トラファルガー・ローの、異変 -まわる、まわる続編-
この大海賊時代を騒がせている海賊団の一つ。"ハートの海賊団"が、私の住んでいた小さな村を訪れてから、数日。
船長兼船医、トラファルガー・ローの胃袋を掴んだらしい私は、あれよあれよというまに一村人から海賊へと仕立て上げられた。
ママが持たせてくれた小さな旅行カバンと、頼りないこの身一つ。
そんな私を、ペンギンくんやベポくん、シャチくんを始めとする仲間たち。……それに、
ロー船長が、温かく見守りながら、支えてくれた。
ロー船長への恋心に目を向ける暇もないくらいに、一日一日が目まぐるしく終わっていって。
それでも文字通り、ロー船長と一緒にいられるだけで、私は幸せを感じていた。
*
「ん? あれは……」
停泊中の街中。
一緒に買い出しをしていたペンギンくんが、何かに気付いて足を止めた。
「どうしたの? ペンギンくん」
私の問いかけに、ペンギンくんは言葉ではなく、顎で答えた。キレイに尖った顎で指し示した先には、見慣れたシルエットがあった。
「あれって……ロー船長?」
左手に愛用の長刀、右手に買い物袋を引っ提げて、ロー船長が道の真ん中で突っ立っている。
正確には、ただ突っ立っているわけではなかった。一つに見えたシルエットは、よく見ると二人分あった。
一つはロー船長。もう一つは、胸とお尻が丸く膨らんでいる。女性だ。
「……誘われているな」
「えっ」
「ログが溜まるのは、確か明日の朝か」
「あ、あの」
「まァ、大丈夫か」
一人でそう納得すると、ペンギンくんはさっさと歩き始めてしまった。
ロー船長の方とペンギンくんの背中を交互に見てから、私は慌ててペンギンくんを追った。
「そ、それって」
「あァ」
「今日、ロー船長は、その……戻らないってこと?」
「あァ」
「……」
「見ただろう。イイ女だった」
「……」
確かに。胸とお尻はきちんと出ているのに、お腹周りはぺったんこ。太ももは肉厚で柔らかそうなのに、足首は棒のように細い。腰まで伸びた黒髪は、遠目から見ても絹のようになめらかだった。
「……ロー船長って」
「あァ」
「ああいう女の人が好きなの?」
「そうだな」
「……」
「しかもあれは、割とドストライクな方だ」
「……」
歩きながら、私は自分の身体を見た。見て、すぐに目をそらした。ダメだ。違いすぎる。
一人落ち込んでいると、右斜め上から視線を感じた。
ペンギンくんが、愉しげに口元を歪めながら、私を見下ろしていた。
「大変だな、おまえも」
「なっ、なにが? なんの話」
「さて、何ヶ月持つか」
「だ、だからなんの」
「さっさとあきらめたほうが、身のためだぞ」
"叶わぬ恋は、長引くとツライからなァ"、とかなんとか。意地悪くそう言って、ペンギンくんはすたすたと行ってしまった。か、かわいくない。
「ドストライクか……」
胸が大きくなる食材、調べてみようかな。
無謀な野望を抱きながら、私も一緒に船へと戻って行った。
*
「あれっ、どうしたんですか? 船長」
夕飯時のキッチン。船員全員分の夕食を作っていると、キッチンカウンターの向こう側からそんな声が聞こえてきた。この声は、ペンギンくんだ。
船長、今日は帰って来ないんじゃ?
