Another WORLD-12

 扉を開けると、ひゅうっと潮風が頬を撫でた。


 夜の海の風は、やはり少し冷える。両肩を抱くようにしてさすりながら、私はキッドの姿を探した。


 すると、船首のど真ん中に、大きな影を見つける。月明かりに照らされた髪の色は、真っ赤。


 探していたのに、いざ見つけてしまうと、途端に緊張してくる。甲板にはキッドの他に誰もいないので、それも一つの要因かもしれない。


 キッドに気づかれないよう、そっと深呼吸をすると、意を決して彼の背後に歩み寄っていった。


「こ、こんばんは」


 そう声をかけると、キッドは緩慢な動きで私のほうへ首を回した。


 その鋭い視線に一瞬慄くも、お腹にぐっと力を込めて、続きを口にする。


「あ、あの。お話、少しだけよろしいでしょうか」


 キッドは何も答えずに、右手に持っていた酒瓶を煽った。


「……なんだ」


 こぼれたお酒を袖口で乱暴に拭ってから、そう問う。


 私は、慌てて頭を下げた。


「私と一緒に捕まってた人たちのこと……。その……助けてくれて、ありがとうございました」

「……」

「さっき、その……皆さんに聞いて」

「……」

「きっと、キッド――じゃなくて、船長さんの指示だったと思うから」

「……」

「だから、その……本当に、ありがとう」


 頭を一度上げてから、さらに深く下げ直す。


 ……しまった。キッドがなにも言わないから、頭を上げるタイミングがわからない。


 しばらくその状態でいたら、キッドが小さく息をつく音が聞こえた。


「いつまでそうしてるつもりだ」


 そう言われて、ようやく頭を上げる。


「あっ、は、はい」

「……」

「すみません……」

「……」


 酒瓶を数秒見つめて、また一口、お酒を飲んだ。


「べつに、おまえのためじゃねェ。おれは、ああいうのが気に食わねェだけだ」


 真っ黒な水平線に真っ赤な視線を投げて、キッドは物静かな声色でそう言った。


 ここにきて、キッドの姿をまじまじと見る。


 なにやら違和感があるなと思ったら、どうやらお風呂上がりらしい。いつも天へと逆立たせている髪の毛は、重力に逆らわず、下ろされていた。洋服も、あの物々しいコートは近場に見当たらず、黒いシャツと厚い胸板が剥き出しになっている。


 かっこいい……。


 思わず見惚れていると、キッドが私のほうを向いた。


「いつまで突っ立ってやがる」

「あっ。ご、ごめんなさいっ。じゃあ――」


 そう言って立ち去ろうとしたら、キッドがパンツのポケットから何かを取り出した。


 そして、それを、私のほうへひょいと投げる。


 慌ててなんとかキャッチをして、手の中を見ると、それは手のひらサイズのスキットル――お酒を入れる小型の水筒――だった。


「飲めんだろ」

「えっ。あ……うんっ」


 本当は、そんなに得意ではないけれど、思わずそう答える。


 すると、キッドは自分の隣へ目配せした。どうやら、隣に座れということらしい。


「おっ、お邪魔します……」


 わ、キッドとお酒……!


 ドキドキしながら、私はキッドの隣に腰かけた。


 私が座ったタイミングで、キッドが酒瓶を突き出してくる。


 それに、おそるおそる受け取ったスキットルを近づけると、カンッと軽快な音がした。


 キッドが酒瓶を傾けるのを見てから、私も中身に口をつける。


 口の中が、いっきに熱くなった。


「……まさか、てめェと酒酌み交わす日が来るとはな」


 ふっと、小さく笑って、キッドは言った。


「そ、そうだね」

「……」

「……また会えるなんて、思わなかった」

「……」

「……」

「……そうだな」


 波の音と、お酒を嚥下する音。


 この真っ暗な海の中にいると、まるで、世界に二人だけのような。


 そんなふうに、錯覚した。


「二度目はねェからな」


 ふいに、キッドはそう言った。


「えっ?」

「……あそこで会ったのは、本当にただの偶然だ」

「……あ」

「もう、次はねェ」


 海賊はさすがに、飲むペースが早い。キッドの酒瓶は、すでに空に近かった。


 キッドが、なにを言いたいのか、わかる。


 私は、肩を縮こませて、言った。


「はい。以後、人攫いなんかに会わないよう、じゅうぶん気をつけます」

「……あァ」


 そうしてくれ。


 そう、小さな声で、キッドは付け足した。


「まさか、ほんとにヒューマンショップなんてものがあるなんて、思わなかった」

「知らなくていいんだよ。てめェみてェな田舎もんは」

「あ。でも、人魚に会えたのは、ちょっとラッキーだったな」


 そう呟くように言ったら、キッドが隣でぴたりと動きを止めた。


「人魚? 人魚がいたのか?」

「え? あ、うん……」

「どっちだ?」

「え? どっちって?」

「攫われた船のほうか? それとも――」

「あ、ううん。ヒューマンショップのほう」

「……」

「こう、髪の毛がふわふわっとした、ゆるやかなウェーブで」

「……」

「ブロンドの……」

「……」


 キッドが、心ここにあらずという表情で、床に視線を落としている。


「あ、あの……キッド?」


 そう呼びかけると、キッドはようやく我に返った。


「……なんだ」

「いや、あの……」

「そろそろ行くぞ」


 そう言って、キッドはおもむろに立ち上がった。


 慌ててそれに続いて、キッドの背中を追う。


 すると、そのとき。私の頭の中で、何かが引っかかった。もう少しでそれがなんなのか思い出せそうなのに、思い出せない。そんな感覚だ。


 歯がゆい感情を胸に抱いたまま、私の海賊生活一日目は幕を閉じた。


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