外を出歩けば必ず鼻が赤くなる。耳まで真っ赤になって、ほっぺたが痒くなる季節がとうとうやってきた。感覚のないかじかんだ指を擦り合わせ、白くなった息を吹き掛ける。
澄みきった、冬の香りのするこの空気が、とても好きで。夜の井の頭公園には街灯が歩道にしかないから、茂みに入って上を見上げれば、たくさんの星の光が私に降り注いだ。
「…寒くねーの?」
「…、」
後ろから飛んできた声に、ビクリと肩が揺れた。声を聞いただけで、誰かなんてすぐにわかってしまう。それはこの声を毎日のように聞いてるから。それ以外に、理由なんて、ない。
「…寒くないよ」
「ふーん…」
振り向かずに答えた声は、震えていなかっただろうか。こんなところ、本当は見せたくないから。だから、私は星から目を逸らさないで立って夜空を見上げたまま。
「なんで、いるの?」
「別に」
「答えになってない」
「そんなのどうだっていいだろ」
サク、と草を踏みつけてこっちに近づいてくる。距離を縮めないように、私も足を踏み出した。
「逃げんじゃねーよ」
「逃げてないもん」
「じゃあ止まれって」
「ヤダ」
後ろで手を組んで、また一歩踏み出す。こうやって一護くんと言い合うのは何度目かな。
なんで、この人はこうも私が辛いときにそばにいるんだろう。何も言ってないのに、なんで近くにいてくれるんだろう。
「…いい加減やめろって」
「…」
「お前、傷ついてばっかだろ」
「…別に、」
「…なんでそんな」
「………だって、」
発しようとした言葉は、言う前に喉の奥へ引っ込んだ。正確には、止められた。まるで、時間が止まったような感覚の中、私の心臓だけが不規則な動悸をしていて。
「それ以上、言うな」
「いち…」
「もうお前が傷つくの見てらんねぇ」
「…、」
喉からしぼり出す声が、
私を抱きしめる腕が、
甘い、彼特有の香りが、
私の胸を締め付ける。痛いのは、強く抱き締められている身体ではなくて、心。何も言えない。言えないからこそ、痛くて、苦しくて、息も出来ない。
「…悪い、」
「…」
「…そんな顔すんなよ。なんでもねぇから気にすんな」
ふいに、離された身体。温かい温度が私の身体から去って、代わりにまた冷たい空気がまとわりついた。
なんでもないなんて、ウソ。その嘘は、私を守るための、そして自分を守るための、ウソ。
「ほら、帰るぞ」
私から逃げるように踵を翻して私の目の前を歩いていく。それでもいつもよりも歩幅は小さくて。そんなところに気がついてしまう私もどうかしてると思う。
サク、サク、と2つの足音が鳴る。
私が追いかけていたはずの背中は、目の前の背中では、ない。けれど、なんでこんなに触れたいと思うのだろう。なんで、こんなにこの背中が大きく見えるのだろう。
「なぁ、」
「…っ」
伸ばしかけた手を、すぐさま引っ込めた。私は今、何をしようとしてた?
反応のない私の方を立ち止まって顔だけで確認した。その、少し機嫌の悪そうな顔が、今はなんだか苦しそうに見える。
そんな顔、しないでよ。いつものように、悪態つく一護くんでいてよ。
「…なまえ?」
「なに?」
「……ヘタクソ」
一護くんの不機嫌な顔がますます険しくなっていく。笑ったつもりだったのに、笑えなかったらしい。
私はこの人の前だと、笑えなくなる。どんどん仮面が剥がれ落ちていく。
「無理に笑ったってブサイクなんだよ」
「ひっどーい!」
「しょうがねぇだろ。自分で鏡見てみろよ」
「…ホント、ひど…っ」
「…バーカ」
顔を片腕で覆って、ズッと鼻をすすった。笑えなくなるまで、私は相当無理をしていたのかもしれない。次から次へと溢れ出す涙を止められない。
ふわりと頭に宿ったぬくもりは、いつも私のそばにいてくれたもので。私はこのぬくもりに甘えていたのだと、急に悟ってしまった。
「…優しすぎるよ、一護くんは」
「…どこがだよ」
「こういうとこが!」
「俺のこと優しいっつーヤツなんてお前だけだぜ?」
そんなこと言ってるくせに、頭を撫でる手は温かくて優しいじゃない。きっと今、困ったように笑ってるんでしょ?