ご飯を盛り付けながらそんなふうに思ったが、その後に聞こえてきた「何がだ」は、間違いなくロー船長の声だった。
「あ、いえ。実は今日、街であなたと女性が話しているのを見かけたので」
「……あァ」
ロー船長は、合点したように呟いた。よく今の一言で分かったな。ペンギンくんの言わんとしていることが。
この船に乗って分かったこと。ロー船長との会話は、極力省エネで行われる。普通なら三往復は要するであろう会話も、ロー船長が相手だと一往復で済む。
ロー船長は頭の回転が速いから、会話も先の先を読む癖がついているのだろう。
「気分が乗らなかっただけだ。……おい」
後半の呼びかけは、少し音量が大きかった。つられてキッチンカウンターの方を見れば、ロー船長はカウンターに肘をついて私を見ていた。
「はっ、はいっ」
「メシ、まだかよ」
「あっ、もう出来てます。お持ちしますね」
「あァ」
素直な返事と共に、ロー船長はカウンターから引っ込んでいく。すぐ近くの椅子を引くと、愛刀を傍らに置いてテーブルに頬杖をついた。
かわいい。その様子が、まるで母親のご飯を待つ子供のようで、母性本能がくすぐられる。
……母親って。妄想くらい「恋人同士みたい」とか思ってもいいのに。
勝手に落ち込みながら、ロー船長専用のお皿に、海藻サラダ、魚の煮付け、山菜ご飯を盛り付ける。
お盆にその全てを乗せて、私はロー船長の元へ向かった。
「お待たせしました」
お盆ごとロー船長の前に置くと、ロー船長は目を煌めかせた。まるで宝石でも目の前にしているみたいだ。
「……タキコミご飯」
「今日は、山菜を入れてみました」
「サンサイ?」
「山で採れる植物です。今日、珍しく山菜を売っているお店があったので」
「……へェ」
ご飯と一緒にすくったゼンマイをまじまじと見つめながら、ロー船長はそれを口に入れた。
数回咀嚼してから、納得したように何度か深く頷く。それからは無言でサラダ、煮付け、ご飯、煮付け、ご飯、ご飯と、箸と口を休めることなく動かした。
山菜なんて、海で生きる人の口に合うかなって、少し不安だったけど。
気に入ってもらえたようで良かった。
ほっとしたのと嬉しかったのとで、私はほくほくしながら踵を返した。
返したところで「***」と、低い声が私を呼んだ。
「はっ、はいっ」
慌てて振り向くと、ロー船長がハムスターみたいに頬を膨らませながら、言った。
「話がある。後で船長室に来い」
「は、話……ですか?」
ロー船長は、言葉で答えることなく、咀嚼しながら二回頷いただけだった。
それ以上の情報は引き出せなさそうだったので、私は「はい」とだけ答えて、一礼してキッチンへ戻った。
すれ違ったペンギンくんとシャチくんが、目だけで「お前、何やらかしたんだ」と訊いてくる。
こっちが訊きたい。音速でここ数ヶ月を振り返ってみたが、まったく心当たりがない。
まさか、"おまえはこの船にふさわしくない"とか"船を降りろ"とか。
そんな話なんだろうか。
それともまさか、"おまえが好きだ"とか。
思い上がった考えと共に、昼間に見たあの女性の姿を思い出した。愛の告白論は、真っ先に頭から消えた。
いずれにしても、どんな話なのかが気に掛かってしまって、それからの仕事はまったく手につかなかった。
*
「勃たなくなった」
藍の濃い瞳で、まっすぐに私を見つめながら、ロー船長は開口一番そう言った。
「……」
「……」
「……はい?」
「勃たなくなった」
「……」
「……」
「え、ええっと」
「……」
「それは、つまり」
「……」
「……性交渉ができない、ということでしょうか」
「あァ。勃たねェからな」
「……」
「……」
「は、はァ……」
「……」
「なるほど……」
私は、考え込むフリをした。フリだけ。実際は、頭の中を整理したかった。
話があるって。ロー船長。わざわざ私を呼び出して。え? 話って、これ?
「三大欲求が逆転してる」
大混乱している私を置いてけぼりにして、ロー船長は話を進めた。
「少し前まで、性欲、睡眠欲、食欲の順だったのが」
「……」
「今は、食欲、睡眠欲、性欲の順に優先順位が入れ替わってる」
刺青の入った細く長い人差し指が、私を指した。
「おまえが来てからだ」
「えっ」
「つまりは、おまえのメシがうますぎるせいだ」
「……」
「どうしてくれる」
「……」
そ、
そんなこと言われましても。
「……そんなこと、言われましても」
何の言葉も思い付かなかったので、仕方なく素直に思ったことを口にした。
ロー船長は、険しく眉間に皺を寄せた。
「おまえのせいだろ。なんとかしろ」
「そんな無茶な」
「もう少しだけマズく作れ」
「で、出来ません。おいしく食べてほしいです」
「タキコミご飯を週三回にしろ」
「今も週三回です」
「メシの量を減らせ」
「ロー船長、いつも勝手におかわり持っていくじゃないですか」
「……」
「今日だって、ペンギンくんに"食べ過ぎですよ"って止められてたのに……」
都合が悪くなったようで、ロー船長は、つんっとそっぽを向いた。
ハァっ、と、大きなため息をつくと、ロー船長は座っていたベッドへそのまま倒れ込んだ。
「あー……セックスしてェ」
「……」
「まいった……」
