Another WORLD-3

 すすり泣く声と金属が擦れる音。粗雑な笑い声と不安定な波の音――それらの音がごちゃ混ぜになって、鼓膜の奥で鳴り響く。


 ……知らない。この感覚は、確実に。


 目を開けるより先に不安感が胸中を巡る。私はゆっくりと目を開けた。


 最初に視界に入ってきたのは、木だった。自分はどうやら横たわっているようで、それが床だということはすぐに理解した。木の目にたくさんの汚れが溜まった、薄汚い床。匂いも妙にカビ臭くて、私は思わずカオを顰めた。


 眼球だけをぐるりと一周させる。しゃがみ込んでいる複数人の足元が見えて、私ははっと息を呑んだ。


「気がついた?」


 すぐそばで女性の声がして、その方向へカオを向ける。見ると、金髪の美しい女性が私を心配そうな眼差しで見下ろしていた。


「……ここは?」


 一番の疑問が無意識に口を突いて出る。


 その女性は、憂いを帯びた笑みを浮かべて答えた。


「あなた……拐われたのよ」

「……え?」


 答えのようで答えでない。私の頭はますます混乱した。


「誘拐されたの。売人たちに」

「バイニン……」


 バイニン、の意味がすぐには理解できない。私の傍らにいた複数の女性たちが、私の体を支えて起こしてくれた。


 暗がりに目が慣れてくる。最初は二、三人しかいないように見えていたけれど、よくよく見渡すと十数人が一斉に私を見ている。表情は様々で、物憂げだったり怯えていたり、あきらめていたり――そして、その全員が女性だった。


「拐われた……? 拐われたって――」

「私は一人暮らしで、いつものようにベッドで眠っていたの。そしたら突然、物音がして……目を開けるとたくさんの男たちが……」


 金髪の女性が身震いをする。よく見ると、綺麗に見えていた金髪は、まるで泥遊びでもしたみたいに汚れてしまっていた。


 拐われた。拐われた……? 実感がまったく湧かない。なぜなら私には、彼女のように拐われた時の記憶がない。記憶にあるのは、遠目に見える星屑のような街灯、森に囲まれた薄暗い小道、一歩踏み出した自分の足元――。


 もしかして、あの小道の先で、襲撃者が身を潜めて私を待っていたのだろうか。そして、後ろから薬品か何かを嗅がせて、気を失わせて……。


 勝手な想像をして、勝手に身震いする。けれど、その想像は大方当たっているのだろう。頭の芯が、まだ少しぼおっとしていた。


「奴隷にされるのよっ……」


 どこからか声がした。全員が、一斉に部屋の一番隅にいる女性を見る。その女性は、ガチガチと歯を合わせながら膝を抱えていた。


「女ばかり集めて……きっと性奴隷にでもされるんだわっ……散々酷い目に遭わされた挙句っ……飽きたらゴミのように捨てられてっ――」

「やめなさいよっ。来たばかりの子がいるのよっ」


 誰かが彼女を嗜めてくれたけれど、もう遅かった。途方もない恐怖が津波のように押し寄せてきて、私は身体を震わせて涙を溢した。


「そんな……どうして、っ、こんなことにっ……」


 金髪の女性が、私の肩をそっと引き寄せる。その温もりに抱かれて、私はただひたすらに咽び泣き続けた。





 船がどこかへ停まるたび、ひとり、またひとりと、女性が部屋から連れ出されていった。みな神経が衰弱し切っていて、抵抗する者も少ない。もっとも、泣き喚いたりすれば暴力をふるわれるのではないかと、そういう話がここで出たからかもしれない。


 最後に残ったのは、あの金髪の女性と私だけだった。私たちが売られるヒューマンショップのある島に着くまでの間、彼女は彼女自身の話をしてくれた。


「恋人がいるの」


 ブルートパーズのような瞳がきらめく。ここへ来て光を見たのは、これが初めてかもしれない。


「頼りない人でね。腕っ節も弱いし、お人好しだし」

「……」

「だけど、とても優しい人なの」

「……ご結婚の約束を?」


 彼女の薬指で輝いている指輪に目を落として、そう訊ねる。


 彼女も指輪を見つめた。プロポーズされた時のことを思い出しているのだろう。遠い目をして、ええ、と美しくほほえんだ。


「自分がこんな目に遭っているのに……ふふっ、彼のことが心配なのよ。きっと、私がいなくて泣いているわ。どうにかして帰ってあげられないかしらって、まだあきらめきれないの」

「すごく……好きなんですね」

「……あなたは?」

「え?」


 そう訊き返されて、ドキリとする。彼女は尚も訊ねてきた。


「そういう人、いる?」

「……」

「こんな目に遭っていても、それでもあきらめきれない人」

「……」

「それくらい愛おしくて、会いたい人」

「私……私、は……」


 赤が蘇る。篝火のように燃える赤が。


 あの人は、歩幅を合わせて歩いてくれるような人じゃなかった。いつだって、私の一歩前を歩いていた。だから私は、いつも彼の燃え盛るような真っ赤な髪を見上げていた。


『おまえは黙って、おれに守られてろ』


 傷だらけの頬を乱暴に拭いながら、口癖のようにいつもそう言って――。


「っ、います……」


 本心が、心の奥底からこぼれ落ちる。とっくに枯れ果てたと思っていた涙も、一緒にぽろぽろと床に落ちた。


「いますっ……私……っ、本当はずっと、忘れられないっ……」


 会いたい。本当はずっと、キッドに会いたかった。会いたかったのに、行かなかった。――逃げていた。


 こんなことになるなら、命がけで会いに行けばよかった。会って、あなたが好きだって。ただ一言、素直にそう伝えればよかった。


 船が停まる。数分して、売人たちが部屋にやってきた。


 先に連れ出されたのは金髪の彼女の方だった。彼女は最後に、ブルートパーズを濡らして私に言った。


「最後まで希望を捨てないで。そうすればきっと、また会えるわ」


 彼女は優しくほほえむと、凛と背筋を伸ばしてから、深い闇の中へと消えていった。


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