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なかったことにしたい。
昨日のあのセリフを言う1秒前の私にビンタしたい。
誰かドラ○もんを呼んでください。
会社のデスクに突っ伏したまま、私は大きなため息をついた。
昨日の夜も、今日の朝も、どことなくエースと私はぎこちなかった。
原因は分かりきっている。
「***? ランチ行かないの?」
「うー……今日はいいや。ごめんね」
あっそう。んじゃねーというあっさりとした言葉と一緒に、その声の主は去って行った。
なんであんなこと言っちゃったんだろう。
『エース、どうしても帰らなきゃダメ?』
ダメだよ。ダメに決まってんじゃん。
エースの大切なものはすべて、エースの世界にあるんだから。
あーとかうーとか唸りながらデスクにガンガン頭を打ち付けている私を、上司が訝しげに見つめている。
エース、困ってたな。
そりゃそうだよね。いきなりあんなこと言われたんだから。
あんなカオ、させるつもりじゃなかったのに。
後悔先に立たずとはまさにこのこと。
恥ずかしさやら情けないやらで、もう消えてしまいたいという気持ちでいっぱいだ。
……でも。
あれが、私の本心だ。
私、エースと離れたくないと思ってる。
帰ってほしくないと、思ってる。
それも、昨日今日の話じゃない。
ほんとはずっと、そう思ってた。
「ひどいヤツだな……私」
エースの気持ちも考えずに。
せっかくエースが、私を頼ってくれているのに。自分のことしか考えてないで。
目を瞑ると、昨日のエースの困惑した表情が、まぶたの裏に浮かぶ。
あー……もうっ!
思いっきりひとつ、デスクに頭を打ち付けた。
その途端、上司の身体が大きくびくついた。
謝ろう、エースに。あんなこと言って、困らせてごめんって。
エースが早く帰れることを、願ってるって。
そう思ったら、胸がずくりと大きく痛んだ。
痛む、けど。
私の気持ちなんて、どうでもいい。
エースが笑ってくれれば、それでいい。
……よしっ!
気を取り直すと、私は思いっきり頬を両手で叩いた。
今日はさっさと仕事終わらせて、早く帰ろう。
夕飯はエースの好きなものをたくさん作って。
食べながらまた、オヤジさんや仲間の話を聞いて。
そしたらきっと、エースは笑ってくれる。
気合いを入れてパソコンに向き合うと、お昼も食べずに仕事に没頭した。
*
カツカツカツっと、ヒールが忙しなく音をたてている。
服が乱れて、化粧がもう跡形もなく崩れているのがわかる。
早くしなきゃ。
エースが、待ってる。
ひゅうひゅうと息が切れているが、スピードを緩めずに走っていく。
まず、会ったらすぐ謝ろう。
大丈夫、シミュレーションなら何回もした。
エースはきっと、「そんなこと気にしてねェよ」って笑ってくれる。
そしたら、食べたいものを聞いて。
チャーハンとハンバーグは絶対作ろう。
エースはお肉に偏るからな。野菜もちゃんと食べてもらわなきゃ。
あっ、今日は買い物して帰ろう。 エースと、二人で。
玉ねぎと……あ、卵もないや。
あとはエースと話し合いながら食材選んで……。
そんなことを考えながら、いつもの待ち合わせ場所に辿り着いた。
……あれ?
いるはずのそこに、エースがいない。
「……なんで?」
なんで、って……
そんなの……
『おれ、多分もうじき』
どくっと、身体が大きく揺れた。足が、小刻みに震えている。
……違うよ。
だって、今日は帰らないって言ってた。帰りも迎えに来るって。
エース、言ってたもん。
いつも、エースが座って待っているところに身体を預けた。
きっと、疲れて眠っちゃってるんだ。昨日は大はしゃぎしてたもんね。
エース、起きたら慌てるだろうな。やべェ! とか言いながら飛び起きて……。
あ、ちゃんと鍵閉めてくるかな。
ははっと、乾いた笑いが情けなくもれる。
……来るよね、エース。
約束したもんね。
……大丈夫だよね。
息を大きく吸って、はいた。
待ってるよ、エース。
でも。
エースは、来なかった。
2時間待っても、3時間待っても。
5時間待っても。
エースは、来なかった。[ 31/35 ][*prev] [next#]
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