だいぶ陽が高くなってきて、五時をすぎても暗くはない。沈み出した太陽は少しだけオレンジ色に姿を変えて俺たちを包みこむ。


「…ハル」

「ん?」

「……よかったのか?」

「…何が?」

「行かせたく、ないんだろ?」

「……」


誰を、とは言わない。ハルは少しだけ目を伏せて、ふっと笑った。


「…別に、いいんだ。りっちゃんはみょうじのことが好きなんだし」

「…お前はそれでいいのか?」

「…うん」


そう言ったハルの顔は、言葉に反して沈んでいた。いつもハルは我慢する。昔からなんでも人に譲って自分は二の次だ。自分が欲しいものを欲しいと素直に言えないこともハルの性格だとわかってる。それがハルの美徳であって、短所だということも。


「………理人が、なんでハルにつっかかるように言ったかわかってるか?」

「…え?」

「あいつ、ハルがいいって言った時の顔、スゲー不満そうだった」

「……」


理人が思ってることは、俺だってずっと感じていたこと。

ハルがいいならそれでいいと、俺は思っていた。けれど理人は違った。あいつが考えてること全部をわかることは出来ないけれど、きっと悔しくて悲しいんだろう。全てを人に譲り、何も言わないハルのことが。


「お前は…もう少し欲張りになってもいいと思う」

「…、」

「…理人もそう思ってる」

「……俺は…、みんなが笑っていればそれでいいよ」


そう言って伸びてゆく影を光のない黒い瞳で見つめた。

こいつは、ハルは、勘違いをしている。自分が我慢すれば俺たちがまた笑えると思っている。自分が我慢することが、俺たちが笑ってられる方法だと信じ込んでいる。

ハルはずっとなまえへの気持ちを我慢してきた。だけど俺たちは今、笑っているのか?理人の悔しそうなあの顔を、笑っているというのだろうか。


「…ハル、」

「…じゃあ、剛史!また明日!」


違う、と言いたかった。お前が我慢しなくたっていいんだって。

そんな俺の声と重い空気を吹き飛ばすように明るい声でハルは言う。張り付けられた笑みは、嘘か、真か。いつから俺は、ハルの本当の笑顔を見ていないんだろう。

見上げればいつの間にかハルの家の前で、俺はなんとなく気まずくなりながらもそのまま歩を進めた。












クロフネでタダ飯とコーヒーを平らげたあと、欠伸をしながら俺は番台に座っていた。

休みの日もクロフネに行くのが日課になっているけど、今日は気持ち悪いくらい静かだった。

理人となまえが映画を見に行くと言ってたからか俺が行った時には既に二人はいなく、ハルも少しだけ顔を出して早々と部活へ行った。結局残ったのは俺とリュウ兄だったけど、そのリュウ兄も親父さんからの招集で飛び出して行って、最終的に俺だけ。

日曜日の昼間ということもあってクロフネは客で賑わっていたが、いつもある賑やかさはない。漫画を読むにはあいつらがいないのは丁度いいけど、それが妙に寂しく感じた。


「はぁ…」


ため息をつきながらページをめくる。やっと客足が落ち着いて気になってた続きを読めると思ったところだった。


「なにタケ兄、ため息なんかついちゃって」


滅多に訪れないやつが俺の目の前にいる。理人の顔を眉間に皺を寄せて凝視すれば、理人は苦笑した。俺の隣にしゃがんで壁に凭れかかり、コン、と頭を壁にぶつけて。理人はらしくもなく暗い表情で、何も映さないその瞳でぼーっと遠くを見ている。

なまえと出かけた帰りに直接来たっぽいし、何かあったんだと推測出来た。そんな理人を気にしながらも俺はまたマンデーをめくりながら口を開く。


「…なまえと映画見に行ったんじゃなかったのか?」

「…ん、行ったよ。よくわからない映画だった」

「なんだソレ」

「だってさ、大好きな人が他の男とラブラブしてるの間近でずっと見せられるんだよ?それって幸せって言えるの?」

「……さぁな」

「…僕は絶対にヤダ」

「……」


俺は映画には興味ないから、理人たちが見に行ったものがどんな内容なのかは知らない。だけど理人が言う内容は近からず遠からず、といったところで俺らの関係に似ていたようだった。

パタンとマンデーを閉じて目の前の勘定台の上に置く。


「…じゃあお前は好きなやつが他の男と付き合ったからってそいつから離れていくのか?」

「…、」

「…人の幸せなんて他人が決めるもんじゃねーよ」


ハルのことを思い出す。俺はあいつに諭すようなことを言ったけど、そんな偉そうなこと言える立場じゃなかった。どんなにあいつが辛そうな顔をしたって、苦しくたって、その幸せを決めるのはハル自身なのだから。


「……ねぇ、タケ兄、」

「…あ?」

「…僕、余計なことしたのかな」

「……お前はみんなを思ってしたことだろ」

「っ、」


理人は勢いよく俺を見上げた。縋るようなゆらゆらと揺れている瞳で、今にも泣きそうだった。こんな理人は久しぶりに見る。


「……タケ、兄…」


俺の名前を呼んだ理人の声は震えていた。理人はギュッと膝を抱え込み、組んだ腕に顔を埋めた。その肩も、少しだけ震えている。


「……みんなが…、幸せになれる方法ってないのかな…」

「…」

「僕、このままじゃ、やだよ…」

「…ああ」


クシャリ、と理人の髪を撫でる。くぐもった声で吐き出した理人は、何かに耐えるようにパーカーを両手でギュッと握った。

俺はただ、子どもの頃のように震える理人の頭を撫で続けていた。





なんとなく、こんなことになるかもしれないとなまえがこっちに戻ってきてからずっと思っていたんだ。俺たちにとってなまえは昔から特別な存在だから、紅一点のあいつを取り合うかもしれない、と。