もう、いっそのこと、奪ってくれればいいのに。なんて。
いつだってそばにいて、私を叱咤してくれて、慰めてくれて。きっかけはいつだって、一護くんだった。この気持ちに気づくのもそうだったんだ。
「優しすぎるんだよ…、」
「…」
だから、甘えちゃうんだよ。お願いだからこの苦しみからさらってくれないのなら、突き放してよ。もう、どうにかしてよ。こんな無限ループ、どうしていいのかわからない。
ゴシゴシと腕で目を擦れば、強い力で腕を掴まれた。外された視界に広がったのは、一護くんの真剣な、瞳。
「俺は優しくなんかねーよ」
「…、」
「こうやってお前のそばにいて、いつだって狙ってたんだから」
掴まれた腕に、力がこもった。脱け出せない。強い瞳に囚われてしまう。
「もう、アイツなんてやめろよ」
「…っ、」
「俺が拾ってやるから」
「…拾ってって、」
「なんだよ、文句あんのか?」
「…、」
私を見つめる真っ直ぐな眼差しは、ひどく私を居心地悪くさせた。いつもはそんなこと言わないのに。あんなヤツ追っかけてるお前はバカだ、って言うのに。
目の前にいるこの人は私を叱咤して、奮起させてくれた一護くんでは、ない。初めて見た、男の人、だ。
「なまえ」
腕を掴まれたまま名前を呼ばれ、思わず、目を逸らしてしまった。
本当は、気づいていたんだ。見て見ぬふりをしていた。なのに、私はこんなにも一護くんに甘えてきてしまった。自分の痛みから逃げたくて、一護くんの優しさにつけこんだんだ、私は。
目を伏せてうつ向けば、そっと頬をなぞられて。普段はこんなふうに触らないのに、まるで壊れ物を扱うように触れる指先から、一護くんの気持ちが流れ込んでくるような気がした。
「もう傷つくなよ」
「…、」
「なまえ…」
私の肩に大きな手が触れる。ダメだ。もうこれ以上、甘えては。消し去るために、利用するなんて。
それを拒むように、私は一護くんの胸に腕を突き立てた。
「ダメ、だよ」
「なまえ」
「ダメだよ、だって、私、まだ」
ギュッと目を瞑って呪文のように呟いた。流されちゃ、ダメだ。だって、私は。
ぐらぐらと揺らぐ不安定な気持ちは今にも倒れてしまいそう。汚い。綺麗じゃないよ、こんなの。なんで私なんかを。
それでも一護くんは、こんな狡くて汚い私をまるごと大きな身体で抱きしめた。
「いいから、何も考えず俺のもんになっとけ」
「一、護…」
「俺が全部受け止めてやるから…」
じわじわと、染み込んでゆく。一護くんの言葉が、体温が、私に。
そっと甘い香りを吸い込んで、息を吐き出す。それから昔よりも逞しくなったその肩に顔を埋めた。
近すぎたキョリ
何故か、一護くんに抱きしめられた瞬間すごく安心した。今まで苦しかったのが嘘みたいに、呼吸が楽になったんだ。
なんていうか、身体が、心が、ずっとこうして欲しかったって言ってる気がする。
そっと形を確かめるように背中に手を回せば、息が出来ないくらい強く抱き締められて。小さな、掠れた弱々しい声で何度も名前を呼ばれた。
いいのかな、流されてしまっても。なんで、こんな私なんか。そんなことわからないけれど、今はまだこの腕に包まれていたくて。
抱き締められながら感じたのは、悲しくて切なくて、甘い痛みだった。
end