Another WORLD-7

 〈日常〉が行き交う人並みを縫って駆け抜ける。〈非日常〉に身を置いている私は、そんな彼らの幸せそうな表情を羨む余裕もなく、ただひたすらに走り続けた。


 どこへ向かったらいいかわからない。どこまで逃げたら、〈助かった〉になるのか――。ただ逃げることに必死で、誰かに助けを求めるとか、どこかに駆け込むとか、そんな考えは微塵も思い浮かばなかった。


 華やかな通りを抜けて、路地裏に滑り込む。そこで初めて、私は足を止めた。


 口から、ぜえぜえと音が鳴る。喉が握り潰されたように痛くて、肺は膨張と収縮を繰り返しすぎて、破れてしまいそうだった。


『こっちにはいないぞ!』

『あの女! どこ行きやがった!』


 その叫び声に、油断していた体が強張る。どうやら、もうすぐそこまで追っ手は迫っているようだった。


 休憩を挟んでしまったことで、体が一気に重くなる。一切の動きを止めてしまいたいと愚図る体に鞭を打って、私は懸命に足を動かした。


 きっと、逃げきれなかったら終わりだ。船に連れ戻されて、今度はきっと、逃げられないように拘束される。そして、地獄のような日々が、私を待っている――。


 もつれる足で、懸命に走り抜ける。言い知れぬ恐怖だけが、私の心を支配した。


 ――最後まで希望を捨てないで。そうすればきっと、また会えるわ。


 ブルートパーズの瞳が、わずかな希望のように脳裏で揺らめく。


 彼女は今、どうしているのだろう。私のように、逃げられているのだろうか。婚約者の元に、無事帰れるだろうか――。


 人の心配をしている場合ではないのに、そんな思いが脳裏を過ぎる。彼女を思って、うっかり泣いてしまいそうになりながら、建物の角を曲がった――。


 そのときだった。


「――!」


 まずは、鼻に強い衝撃を受けた。そして、走っていた勢いを殺さないまま、反動で後ろへ倒れ込む。


 何かに、思いきりぶつかった。そう察したのは、目の前に大きな黒い影が立ち塞がっているからだった。


 痛めた鼻をさすりながら、私はその影のてっぺんを見上げた。


 その影は、逆光の中で自分のみぞおちあたりをさすっていた。


「てめェ! どこに目ェつけてやが――」

「ごっ、ごめんなさ――」


 雲に隠れていた太陽が、姿を現す。


 逆光が和らいで、お互いのカオがはっきりと見えた。


 陽の光に照らされていく、真っ赤な双眸と、髪――。子どもの頃の面影もほんの少しはあるけれど、数々の修羅場を潜り抜けてきたであろう、精悍な顔つきと傷だらけの肉体は、私の知らない人のようだった。手配書に映った写真そのままの姿で、彼は私の目の前に立っていた。


 驚愕も、感動も、感情のすべてを置いてけぼりにして、私の口からは、その名前がついて出た。


「キッ、ド……」

「おまえ……どうして、こんなところに……」


 そう言われて、まず思ったことは、覚えていてくれたんだ、だった。


 果てしなく広大な海で、たくさんの出会いや別れを繰り返しているのだから、幼い頃にほんのわずかな時間を過ごしただけの私のことなんて、きっと記憶の彼方に置き去りにされてしまっているのだろうとばかり、思っていた。見開かれた赤い目に映る私は、最後に会ったときより、遥かに成長しているというのに――。


