メランコリーデビル 2/2
一週間の停学になった。***の元彼を殴った一件が原因らしい。噂で聞いた話では、男は全治一ヶ月の重傷を負ったようだ。
みゃあおおおー。
ベッドに突っ伏しているキッドの後頭部に、ねこの肉球が降ってくる。
「……飯ならさっき食っただろ。おれはもう、一歩も動かねェぞ」
いつもなら、停学ともなればこれ幸いとばかりに朝から晩まで遊び回っていた。だが、今回はどうもそんな気分になれない。キラーや舎弟たちの誘いをすべて断って、カーテンを閉め切った部屋で一人寝腐っていた。
みゃあああおおおおー。
窓際に移動したねこが、今度は雄叫びに近い鳴き声をあげる。
キッドはむくりと身体を起こした。
「うるせェぞ、ねこ。何盛って――」
見ると、ねこは窓の下をしきりに覗いている。そして、チラ、チラと、キッドへも視線を送ってくるのだ。
「なんだってんだよ……」
薄く開けたカーテンの隙間から、窓の外を見る。そして、キッドは息をのんだ。キッドの家の敷地内に、***が立っていたからだ。
二人の目は、バチリと合った。稲妻が走るように、バッチリと。キッドは思わず、勢いよくカーテンを閉めた。
ドッ、ドッ、と、鼓動が高鳴ってくる。それが落ち着くのを待つ間もなく、キッドはベッドから降りて部屋を出た。
階段を降りて玄関まで行くと、自分の髪を触る。今日は一歩も外へ出ていないので、髪は下ろされたままだ。覇気のない髪型だと思い、セットしたくなったが、そんな余裕もないので観念してドアノブを引いた。
ドアを開けて外を見れば、***は先ほどと同じ位置、同じ表情で突っ立っていた。
「あっ……」
「……」
「こ……こんばんは」
「……あァ」
「……」
「……なんか用か」
***が言いにくそうにしていたからそう訊ねたのに、***は怯えたようにわずかに肩を揺らした。
なんだよ……訊いただけだろ。
自ずと唇がむっと尖る。けれど、こういう威圧感が***に嫌われている要因なのだろうと思うと、キッドはすぐに唇を元の形に戻した。
「あの……停学になったって」
聞いて、と、蚊の鳴くような声で***は続けた。
「……あァ」
「……喧嘩の相手」
「おまえの男だろ」
***が、俯き加減だったカオを上げる。けれど、キッドと目が合うと、すぐにまた逸らした。
「もう、あの……"元"、なんだけど」
「……へェ」
「……」
「……で?」
「え?」
口の端を上げて、キッドは続けた。
「好きだった男をおれが殴ったから、文句でも言いに来たのか?」
***は一瞬、きょとんとしたカオをした。それから、慌てたように首を横へ振った。
「あっ、ううんっ。違うの」
「……」
「私も、知らなかったんだけど、その……」
「……」
「あの人、あんまり評判良くなかったみたいで」
「……」
「前に、嫌な目に遭ったって子が、こっそり教えてくれて」
「……」
「それで、その……」
***が、拳をぎゅっと握る。その小さな手がかわいくて、キッドの胸はきゅっと縮まった。
「なんか、きっと……キッドくんに、嫌な思いさせたんだろうなって、そう思って」
「……嫌な思い?」
「うん。……だから、その」
「……」
「……謝りに来たの」
「……」
「本当に……ごめんなさい」
そう言って、***は小さく頭を下げた。
他の男のことで謝る***を見ていると、無性に腹が立つ。セットされていない髪をがしがしと掻きむしると、キッドは壁に寄りかかった。
「別に、てめェに謝られる道理はねェよ」
「……」
「ムカついたから殴った」
「……」
「ただそれだけだ」
「……」
「……」
「そう、かもしれないんだけど……」
「……」
「ほんとに、なんとなく、なんだけど……」
「……」
「なんだか――」
口を、「あ」の形のままにして、***が止まる。そして、意を決したように、***は息を吸った。
「私のため……だったような、気がして……」
キッドの眉頭が、釣られたように上がる。思わず、「よく分かったな」などど、口走りそうになった。
「おっ、思い上がりだとは、その、思うんだけど……」
「……」
「でも、やっぱり……」
「……」
「……キッドくん、優しいから」
「……優しい?」
「えっ」
「おれが?」
「えっ、あ……」
「……」
「うん……」
「……」
「……」
「……あほか」
「……」
「そんなんだから、あんなクズみてェな男に騙されんだよ」
「……」
「キスまでされて、バカじゃねェのか」
***は、かっと頬を赤らめた。そして、唇を真一文字に結ぶ。目の周りも、じわじわと真っ赤になっていった。
ダメなのに、加虐心が湧く。キッドは言葉を続けた。
「初めてだったんだろ」
「え?」
「キス」
「……!」
ついに***は、耳まで真っ赤にした。金魚のように口をパクパクと動かしてから、観念したように小さくこくりと頷いた。
「キス程度でよかったじゃねェか」
「……」
「おれが殴らなかったら、おまえ最悪な処女喪失だぞ」
「しょ……!」
叫びそうになってから、***はゆるゆると弱々しく笑った。
「そうだね……」
「……」
「たかが、キ、キス……だもんね」
「……」
「それくらい……ね」
「……」
***は目を伏せると、小さく「じゃあ」と言って、踵を返した。
無意識に、キッドの足が***を追う。数歩で追いつくと、その腕を掴んだ。
驚いて振り向いた***が何かを言う前に、キッドは***にキスをしていた。
唇を押し付けただけの、触れるだけのキス。ただそれだけなのに、***の匂いが近すぎて、それだけで気持ちがいい。
最後に、食むようにして唇を動かす。名残惜しく離れてから、***を見下ろした。***は、鳩が豆鉄砲を食らったようなカオで、キッドを見上げていた。
「こういうのを、キスっていうんだよ」
「……」
「記憶差し替えとけ」
「……」
「……同じクズでも、見知ったクズ相手の方がまだマシだろ」
ぐしゃと、***の頭をひと撫でして、キッドはくるりと踵を返した。玄関ドアを勢いよく開けると、逃げるようにして家の中へ入る。
そのまま玄関ドアに寄りかかって、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「柔らけ……」
口を突いて出た感想がそれで、キッドは自分の下劣さに心底嫌気が差した。
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