電気をひとつだけつけて、暗がりの中で熱くなったオーブンに顔を近づける。平たい物体は徐々に丸みを帯びて、こんがりと色がついてゆく。それに綻ばせながら、またタイマーに目を移した。
シンクには銀のボウルやヘラなどが散乱していてマスターに見つかって怒られる前に片付けなきゃ、と物音を立てないようにあと数時間に迫る登校時間に思いを馳せた。
「おっ、おはよっ」
「みょうじ、おはよ!珍しくギリギリじゃん」
「ちょ、っと寝坊して」
「ははっ、そっか!」
切らした息を整えながらキョロキョロと辺りを見渡すけれど、いっちゃんが見当たらない。女の子に囲まれたハルくんは首を傾げた。
「今日は一護と一緒じゃないの?」
「うん、私が先に行ってって言ったんだよね」
「…でも鞄はあるよなぁ」
「だよねぇ」
「…一護なら朝っぱらから女子に呼び出されてたぞ」
バッと後ろを振り返れば大きなあくびをしてダルそうにしてる剛史くんがいた。
「それホント?」
「なんか無理矢理連れてかれたけど」
固まって何も聞けない私の代わりにハルくんが剛史くんに聞いてくれた。あ、と声を上げて指を指す剛史くんにつられて窓から下を見下ろすと。
「……、」
「告白、だな」
「ま、まぁ、みょうじ、一護は断るから大丈夫だって」
「ああ、大丈夫だろ」
「…そう、かな」
ギュッと鞄を抱き締めた。未だに、いっちゃんは私なんかでよかったのかな、とか思ったりするから、こんな場面を見てしまうと不安になる。それにいっちゃんに寄ってくる女の子ってかわいい子ばっかりだし。
「…なんか、いい匂いする」
「え?」
剛史くんが、くんくんと私の近くに寄ってきて匂いをかぐからちょっと恥ずかしい。幼なじみだからってそうやってされると、周りの目が気になってしまうんだけれど。
「あ、あの、剛史くん…」
「なに?」
「ほら、剛史!みょうじが困ってるだろ!」
「…あ、…わりぃ」
この状況に気づいたのか、剛史くんは顔を背けて私からパッと離れた。髪から覗く耳が赤くなってる。昔もこういう照れ方したな、と思い出してハルくんと目を見合わせて笑った。
いっちゃんは予鈴ギリギリに帰ってきて、話す暇もなく授業が始まってしまった。チラチラといっちゃんは私の方を見るけど、なんだか私は目を合わせることが出来なくて。
なんか、モヤモヤする。ハルくんや剛史くんと一緒に話してるとこんな気持ちにはならないのに。なんで、こんな気持ちになるんだろう。
「おい」
「…、」
「なんで今日先行ってって言ったんだよ」
「…ちょっと、寝坊しちゃって」
「はぁ?寝坊かよ」
「う、うん…」
「それくらいなら待ってやったのに」
いっちゃんはそう言って私の髪に触れた。優しい瞳で見つめられるけど、それがかえって私の不安を煽る。
なんで、いっちゃんはそうやって何もなかったように話しかけてくるの?さっき、告白されてたのに。ねぇ、断ったんだよね?
