Another WORLD-16

 何度目になるかわからない寝返りを打つ。


 波のざわめきに揺り起こされて、どうしても寝付けない。まるで、海に眠らないでと懇願されているようだ。


 しかたなく、のそのそと体を起こす。起こした拍子に、首筋をなまぬるい汗がつたった。昼間のからっとした暑さがうそのように、夜は随分と蒸し暑い。


「喉渇いた……」


 口の中がからからだ。喉の奥までぱさついている気がする。


 冷えた水が、喉から胃までを通過する感覚を想像する。水が飲みたくてたまらなくなってきた。


 潮風で金属部分が錆びた、古めかしい掛け時計を見上げる。真夜中の二時。誰かしらは食堂にいるかもしれないけれど、いないかもしれない時間帯だった。


 無人の真っ暗な食堂を想像して、体を痙攣させる。


 水を飲みたい気持ちと、おばけへの恐怖心。両方を天秤にかけて、意を決してベッドを出た。


 食堂の前につくと、とびらのすきまから灯りと話し声がもれていた。


 ひとがいるという事実にほっとして、とびらの取っ手を掴む。


 中からきこえてくる声に聞き覚えがありすぎて、直前で動きを止めた。


「どういうつもりだ、キラー」


 この船で、キラーさんを呼び捨てにできるのは一人しかいない。もっとも、声だけでそれが誰のものか、私にはわかるけれど。


 くぐもったため息がきこえた。


「おまえこそどういうつもりだ?」

「あァ? なにが」

「らしくない。なにをあんな小さなことでイラついている」


 キッドとキラーさん、二人の気配しか感じない。


 からん。氷がグラスの中で倒れる音がする。どうやら二人きりでお酒を酌み交わしているらしい。


 なんの話をしているんだろう。盗み聞きなんてよくないと思いつつ、水を飲みたい気持ちがなくなったわけではないので、なんとなくその場にとどまってしまった。


「……べつにイラついてねェよ」

「嘘をつけ。ほかの船員にならともかく、おまえの嘘がおれに通用すると思うか」


 キッドは押し黙っている。キラーさんが副船長だとかはきいたことがないが、おそらく同等の存在なんだろう。キッドが、キラーさんみたいな人といられてよかった。なんだか妙にほっとする。


 ナズナの話、だろうな。そんなふうに考えて、勝手に傷つく。


 ナズナは今日、ひさしぶりの海水の感触にはしゃぎすぎて、とがった貝がらであの美しい鱗を傷つけてしまい、キッドにしこたま怒られていた。もっとも、ナズナはそれすらも嬉しそうに享受していた。


「他の男がアイツに花を贈ったのが、そんなに気に食わなかったか」


 キラーさんのことばに、思わず、へ、と声がもれる。慌てて口を塞いだ。


 花を贈った、って。もしかして、私の話?


 キッドの、これみよがしなため息がきこえる。


「あほか。んなわけねェだろ」

「だが、ただの幼なじみというわけでもなさそうだ」

「……チッ」


 からんからん。少し乱暴に氷が鳴る。きっと、キッドが荒々しくグラスを傾けたにちがいない。


「元恋人か?」

「ちがう」

「じゃあ、おまえの片思いか」


 即否定のことばが飛んでくるかと思ったのに、キッドの声は続かなかった。


 心臓が波打つ。いやいや。まさか、そんな。


「そんないいもんじゃねェ。ただ、一方通行ではあるがな」


 キッドの答えは、私にはうまく理解できなかった。


 けれど、キラーさんにはきちんと伝わったようで、彼は仮面の下で、ほう、とうめいた。


「この魑魅魍魎な海を渡っていて、もうだめだと思ったことが、何度もあったな。キラーよ」

「ふっ。そうだな」


 キッドも笑ったようだ。グラスを傾ける音の後、キッドの声が静かに続いた。


「おれはそういうとき、必ずアイツを思い出す」


 ひゅ。息が止まる。一言一句ききもらさないよう、そのまま息をつめた。


「もうだめだ、ここで終わりだ。そう覚悟したとき、必ずアイツを思い出す。


 おれがいなくなった後の世界はどう変わるのか。その世界は、アイツが幸せに生きていける世界なのか。そんなことが、たまらなく気にかかってくる。


 アイツ自身をみまもれなくても、アイツの生きていく世界はみまもっていきたい。アイツがどこかで、ガキでもこさえて幸せに暮らしていける世界。そんな世界であり続けることを、おれはこの目で確かめていかなきゃならねェ。その気持ちが、おれを奮い立たせる。どんな窮地に立たされても、もう少し生きてやろうと、そう思う。