 そんな場合ではないのに、そんなことがとてもうれしい。心の奥底から言いようのない感情が溢れてきて、思わず泣き叫んでしまいたくなった。


 そんな私を現実へ引き戻したのは、私を追ってきている海賊たちの叫び声だった。


「いたぞ! あそこだ!」

「船長! いました! あの女です!」


 はっと、大きく息を呑む。


 私はよろよろと立ち上がると、キッドの横を通り過ぎながら、言った。


「ごめんなさい、行かなきゃ――」


 すべてを言い終える前に、左腕を強く掴まれる。


 驚きと痛みで、思わず眉を顰めてキッドを見上げた。


 キッドは、燃えるような赤い瞳で、私を冷ややかに見下ろして、言った。


「このおれにぶつかってきておいて、そんな詫び程度か? あァ?」

「あ……だから、それは、その……」


 そんなやり取りをしていたら、海賊たちがいつのまにか追いついてきていた。キッドと私を取り囲むようにして、ずらりと並んで立ち塞がる。


「あァ? なんだァ? おまえは」


 海賊のひとりが、私ではなく、キッドの方を睨みつけてそう言った。


 キッドは、私の腕を掴んだまま乱暴に前へ突き出すと、冷えた声で言った。


「“これ”は、おまえらの持ちモンか?」


 これ、とは、言わずもがな、私のことである。


 海賊たちは、頷きながら答えた。


「あァ、そうだ。だから、さっさと返し――」

「おい、待て……!」


 突然、海賊のひとりが、カオを青ざめさせてそう叫ぶ。ひん剥いた目でキッドを熟視してから、まるで幽霊でも見たかのように唇を戦慄かせた。


「この男、まさか……! ユースタス・“キャプテン”・キッド……!」


 その名前を聞いただけでわかるのだろう。海賊たちは、にやついていた表情をがらりと変えて、一歩、また一歩と、後退りした。


 キッドは、血を吸ったような赤い唇をにやりと歪めさせて、言った。


「そうか……。なら、おまえらにも落とし前をつけてもらう」

「お、落とし前?」

「あァ。この女は今、おれに体当たりしてぶつかってきた。どう責任を取る?」

「せっ、責任って……! そんなの、その女がっ――」

「おまえらの持ちモンなんだろ?」


 そう問われて、海賊たちがぐっと息を詰まらせる。すると、列の中心にいる男に、指示を仰ぐような視線が一気に注がれた。そこで初めて、その視線を一身に受けている男が船長なのだと知った。


 海賊団の船長同士が睨み合う。――いや。睨み合う、という表現は、些か正しくない。私を買った海賊団の船長の方は、蛇に睨まれた蛙のように、身を小さくして震えていた。


「そっ、その女は、やる……! ヒューマンショップで買った、処女の女だ!」

「ちょっ……!」 

「手はつけてない! だから、今回は見逃してくれ!」


 キッドの前でなんてことを言ってくれるんだ、という私の非難の視線はまるっきり無視して、その海賊はただただキッドに赦しを乞おうとしている。


 すると、キッドはなぜか、私の方を一瞥した。そして、目が合うとすぐに、ふいと興味なさげに逸らした。


「この女はもらう。当然だ」

「なっ……!」

「今持ってるあり金も、船にある財宝も、すべて置いていけ」

「そっ、それは……!」

「てめェ! 調子に乗ってんじゃねェぞ!」


 血の気の多そうな若い海賊のひとりが、一歩前に出てきてそう啖呵をきる。周りの海賊たちが、慌ててそれを止めていた。


「いいんだぜ? おれ“たち”は。戦っても」


 キッドが右腕を構えたのと同時に、海賊たちの後方から、銃や剣を構える音が聞こえた。


 海賊たちも、私も、驚いたように背後へ振り返る。そこでは、おそらくはキッドの仲間であろう海賊たちが、臨戦態勢をとっていた。


 い、いつのまに――。


 私が驚愕している最中に、私を買った海賊たちが白旗を上げる。手始めに、船長が懐からお金を取り出すと、他の海賊たちもそのあとに続いた。


「交渉成立、だな。物わかりのいいヤツは嫌いじゃねェ」


 キッドは、私の腕を掴んだまま、歩き出した。


 何が起こっているか、わからない――。半ば呆然としながら、私はされるがまま、キッドの船まで引きずられていった。


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