「…なまえ?」
「ちょ、ちょっとトイレ!」
「あっ、おい!」
なんだか自分の気持ちに頭がついていけなくて、いっちゃんの目の前から逃げた。きっと、あのままいっちゃんと話してたら、とんでもないことまで言ってしまっただろうな。
「…はぁ…、」
便器の蓋の上でうずくまって座った。なんだか、情けない。いっちゃんの彼女は私だって胸を張ってればいいのに。そんな自信も、なんでいっちゃんが私を選んでくれたなんて、わかんない。
でもそんなこと、言えない、けど。
教室に戻ったらいっちゃんはもういなくて。購買にでも行ってるのかな、とあまり気にはしなかった。むしろ、その逆で、いたらきっと変な態度とっちゃうだろうから胸を撫で下ろした。
ご飯を食べようと席に戻ろうとしたら、剛史くんとハルくんが二人で楽しそうにしてて、近づいてみると、ふわっと甘いいい香りがした。
「…剛史くん、何食べてるの?」
「一護からもらった」
「え、」
「なんか女の子からもらったんだって!」
「…そう、なんだ」
「んで、他の女からもらったの喰えるかって言ってたから俺がもらった」
「…!」
なに、それ。なんでそんなことを剛史くんやハルくんの前で言うのよ。そんなとこ、一度だって私には見せないのに。
きっと、赤くなってるだろう頬を隠すように俯いた。なんとなく、幼なじみのこの二人に言われるのが恥ずかしかった。
「つーか、一護にクッキー作ってくる時点でケンカ売ってるよな」
「んー、でも、このクッキー本当に美味しいよ?」
「まぁな」
「…そうなの?」
「みょうじも食べてみる?」
ズイ、と剛史くんから無言でラッピングされた包みを目の前に出された。じゃあ、なんて言いながら1つだけ指でつまんだ。紅茶の、オシャレなクッキーが顔を出す。
「……、美味しい…、」
「な?美味しいだろ!?」
「…うん…、」
席戻るね、とそのままその場を離れて、もそもそとお弁当を食べた。ハルくんは心配そうにしてくれたけど、なんかもうそれどころじゃなくて。
だって、本当に美味しかったんだもん。
…私が作るのよりも。
もうそれからは放課後まで早くて、あっという間にホームルームになった。授業中も上の空。いっちゃんとも私が一方的に気まずくて上手く話せてる自信がない。
「なまえ、帰るぞ」
「あ、…うん」
モヤモヤとした、晴れない霧。きっと、それは鞄の中にあって。勇気を出して渡せばいいのに、いつまで経ってもできない。
いっちゃんの斜め後ろで廊下をボーッとしながら歩いていたら、足がクン、と引っ張られる感じがして、足が宙に浮かずに身体が前のめりになる。
「え、わっ!」
「は?」
手のひらと膝が、痛い…。ベチャン!と盛大にコケた私に溜め息をついて、目の前にしゃがんだいっちゃん。周りにいる人もクスクス笑ってて本当に恥ずかしい。
「本当にトロくせーな」
「ひ、紐踏んじゃったみたい…、」
「ケガは?」
「……膝、打った」
「ったく」
くしゃくしゃと頭を撫でて、赤くなった膝を気にしながら私を立たせてくれたいっちゃんはやっぱりかっこよくて。なんで、私の彼氏なんだろうって見上げて思った。
「ほら、鞄」
「あ、ありが……あっ!!」
「な、なんだよ!」
慌ててしゃがんで、いっちゃんから守るようにファスナーを開けて中身を確認する。思ったとおり中身はごった返しになっていた。嫌な汗が背中を伝う中、教科書とかをかき分けて、見つけたピンクの可愛い袋に触れた。
「…、」
「?どうした?」
「っ、なんでもない!」
頭を真横に振って立ち上がった。いっちゃんの手を無理矢理引いて、早く帰ろうと促す。本当は前を歩いて口を結んでないと、涙がこぼれそうだった。
本当に自分のダメさに嫌気が差す。粉々になったクッキーなんて、もう、捨ててしまおう。せっかく、何度も作り直したけど。
本当は、いっちゃんに食べてもらいたくて作った。上手くなったな、って言って頭を撫でてもらいたかった。でも、もういいや。
「なにイライラしてんだよ」
「してないよ、」
「…」
「気のせいだよ、きっと」
パッと手を離していっちゃんに背を向けて靴箱に上靴をしまった。涙が出そうな、弱い自分に苛つく。なんか、だんだんさっき転んだ膝が痛み出してる。もう、それすらも鬱陶しい。
イライラしてるのは、自分自身に。なんの取り柄もない、こんな自分に腹が立つんだ。
「なまえ」
「なに、いっちゃん」
「こっち向けよ」
「…、」
「なぁ、」
