33

 覚束ない足取りで玄関先に立つと、ゆるゆるとバッグを探って鍵を取り出した。


 視点が定まらないせいか、何回かカツカツとドアノブに鍵がぶつかる。


 やっとの思いでそれを差し込むと、かちゃりと金属音が鳴った。


 ゆっくりとドアノブを回して、家の中に滑り込む。


「ただいまー……」










『ただいま! よし、***! すぐメシにしよう! 今日のメシはなんだ?』

『今日はねー、スパゲッティにしようかな』

『スパゲッティっ? ***はスパゲッティも作れんのかっ!』

『ははっ、エース、野菜切ってもらっていい?』

『おう! まかせろ!』










「……」


 バッグを床に投げ出して、そのまま自分も転がった。


「あー……冷たくて気持ちいいー……」


 このまま寝ちゃいたいな。でも、明日も仕事だしな。朝になってから慌てるのやだな。


うー……でも、動きたくない。


 だらだらと、脳内でそんな葛藤を繰り広げた。


「……お風呂入ろう」


 汗もかいたし。


 言うことをきかない身体にムチを打って、のろのろとその準備にとりかかる。


 着ていた服を洗濯機に入れるため、その蓋に手を掛けた。










『うおっ! ***っ! なんだこれっ!』

『洗濯機だよ。エースの世界にはないの?』

『ねェ! こ、これで洗濯するのかっ……!』

『エースの世界ではどうやって洗濯するの?』

『おれらは、あれだ。板でやる』

『へェ……意外とレトロな』

『うおっ! ***! なんかガタガタいってんぞ!』

『……脱水だよ。乾きやすいように水気を取ってるの』

『そっ、そうかっ』

『……エース、あとでボタン押してみる?』

『いいのかっ?』

『い、いいよ』

『押すっ!』










 蓋を閉める音が、やけに大きく聞こえた。


「……さ! 入ろう入ろう!」


 わざとらしいくらいに元気よく声を張って、浴室へ向かった。





 いつもより手短にシャワーを済ませて、歯を磨こうと洗面所に立つ。


 歯ブラシを取ろうとして、手が止まった。


 そこには、ピンクとブルーで並ぶ二本のそれ。


「……」


 いつも手にする方ではない方を手にとって、ゴミ箱の前に立つ。


 指の力を抜くと、ことっと音を立ててその底に落ちた。


 くるりと身を翻して、また洗面所へ戻る。


 歯磨きを済ませて、就寝のために消灯しようとスイッチに手を伸ばす。


 が、自然と足はゴミ箱の方へ。


 中を探って、先ほど放った歯ブラシを手にする。


 そのまま洗面所へ戻って、またそれを元あったところへ戻した。


 もう、こんなことをかれこれ1ヶ月ほど繰り返している。


 エースは、あの日から帰ってきていない。


 あの日、5時間近く待ってから、もしかしたらよほど疲れて眠ってしまっているのかもしれないと思って家に帰った。


 でも、家はもぬけの殻。


 エースの行きそうなところを探してみたけど、エースはどこにもいなかった。


 立てかけた歯ブラシをみつめる。


 信じられなかった。


 エースが、いないなんて。


 もう、会えないなんて。


 信じたくなかった。


 だから、翌日も、その翌日も、そのまた翌日も。


 エースの分も、ご飯を作った。


 ……待っていた。エースを。


「……バカだな、私」


 ほんとは、わかってたんだ。


 エースは、帰ってしまったんだって。


 こうなってしまうと、なんだか夢をみていたんじゃないかと思ってしまう。


 でも、


 洗面所には、エースの使ってた歯ブラシ。


 洗濯物の中には、デパートで一緒に買った男物のパンツ。


 食いしん坊のエースのために、たくさん買っておいた食材。


 それらがすべて、エースは確かにここにいたんだと証明している。


 あの日から、私の時計は止まったままだ。


「……忘れなきゃ」


 たった、数日。


 これから何十年あるであろう人生の中の、たった数日だ。


 そんなものに、私はいつまで囚われているんだろう。


 これで、よかったんだ。よかったに決まってる。


 ずっとあのままでいられるはずはなかったのだから。


 エースだって、きっと今頃元の生活に戻れて安心しているはずだ。


 ……笑ってるはずだ。


「私のこと、忘れないでくれてるといいな。あ、でも困らせるようなこと言っちゃったからもしかしたら嫌われちゃってるかな」


 謝りたかったな。


 伝えたいこと、もっとたくさんあった。


 どんなに願っても、もうそれは叶わない。


 エースにはもう、会えない。


 そう思った途端、


 暖かい滴が頬を伝った。


 ぽたぽたと、床に水たまりができていく。


「あれ、ははっ、お酒のせいかな。……涙腺が」


 拭っても拭っても、溢れて止まらない。


「っ、泣くな、バカ……」


 これでよかった。よかったんだよ。


 きっと、すぐに忘れられる。いい思い出にできる。


 でも、


 でもね、エース。


「っ、ど、……してっ」


 どうして? エース。


 どうして、来たの?


 どうして、いなくなっちゃったの?


「っ、嘘つき……」


 帰らないって、言ったのに。


 どうして、帰っちゃったの?


 気が付いたら、声をあげて泣いていた。


 何度も、何度も、エースの名を呼んだ。


 でも、エースはもういない。


 どんなに呼んでも、もう答えてはくれない。










 あの太陽みたいな笑顔にはもう、会えないんだ。










『おれエースってんだ。よろしく』










『***すげェな! ハンバーグも作れるのか!』










『そんな……いつでも会えるようなヤツらを優先すんじゃねェよ』










『おれ、拾われたのがおまえで良かった』










「っ、エースっ、エースっ……」









 悪い人には見えないとか、そんなんじゃない。










『***がおれを信じてくれたから……この世界でも、おれはおれでいられたんだ』










 そんな理由で、信じたんじゃない。










『ありがとう、***』










 あの日、初めて会った時。










『ありがとう、***。メシうまかった』









 あの太陽みたいな笑顔に、出会ったあの日。










『***か。……よろしくな!』










 私は、エースに、










 恋をしてしまったんだ。


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