 幼なじみでも、恋でもねェ。かたちのない、大事なもんだ。アイツは」


 ひどく穏やかな声音がそう締めくくる。


 嗚咽をもらさないようにするのに、必死だった。落ちる涙が、次々に床にしみをつくる。


 そんなふうに想ってくれていたなんて、夢にも思わなかった。


「ふっ。ますますおまえが気にいったよ。キッド」

「……気色わりィ」


 かつん。グラスとグラスがぶつかる音。その瞬間、私はこの船を、みんなを、キッドを。ひどく愛おしいと感じた。


 だけど、私はここにいられない。キッドの気持ちを、無下にはできない。


 私は、キッドのために。キッドから、身も心も離れなければならない。もう、会いたいなんて思ってはいけない。


 それが、キッドへの恋をあきらめることとどうちがうのか。わからないけれど、恋をあきらめることより、それはずっとずっと、苦しいことのように感じた。


 よろよろと立ち上がって、部屋に戻る。声を押し殺して、一晩じゅう泣いた。



 翌朝。食堂に現れたキッドをみて、私は意を決して彼の前に歩み出た。


「キッド、船長っ。お願いがあるん、でございますが、お時間よろしいでしょうかっ?」

「……普通に話せ」


 あきれたようにいうキッドに照れ笑いを返してから、私はいった。


「昨日の夜調べたんだけど、この先に小さな島があって、それがきいたことのある島の名前だったの」

「きいたことのある島?」


 キッドの薄い眉が寄る。私はうなずいた。


「たぶん、その島の島民が、私の故郷に定期的に商売をしに来ているんだと思う。船にその島の名前が書いてあるのを見たことがあるから」


 ここまでいえば、私がなにをいわんとしているか。キッドじゃなくてもわかるはずだ。食堂内は静まり返った。


「私の故郷に出向く船があれば、それに乗せていってもらおうと思う」

「……」

「だから――」ぐっと拳を握る。決心が鈍らないうちに、カオを上げて続けた。「その島まで連れて行ってくれませんか? 私は、その島でこの船を下りたい」


 キッドは、目の前の皿に視線を落とした。フォークに突き刺されたトマトに、二人して視線を注ぐ。


「……わかった」


 キッドが静かに答えたのをきいて、深く頭を下げて、その場を去った。



「海賊船なんてのァ、数えきれないほどの人間が乗船したり下船したりしてな。なじむのに時間がかかるやつがほとんどなんだよ。慣れるまでは、なんつーか、こっちもそれなりに気遣ったりしてな。こうみえても肩凝ったりすんのよ」


夕食のオニオンスープの鍋をぐるぐるかき混ぜながら、船員がいう。


「おまえはそんなことなかったんだけどなァ。ほんとに下りんのか?」


 厨房にいた全員の目が私に向く。そんな、本当に寂しそうなカオ、しないでほしい。


 声を発したら、泣いてしまいそう。私はいびつなカオで笑って、静かにうなずいた。


 それ以来、この話題を持ち出すひとはいなかった。



 船が島に着く前日の夜。部屋がノックされたので出ると、酒瓶とグラスを二脚持ったキッドが立っていた。


「キッド……」

「付き合え」


 キッドが顎をしゃくった先は、甲板のほうだった。


 私は元気にうなずくと、キッドの後を追った。


 まんまるい月の真ん前に、キッドはどっかりと腰をおろした。そのとなりに、おずおずと体育座りをする。


 そういえば、初めてこの船に来た夜も、こうやって並んでお酒を飲んだ。


 そんなに昔のことじゃないのに、もう随分昔のことのように感じる。海賊の一日は目まぐるしい。いざ振り返ると、夢のような時間だった。故郷に戻ればきっと、本当に夢幻になるんだろう。


「おまえの話をきかせろ」


 お酌をしながら、キッドは思いがけずそういった。


「わ、私の話?」

「あァ」


 グラスを傾けるキッドの横顔に、わずかに戸惑う。今夜はあのときとちがい、真っ赤な髪は逆立ったまま。


 海賊。ユースタス・キャプテン・キッド。


「そんな……。私の話なんて、キッドからしたら退屈だと思うよ?」

「退屈かどうかはおれが決める」

「……」


 しばらく迷ってから、私はぽつぽつと語りだした。家族のこと、職場の飲食店のこと、その客のこと、仲間のこと、町のこと。思いつくまま、ぽつぽつと。


 海賊の生活に比べたら、ひどく平穏でなまぬるいはなしを、キッドは黙ってきいていた。時折り「飲食店はなんの店だ」とか「困った客はどんな客だ」とか「職場までの道のりはなにが見える」とか、質問を挟んだ。


 「イタリアンだよ」「ペペロンチーノを頼むのにオリーブオイルぬきでっていう女のひとがいてね」「おしゃれな金物屋さんと、ソーダ水のお店。あと、海が少し」。


 答えるたび、キッドはそっと目を閉じた。まるで、その光景を思い描くように。


 黒い海に、大きくて白い満月が反転して映る。潮の歌。波の匂い。キッドの、低くて深い、心地のいい声。


 このすべてを、私はずっと忘れない。キッドが望むように、結婚をして、子どもが生まれて、この身が朽ちて、果てるまで。


 この時間が、キッドにとってもどうか、宝物のようになりますように。


 このひとが、できるだけ長く、無事に海を渡っていけますように。


 幸せで、いますように。


 冷たい月に願いをこめる。


 私たちは、明日、永遠に別れる。


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