甘くて、怖い夢をみた
ある日の休日。
ふと、何の気なしに窓の外に目を向けると、おとなりさんの玄関が突然開いた。
中から出てきたその人物を見て、思わず小さく息を飲む。
Tシャツにスウェットという格好で現れたキッドは、どこか慌てた様子だった。こめかみから汗が伝っているようにも見える。
当然気になってしまい、私はカーテンの影に身を潜めるようにしてその動向を見守った。
キッドはというと、庭の中を行ったり来たり。まるで迷子にでもなったかのようだ。
いったいどうしたんだろう。キッドがあんなに慌てるなんて……。
その切迫した表情に、いてもたってもいられず、椅子に座っていたお尻を浮かす。
が、あと一歩で怖気づいてしまって、再びお尻と椅子をくっつけた。
そんなことを繰りかえしているうちに、私はキッドの腕に収まった「それ」を見つけた。
「あっ」と小さく声を上げると、私はためらわず玄関へと走った。
*
玄関の戸を開けておとなりさんの庭を覗くと、同時にキッドもこちらを見た。
驚きからか、切れ長の目が大きく見開かれている。
「よ、よォ……」
「こ、こんにちは。キッドくん、どうしたの? なにかあった?」
「あ? あ、あァ。それが……」
そう言うと、キッドは自分の胸のあたりを私に見せてきた。
「キッチンの脇あたりで丸まったまま動かなくてよ。息はしてるみてェだし、生きてはいるんだけどよ……」
そう答えたキッドの声は、少し上ずっていた。震えている感じもする。
キッドの腕に抱かれているのは、キッドの愛猫だった。名前は「ねこ」。その名前はキッドが付けた。
『猫なんだから、「ねこ」でいいだろ』
あの頃のキッドは、確かそんなことを言っていた。
ねこの様子を見ると、たしかに息はしていた。それが少し辛そうで、愛くるしいはずだったまあるい目は、苦しげに細められている。
「キッドくん、ねこきっと具合が悪いんだよ。獣医さんに診てもらわないとっ」
「コイツは今までよ、病気とかしたことねェんだよ」
「う、うん。だから」
「メシも食わなかったことねェし、喧嘩も強ェし……」
「う、うん。だからね」
「うちんなかでも頻繁に運動させてんだ。たしかに歳は取ってるが、病気なんてかかるはずが」
「……キッド!」
大声を出すと、キッドは大きな身体をびくりとはねさせた。ぎょっとしたカオをして私を見ている。
し、しまった。つい。
「き、気持ちはわかるけど、少し落ち着いて? キッド、くんがしっかりしなきゃ、ねこだって不安になるんだよ? そうでしょ?」
「……」
キッドは、腕の中で小さくなっているねこに目を落とした。
「……そうだな。わ、悪ィ」
「う、うん。こっちこそおっきな声出しちゃって……」
「いや……」
「……」
「……」
「と、とにかく、獣医さんのところに行こう? 私も一緒に行くから」
「……! お、おう」
私は自宅から大きなタオルを持ち出すと、その端と端を首の後ろでしっかり結んだ。
大きくたゆんだその中にねこをいれると、両手でしっかり抱きかかえた。
「キッドくん、バイク運転して? 私後ろでねこと一緒に乗るから」
「あ、あァ、そうだな。わかった」
キッドのバイクは、遠目で見ていたよりも遥かに大きく感じられた。シートが高めの位置にあって、なかなか跨ることができない。
それを見かねたのか、キッドが手を伸ばしてきて私の脇に両手を差し込んだ。
身体がふわりと宙に浮いて、私はシートの上に座らされた。
「あとこれ」
そう言って、手に持っていた丸いヘルメットを私の頭に手慣れた様子で装着すると、キッドは前のシートに跨った。
あ、あれ。これどこに掴まったらいいんだろう。
バイクに乗るなんて初めてのことで、正しい乗り方がわからない。しかも腕の中には弱ったねこ。
手を空中に彷徨わせていると、キッドが私の左手を心なしか遠慮がちにつかんで、自分のお腹のあたりに回した。
「ぜったい離すなよ。しがみついてろ。なるべく安全運転で行く」
「は、はい!」
初めてバイクに乗る怖さも手伝って、私はぎゅっとキッドの背中に身体を寄せた。キッドの筋肉の逞しさが、Tシャツの上からでもわかる。
「おまっ、バカっ……! 胸がっ」
「ええっ? なにか言った? ヘルメットで聞こえな」
「っ、もういいっ! 行くぞ!」
激しいエンジン音を轟かせて、私とキッドとねこを乗せたバイクは、ようやくキッド宅を出た。
*
「あァ? 食いすぎ?」
診断結果を聞いたキッドは、そう素っ頓狂な声をあげた。
穏やかな笑顔を浮かべて、おじいちゃん先生は言った。
「あァ。食いすぎじゃ、食いすぎ。腹がぱんぱんで、苦しかったんじゃろう」
「ふっざけんなジジイ! おれがメシを与えすぎたってのかっ? あァっ?」
「キ、キッドくん落ち着いて」
「おれはなァ、メシやる時はちゃんと1g単位で計ってからやってんだ! もちろん計りはデジタル式だ! ちゃんとしたやつだぞ!」
デジタル式がちゃんとしたやつ、の理論はよくわからないが、たしかにキッドがねこを大切にしているということは、昔からよく知っていた。
しかし、キッドにそう凄まれても、おじいちゃん先生は相変わらず恵比寿様のように笑うだけだった。