くるっと身体を反転させられて、いっちゃんが私の両脇に手をつく。顔が上げれない。だって、私酷い顔してるもん。
「なにに怒ってんだよ」
「…」
「俺のせいかよ」
「ち、ちが!」
バッと顔を上げれば、私を見下ろしてるいっちゃんの顔があって。怒ってるのに、なんだか悲しげに見えた。
「じゃあなんだよ!」
「…、」
あ、泣きそう。少し荒げた声に、ピクッと肩が反応した。無理矢理引っ込めたはずの涙が、また瞳に溜まってゆく。堪えきれなくてうつ向けば、一筋の雫が頬を伝った。それをそっと親指で撫でられる。
「…、なぁ、どうした?」
なんか、もう抱きついて泣き出してしまいたかった。でもそんなのなんかズルくて、素直じゃない私は出来ないんだけど。自分でも心も頭の中もぐちゃぐちゃで、整理が出来なくて、いっちゃんがどんどん歪んでいく。
「だって、」
「ん?」
「私、何も出来ない…!」
「…はぁ?」
ズルズルとその場に座り込んで泣き出した私を覗き込むようにしゃがんでいっちゃんは私の頭を撫でる。
「だって!私、お菓子とか料理も作れないし、なんもないとこでコケるし、ドジだし、」
「…」
「いっちゃん告白されてるの見るのも、他の女の子からお菓子もらうのだってなんかモヤモヤしちゃうし、」
「…、」
「せっかく作ったクッキーも粉々なるし、勉強も出来ないし、可愛くないし…、いっちゃん、こんなんじゃ、嫌いにな」
チュ、とリップ音がして、すぐに離れていった。唇に残る仄かな体温に、目をパチパチと瞬かせる。するといっちゃんは困ったように笑って私の頬をなぞった。
「…バカだな」
「…」
「嫌いになるわけないっつーの…」
「いっちゃ…、」
「俺がそのまんまのお前を好きになったんだから、んなの関係ねぇよ」
あーあ、ひでぇ顔。と呟いて私の顔を乱暴に袖で拭った。ちょっとヒリヒリするけど、嬉しそうに笑ういっちゃんを見たら、なんかまたよくわかんなくなってしまった。
「で?」
「へ?」
「ほら、出せよ。作ってきたんだろ?」
「…、」
鞄から恐る恐る袋を取り出せば、ふーん、と言ってひょいと私の手の中から取り上げた。あ、と見上げた時には遅くて。
「食えるじゃん」
「…、」
「今まで作った中で一番上手くいったんじゃねぇの?歯触りもいいし」
「…うん、やっと形も味も上手くいったと思ったから、尚更悲しかった」
「…」
ポンポンと、うつ向いた私の頭を撫でて、いっちゃんは私を引っ張り上げた。そして靴箱から私の分のローファーも出してくれて、私の手を引いて歩きだす。その温かさに、またちょっと泣きそうになった。
「コレ、何回目だよ」
「…ん?」
「クッキー、昨日作ってたんだろ?何回作り直した?」
「…、3回」
「…だからか、」
「えっ?」
「お前昨日の夜電話取らなかっただろ?んで遅くまでやってたから寝坊したんだろ、結局」
「……だって、いっちゃんに美味しいって食べてもらいたかったんだもん…」
いっちゃんの手をぎゅっと握り返せば、隣からため息が聞こえてきて恐る恐る顔を上げた。
「あのな…、あまり、可愛いことすんなよな」
「へ?」
「ったく、無自覚かよ」
少し赤くなったいっちゃんは、見んじゃねーよ、と私に吐き捨てて強引に手を引いた。前のめりになりながらも、スタスタと歩くいっちゃんのスピードについてゆく。
「早く帰るぞ!」
「まっ、待ってよ!いっちゃん歩くの速いよ!」
「俺は早く抱きしめたいんだよ!」
「…!」
こんな気持ちになるのはあなたにだけ
いっちゃんの部屋に入るなり、後ろからぎゅうっと抱きしめられたと思ったら、ため息が聞こえてきた。
「やっと、着いた…」
「いっちゃん…、」
「…お前、人が多いところであんなこと言うんじゃねぇよ」
「あ、あんなことって?」
「…わかってねぇのか、」
「な、なにが!?…っていうかいっちゃんだって人がいるのに玄関でキスしたじゃん!」
「あれはお前が悪いだろ、絶対!」
「そんなの…んっ!」
「…いいから、もう黙れって。マジで我慢の限界」
優しく、でも力強く、頭を抱き寄せられて、私はそっと瞳を閉じる。
絡み合った糸を優しくほどくように何度もキスをされる。ごちゃごちゃなわけわかんない気持ちになるのも、いっちゃんのせいだけど。
ふわふわと波間を漂う私は、もう、このままでもいいか、と思えるくらいどうでも良くなって。何も考えずに、いつまでもこうやっていっちゃんに身を任せていたいと思った。
end