

「……おいしく出来ましたよ」

「言うな。腹が鳴りそうだ」


 耳元で、小さく笑う声がした。心なしか、いつもより声も雰囲気も柔らかい。


 愛しさが増して、泣きそうになる。


 堪え切れなくなって、ロー船長の背中に手を回してしまおうとした、その時だった。


「……ん?」


 何かに気付いたような声の後、ロー船長はおもむろに二つの身体を引き剥がした。


 そして、あろうことか、自らの股間を鷲掴んだのである。


「ちょっ、なっ、何してっ」

「勃った」

「……へ?」

「勃ってんな、これ」


 そう呟きながら、わしっわしっと、確かめるようにそこを繰り返し握っている。その動きがあまりにも乱暴で、痛くないのかと心配になった。


 まァ、いずれにしても、そういうことなら……


「よ、良かったですね」

「……」


 ロー船長は、しばらくのあいだ思案顔になった。そして、がばっと身体を起こすと、そそくさとベッドから降りた。


「ロ、ロー船長? どこへ」

「街へ戻る」

「えっ、い、今からですか?」


 意気揚々と愛刀を掴むと、くるりと振り返って、言った。


「朝飯までには帰る」

「あ……は、はい」


 私の返事を待たずして、ロー船長はさっさと船長室を出た。閉められたドアに向かって、"行ってらっしゃい"と口にする。


 "叶わぬ恋は、長引くとツライからなァ"


「本当だね……」


 あの意地悪な笑顔にそう返して、私はロー船長の匂いが溢れた部屋をあとにした。


トラファルガー・ローの、異変


――翌朝。


キャプテン、どうしたんだろう。あんなに落ち込んで。ねェ、シャチ?


そっとしておいてやれ、ベポ。本番直前で萎えたらしい。


***は朝から真剣なカオして、何を調べているんだ?


アーモンド、あわび、豚レバー……なるほど、鶏もも肉もEDにはいいんだね。ふむふむ。


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