つ、強い。
「そりゃあ、見ればわかる。毛並みもこの年齢にしちゃあ、大したもんだ。大切にされとるんだろう」
「あったりまえだ! このヤブ医者が!」
「歯の間に、これが挟まっとった」
激昂するキッドをなんなくスルーして、先生は何かをキッドに差し出した。
ただの紙切れにしか私には見えなかったが、キッドは違ったようだ。
「これ……ねこのメシの袋の切れ端じゃねェか。なんでこんなもんが口に……」
「おそらく、ご飯の袋を噛みちぎって盗み食いでもしたんじゃろう」
「ぬ、盗み食い?」
「おう。盗み食い。自業自得じゃよ、お嬢さん」
あとの方の言葉は、診察台でうずくまっているねこへ掛けられたものだった。
治療をしてもらって、少し元気になったようだ。ねこは目をまあるく見開いて、キッドと先生を交互に見ていた。
「おまえなァ……」
あきれたような声を出すと、キッドはねこに向かって頭をうなだれた。
その真っ赤な頭を、ねこはくんくんと匂いを嗅いでいる。
思わず笑ってしまった。
「まァ、今日一日はここでゆっくりさせていった方がいいじゃろ。明日また迎えにきておやり」
キッドに向けてそう言うと、先生はおっほっほと笑いながらねこと共に診察室を去って行った。
*
「……」
「……」
帰り道。
キッドと私は、どちらも黙ったまま土手を歩いていた。
キッドはバイクに乗る様子もなく、バイクを引いて歩いている。
私は、おずおずと前を歩くキッドの背中を追いかけていた。
「……」
「……」
「あ、ね」
「あ?」
「あ、いや、その。……ね、ねこ、大したことなくてよかったね」
「あァ。そうだな」
「……」
「……」
「キ、キッドくん、今日おうちにいたんだね。出かけなかったの?」
「あァ。さっきちょうど出かけるところだったんだよ。そしたらねこがキッチンで倒れてるからよ」
「あ、そ、そうだったんだ。びっくりしたね、それは」
「……べつにびっくりなんてしねェよ、おれは」
「そ、そっか」
「あァ」
「……」
「……」
つ、続かない。会話がまるで続かない。
鉛のように重い沈黙に押し上げられるように、私は小さくため息をついた。
「……疲れたか?」
「はっ、はい?」
「……」
「あっ、だっ、大丈夫……」
「……そうか」
「う、うん……」
「……」
「……」
「……おまえは?」
「はっ、はい?」
「おまえは、今日何してたんだよ」
「わっ、私?」
「あァ」
「わ、私は、えっと、ま、漫画読んでた……」
「相変わらず好きだな、漫画」
そう言って、キッドは小さく笑った。ような気がした。
『相変わらず』。その言葉に、鼓動が早まった。小さい頃、私が漫画ばっかり読んでいたのを、覚えていてくれてるのだろうか。
それがおもしろくなかったのか、あの頃のキッドはそれを強引に奪って漫画をぼろぼろに壊してしまって、私を泣かせたりして。
翌日、壊した漫画をセロハンテープで下手くそにくっつけて、罰が悪そうに小さく「ごめん」って言ったこととか。
そういうのも、覚えていてくれてるのかな……。
「あ、あの」
そう声を掛けたところで、キッドのパンツのポケットからピリリリリッと音がした。
キッドは携帯を取り出すと、耳に当てた。
「だれだ。……あァ、キラーか」
電話の相手は、キッドが一番仲良くしているであろう仮面のお友だちだったようだ。
女の子じゃなくて、つい、ほっとしてしまった。
「今日はちょっといろいろあってな。……いろいろはいろいろだ。……あァ? うるせェな。べつに面倒ごとじゃねェよ。だから今日は」
あ、行っちゃうのかな。そういえば、出かけるところだったって、言ってたしな。
キッドの話振りを聞いて、私は密かに肩を落とした。
すると、キッドはふいに私の方を見た。
だけど、すぐに逸らして、言った。
「今日は行けねェ」
「……!」
「……あァ。わかった。じゃあな」
キッドは携帯を耳から離すと、ポケットにしまった。
「……」
「……」
「……ねこがこんな時に、出かけて歩くのもアレだしな」
「あっ、うっ、うん! そうだね! そうだよね!」
「……」
私は、素直にうれしかった。
ただただ、キッドと一緒にいられることが。
「……なんだよ」
「え?」
「言いかけただろ。さっき。なんか」
「え、あっ、ああっ、ええっと」
「……」
「……な、何言おうとしてたか、忘れちゃった! あははっ」
そうごまかして笑いとばすと、キッドは「なんだそれ」と言って、笑った。確かに、笑った。
それからは、二人会話もなく、ゆっくりと夕暮れの町を歩いて行った。
オレンジの夕日と、キッドの赤が、綺麗なコントラストを生み出している。
なんだか、今見ているこの風景が、現実のことじゃないみたいだな。
今はまだ、信じられない。この恋を忘れられる日が、いつか来るなんて。
だって、こんなことで、泣けてきてしまうのに。
もう戻れないんじゃないのかと、いっきに不安が押し寄せてきて。
どうしようもなく怖くなって、キッドの大きな背中から、一歩だけそっと身を引いた。
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