「……」
「おまえのメシがうますぎる」
「……ありがとうございます」
倒れ込んだ状態で、ロー船長はギロッと私を睨んだ。
気圧されるように「す、すみません」と詫びた。なんて理不尽。
いや、しかし。
何かと思って来てみれば、こんな話だったとは。
でも、本気で悩んでるんだろうな。きっと。私をわざわざ呼び出すくらいなのだから。
ロー船長の立場で考えたら、好みの女性を目の前にして、心とは裏腹に体が反応しなかったら、それはやっぱり落ち込むかもしれない。
ましてや彼は、自由に生きる海賊。何事も、本能に従って行動したいはずだ。
頭を抱えたまま、ベッドに倒れ込んでいるロー船長を見る。
力になるべきだ。この船の、コックとして。
「……滋養強壮に効く食材を、明日から使用してみます」
そう提案すると、ロー船長はむくりとカオを起こした。
「あんのか。そんなの」
「は、はい。一般的には、ウナギとかアナゴとか。新世界で獲れるかは分かりませんが」
「ベポに言っておく」
「あとは、今ある食材だと、ニンニクとかゴマとか。せ、精力アップだと、牡蠣も良いって聞いたことがあります」
「牡蠣か。この前食ったタキコミご飯にも入ってたな」
「牡蠣の量を増やして、また作りますね」
「あァ、頼む」
脱力したように、ロー船長の頭は枕に沈んだ。一重のすっきりとしたまぶたが、眠たげにとろとろ落ちかけている。
「眠い、ですか?」
「あァ。やたら眠くなんだよ。最近」
「満腹になると、眠くなりますもんね」
「……これもおまえのせいか」
「えっ」
"ああー"と呻いて、ロー船長は自分のお腹をさする。パーカーが捲れて、キレイに割れた腹筋が見えた。
「腹減った……」
「ええ? さ、さっき食べたばかりですよ」
「なんか……トマトみてェな匂いがする」
「トマト? ……あ」
心当たりがあったので、私は自分の二の腕の辺りをすんすんと鼻を鳴らして嗅いだ。
ロー船長が、薄目を開けて私を見た。
「私かもしれません。さっき、明日の朝ご飯の仕込みをしてきたので……」
「……」
すると、ロー船長は突然、ベッドに横たわったまま、大きく両手を広げた。
「……」
「……はい?」
「嗅がせろ」
「はっ、はいっ?」
「匂いで我慢する」
「におっ……!」
「これ以上食ったら肥えちまうからな」
「ロっ、ロー船長は太らない体質だから大丈夫ですっ」
「船長命令だ」
「……!」
この船に乗って、もう一つ分かったこと。
ロー船長は、一度言ったら引き下がらない。
「し、失礼します……」
船内履きにしている靴を脱いで、ベッドへ片膝をついた。
ギシッと色っぽい音が出て、ますます緊張感が高まる。
どこまで近付いたらいいかとにじり寄っていると、ロー船長が私の右手を乱暴に引いた。
私は、すっぽりとロー船長の胸に収まった。
「ちょ……! ロっ、ロー船長……!」
「あァ、これだ。うまそうな匂い」
「っ、」
他意はないと思うが、ロー船長が言うとどうしてもいやらしい意味に感じる。
こちらの動揺などおかまいなしに、ロー船長は私の首筋付近で深呼吸をした。
「明日の朝飯、なんだよ」
「あ、明日は……パエリア風の洋食っぽい炊き込みご飯です。海鮮の」
「それでこの匂いか」
「……おいしく出来ましたよ」
「言うな。腹が鳴りそうだ」
耳元で、小さく笑う声がした。心なしか、いつもより声も雰囲気も柔らかい。
愛しさが増して、泣きそうになる。
堪え切れなくなって、ロー船長の背中に手を回してしまおうとした、その時だった。
「……ん?」
何かに気付いたような声の後、ロー船長はおもむろに二つの身体を引き剥がした。
そして、あろうことか、自らの股間を鷲掴んだのである。
「ちょっ、なっ、何してっ」
「勃った」
「……へ?」
「勃ってんな、これ」
そう呟きながら、わしっわしっと、確かめるようにそこを繰り返し握っている。その動きがあまりにも乱暴で、痛くないのかと心配になった。
まァ、いずれにしても、そういうことなら……
「よ、良かったですね」
「……」
ロー船長は、しばらくのあいだ思案顔になった。そして、がばっと身体を起こすと、そそくさとベッドから降りた。
「ロ、ロー船長? どこへ」
「街へ戻る」
「えっ、い、今からですか?」
意気揚々と愛刀を掴むと、くるりと振り返って、言った。
「朝飯までには帰る」
「あ……は、はい」
私の返事を待たずして、ロー船長はさっさと船長室を出た。閉められたドアに向かって、"行ってらっしゃい"と口にする。
"叶わぬ恋は、長引くとツライからなァ"
「本当だね……」
あの意地悪な笑顔にそう返して、私はロー船長の匂いが溢れた部屋をあとにした。
トラファルガー・ローの、異変
――翌朝。
キャプテン、どうしたんだろう。あんなに落ち込んで。ねェ、シャチ?
そっとしておいてやれ、ベポ。本番直前で萎えたらしい。
***は朝から真剣なカオして、何を調べているんだ?
アーモンド、あわび、豚レバー……なるほど、鶏もも肉もEDにはいいんだね。ふむふむ。[ 5/5 ][*prev] [next#]
[mokuji]
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