いつか壊れてしまう関係だったのかもしれない。大人になれば考え方や感じ方も変わる。それに加えて大人の黒い部分に触れれば純粋なものだけで物事を見れなくなってしまうから。大人になっても子供の頃のような関係を続けられることの方が稀だと思う。

でもこんなことで壊れる関係だったと思いたくない。いつだって俺たちはいつの間にか一緒にいて、それが当然のように過ごしてきたから。

今更離れろったって出来るはずがない。きっと他の奴らも俺と同じで。どこかモヤモヤしたものを感じながら、心は互いに引き合っているはずだから。






大きな欠伸をして突っ伏した。ざわざわと挨拶する声や昨日のドラマがなんだとか騒がしい。

ガタン、と後ろから椅子の引く音がして耳を傾ける。雑音の中でソプラノの音がやけに澄んで聞こえた。


「もー、剛史ってばまた朝から寝てる!」

「まぁ剛史はいつものことだからね」

「不健康だなぁ…」


ハルとなまえの声が聞こえる。なまえの声は案外普通そうだ。昨日理人の様子がおかしかったから何かあったんだと思ったんだけど俺の気苦労だったみたいだ。

寝るにも寝れず起き上がって二人の方に向き直った。けど、なまえの顔を見て俺は思わず言葉を失う。

普通だと思ったなまえの顔は、瞼が腫れていないにしても明らかに寝不足のせいで酷い隈が目の下に現れている。そんな俺を、ハルとなまえは苦笑いで見た。


「…剛史あまり見ないでよ、恥ずかしいじゃん」

「…あ、わり」

「昨日借りてたDVD観たら止まらなくって夜更かししちゃった」

「…そっか」


舌を出してハハッと笑うなまえ。それはなんでも無理があるだろ、とは思ったけど俺はただ頷くしか出来なかった。




一護はいつもニ限くらいから遅刻してやってくる。だけど今日はそのニ限を過ぎても一護は現れなかった。なまえの顔や理人のあの様子を見ると、きっと昨日一護に出くわしたに違いない。現に今日、一護は顔を見せてない。

授業の終わる鐘が鳴る。周りは購買へ一目散に駆けて行く奴ばかりだ。だるい、とゆっくりと立ち上がればなまえとハルは俺を不思議そうに見上げた。


「剛史、今日お弁当忘れたの?」

「珍しいな、いつも鐘が鳴っても寝てるのに」

「…別に、ちょっと用事」


そう言って俺は教室を出た。階段を登って最上階まで行く。それからまた上へ続く階段を登った。いるなら、ここしかないと思う。


「…一護」

「……タケ…、」


正直来てないかと思った。可能性は低いと思ったけど、一護は屋上のドアに凭れかかっていて俺を睨んだ。


「……なんだよ」

「…別に」


俺はドカリと隣に座り込む。ポイッと一護に途中購買で買ったパンを投げれば、面白いほど目を丸くした一護は俺を凝視する。


「…食わねーなら寄越せ。俺が食う」

「…誰もいらねぇなんて言ってねぇだろ」

「あっそ」


べリッという袋を破く音がした。こんな小さな空間だからか音が反響して俺たちの食う音しか聞こえない。遠くのほうで騒がしい音が聞こえるけど、ここは隔離されてるに近かった。


「…お前も俺に何か言いに来たんじゃねーのかよ」

「…別に?」

「…」

「…お前がいいと思ってやってるんならいいんじゃねぇの」

「…、」


一護はパンを持っていた手をゆっくりと下ろした。黙りこくって俯く一護を横目で見ながら俺はパンを口へ運ぶ。


「…俺はお前が意地張ってるようにしか見えないけど」

「……」

「…ごちそーさま。ま、気が向いたらクロフネに来れば。マスターも寂しがってる」


俺は腰を上げてケツについた埃をはらう。じ、と一護をまっすぐに見つめた。


「……待ってるからな、俺たちは」

「……」


ピクリと揺れた肩を見てから、静かに階段を下りていく。結局一護は最後まで何も言わなかった。

一護が何を考えてんのか知りたかった。けど、一護の瞳が俺に歯止めをかけた。その瞳は怪我をした動物のように俺を威嚇し、怯えた自分を隠していたから。

そんな相手に昨日何があったとか聞けるかよ。理人やなまえ、ハルが傷ついてばかりだと思ってたけど、あいつだって傷ついてたりする。

怖い、と思わないはずがない。自分から遠ざけたものに今度は自ら歩み寄ろうとするなんて、普通怖くて一歩が出ない。近しい者なら尚更だ。こんな勝手な自分を受け入れてくれるのかと不安にならないはずがないんだ。

でもその一歩は一護が踏み出さなきゃならない。相手から近寄ったって、また同じことの繰り返しになるだけ。自分からじゃないと、意味が無いから。


「……」


拳を強く、強くギュッと握った。

結局俺には何も出来なくて、一護を、事態が変化するのを待つしか出来ない。傷ついているやつらをただ黙って見守ることしか出来ない。

そんな無力な自分が腹立たしかった。









それは誰でもない自分自身






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