30
からんっ。
「あっ」
「ん? ……あっ!」
テンガロンハットの先に付けていた飾りが、前触れもなく、床にころんと転がった。
「取れちまった!」
エースはしゃがんでそれを拾い上げると、呆然と立ち尽くしてしまった。
「エース、ちょっと見せてみて?」
そんなエースを見かねた***にそう言われると、エースはそれを***に手渡した。
「うーん……」
唸りながら、***はエースのテンガロンハットの先とそれを交互に見やる。
……ち、近ェ。
エースの頭に乗っているテンガロンハットに近づいているため、***とエースの距離は自然とゼロに近くなっている。
「あ、大丈夫だよ、エース。これならなんとかまた付けられるとおも……う」
「あ……」
突然、***がそのまま上を向いたため、エースから見ると、まるでキスをせがまれているように見えた。
「ごっ、ごめん!」
「い、いやっ! だ、大丈夫だっ!」
びっ、びっ、びっくりした……! いきなり上向くから……!
二人のあいだに、沈黙と気まずい空気が流れる。
「……今付けようか? エース」
「あ、いや……***、もう時間ねェだろ?」
そのやりとりは、出勤前の玄関先でなされていた。もういつもの時間はとっくに過ぎている。
「でも……」
「へ? ……あァ」
***が深く俯いているのを見て、エースは***が言わんとしていることを悟った。
「***、大丈夫だ。帰ってからでいい」
「でも、エース」
「***」
***と目線が合うように、エースは小さく屈んでみせた。
「大丈夫……まだ、帰らねェから」
「エース……」
***は再び深く俯いたが、しばらくすると力なく笑って、玄関先にあるシューズボックスの上にそれを預けた。
*
「じゃあ行ってくるね、エース」
「あァ」
そう言って、***がくるりと背を向けて去っていく。
「……***!」
「え?」
その背中に、突然、エースは***を呼び止めた。
「あ、いや、その」
「?」
「……帰りも迎えに来るからな」
「エース……」
***は、少し眉を寄せて笑った。
それはどこか、少し物悲しそうにも見えた。
「行ってきます」
「……あァ」
小さくなっていくその背中を、エースは見えなくなるまでずっと見つめていた。
*
***を見送った後、エースは一人ベンチに座った。
考えてしまうのは、やはり昨日の***のことだ。
『エース、どうしても帰らなきゃダメ?』
エースは、くしゃくしゃと頭を掻いた。
あんなこと、言われても困る。
困る、けど。
それを遥かに凌いで、うれしい。
あんなふうに言うってことは、おれとまだ一緒にいたいと思ってくれているってことだ。
***がそういうことを言うのは、初めてだ。
いっそ、『早く帰れるといいね』とか、『また手がかりが見つかってよかったね』とか……。
いや、もちろんそれはありがたい。ありがたいんだけど。
どこか、寂しいと思ってしまっていたんだ。
おれだけが、離れたくないと思っているような気がして。
おれは、おかしい。おかしくなっちまった。
離れなければと思えば思うほど、
***を知れば知るほど、
ますます、離れがたくなっていく。
『……***……おれは』
おれはあの時、なにを言うつもりだったんだろう。
***を思うと、心の真ん中が、ぎゅうっとしめつけられるように苦しくなる。
会えなくなる日がいつか来るんだと思うと、
心が、ちぎれそうになる。
身体に触りたいし、なんていうか……
心が、ほしい。
おれと同じように、***にもおれを思ってほしい。
おれは、病気なのか? こんなふうになっちまうなんて。どこかおかしいとしか思えない。
どうして***なんだろう。
異世界に来ちまったおれを、助けてくれたから?
うまいメシを食わせてくれるから?
おれを、信じてくれたから?
それもあるんだろうけど。多分、そうじゃねェ。そういうんじゃなくて。
もっと、なんか、こう。
……それがなんなのかはわかんねェけど。
そこまで考えると、エースは大きくため息をついた。
どうしよう、おれ。このままじゃ、帰れねェ。
エースはさっきよりも強く頭を掻きむしった。
いっそのこと、さらってしまいたい。
でも、力づくでそんなことしたら、***の心は手に入らねェだろうな。
心がほしいなんて思ったことねェから、どうしていいかわかんねェ。
エースは、空を仰いだ。
……伝えてみるか、***に。
今、思ってることすべて。
どうなるかなんてわかんねェけど、それでも。
おれの気持ち、知ってほしいから。
……よしっ!
エースはそう決心すると、すくっと立ち上がって歩き出した。
そうと決まったら、さっそくどう切り出すか考えなきゃな。
エースは、歩きながらうんうんと唸った。
***は、どう思うだろうか。
おれのこの気持ちを知ったら。
もし、
もしも、
***も、同じ気持ちでいてくれたら。
おれたちは、どうなるんだろう。
「早く帰ってこねェかな、***」
ついさっき別れたのに、もう会いてェな。
……なに言ってんだ、おれ。
エースは、そんな自分が照れくさくなって、緩んだ頬を引きしめるようにぺしんと叩いた。
そのまま、歩道橋の階段に差し掛かる。
その時だった。
……なんだ?
突然、目が痛いくらいに眩んだ。
何かが、光っている。
……この感じ、
たしか、どこかで、
すると、何かにくいっと身体を引かれて、エースの足は階段を踏み外した。
そうだ……
これはっ……!
その光は、みるみるうちに大きくなっていく。
待ってくれっ……! おれは、まだ……!
***……!
そこで、エースの思考は止まった。
『それ』は、数秒だけ大きく口を開けると、すぐさま針の穴ほどに小さくなった。
まるで、何事もなかったかのように。
辺りは、不気味なほどに再び沈黙した。[ 30/35 ][*prev] [next#]
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