ぽちゃんぽちゃんぽちゃん、角砂糖が音を立てて黒い液体に吸い込まれた。それをくるくるとかき混ぜて、なんでもないような顔をして口に運ぶのを僕は横目で見る。

普段なまえちゃんがマスターのコーヒーに入れる角砂糖は2つ。今入れたのは3つ。それとおまけにため息がひとつ。

そんななまえちゃんの隣で僕は両肘をついてクロフネを見渡す。

カウンターでばくばくとマスターのカレーを食べているリュウ兄。その目の前でグラスを拭くマスター。僕の反対側のなまえちゃんの隣に座ってコーヒーを飲むハルくん。ソファーの角でマンデーに夢中になるタケ兄。そして、なまえちゃんと僕。

ハルくんは部活とかで来ない日があるけれど、最近はなんだかんだ言っていつもいるはずの人がいない。みんなは学校で会ってるかもしれないけれど、僕は違う学校だから会わなくなってたぶん一週間以上になるんじゃないかな。

理由はいっちゃんが来なくなった最初の日のなまえちゃんの顔を見たときなんとなくわかった。なるべく僕たちに心配をかけないように振舞ってるけれど、そんなのバレバレ。だってすぐにわかるような嘘の笑顔なんだもん。いっちゃんの話がみんなの間で出るたびに悲しそうな笑顔をするから僕も苦しくなるんだ。

何もなかったように振る舞うから、僕たちは何も触れない。だけどなまえちゃんがどこかおかしい理由は、たぶんハルくんもタケ兄もマスターもわかってると思う。あ、リュウ兄は絶対わかってないけどね。


「ねぇなまえちゃん、日曜日映画見に行かない?なまえちゃんが見たいって言ってた映画公開なんだって」

「あ、そうだっけ。んーと日曜日は…」

「理人ズルいぞ!俺も行くからな!」

「えー、リュウ兄は絶対に寝ちゃっていびきがうるさいからダーメ!」

「ハハッ!リュウ兄なら寝ちゃうね、きっと」

「ふふっ、そうかも」

「お、俺が寝るわけねぇだろ!ハルもなまえも納得すんなよ!!」

「だってリュウ兄、見るのアクション映画じゃないんだよ?ラブストーリーだけど見れる?」

「ら、らぶ…!」

「ね?無理でしょ?ってことで日曜日は僕となまえちゃんの2人でデートね!」

「え、と…」


困ったように眉を下げて固まるリュウ兄とハルくんを見るなまえちゃんは、僕と二人だから困ってるというよりもみんなの方を気にしているみたい。僕たちだけで行ってきていいのか、って顔している。

僕はやっぱり男として見られてなくて、幼馴染のままなんだね。もし、誘ったのが僕じゃなくていっちゃんだったら、なまえちゃんはどんな反応をしたんだろう。

悔しい。なまえちゃんが僕を男として見てくれないことも……僕が、なまえちゃんを笑顔にできないことも。

ぎゅう、と抱きつけば僕の腕の中から慌てた声が聞こえた。


「なまえちゃんがうんって言うまで離さないからね!」

「ちょ、りっちゃん…!」

「別に二人で出掛けたっていいでしょ?ね、ハルくん」


僕はハルくんをじっと見つめた。え、と一瞬困惑したような表情を浮かべて僕から目を逸らして、ハルくんは僕から、自分から、逃げた。


「…うん、行ってきなよ、みょうじ。いい気分展開になると思うよ」


そう言ってハルくんは悲しそうに笑った。笑えてないってハルくんはわかってるのかな。本当はそんなこと少しも思ってないくせに、なまえちゃんのこと、行かせたくないくせに。


「ハルくんもそう言ってることだし今回は二人ね?みんなとは今度行けばいいでしょ?」

「うん、じゃあ…」

「やったぁ!約束ね!」


抱きついて顔を覗きこめば少し赤くなって、わかったから離して!と照れるなまえちゃん。こんなことでもしないと僕はなまえちゃんに男として見てもらえないのは悲しいけれど、その照れたかわいい顔は僕のせいでなってると思うと自然に頬が緩んだ。


僕たちがじゃれ合う隣でハルくんが目を伏せて暗い顔をしているのはわかっていたよ。

それを見て胸が痛まないわけない。ハルくんが否定するはずないとわかっていて、僕はあんなふうに言った。ズルいなんてそんなことわかってる。わかってるんだけど。


「…理人」

「なに、タケ兄」

「……」


さっきまでマンデーに夢中だったくせに今僕をじっと見つめている。その瞳が僕を責めているように見えて、思わず目を逸らした。

わかってるよ、タケ兄。タケ兄が言いたいことは。これ以上ややこしくすんなって言いたいんでしょ。これ以上引っ掻き回すなって言いたいんでしょ。


「僕は別に悪いことしてないよ」

「…」

「何もしない方が悪いんだ」

「…」


そうだよ。タケ兄はいつもそうやって傍観してて、なんでもわかってるような顔してさ。見てるだけ、なんて僕にはできない。


「…なに?」

「いや、お前でかくなったな」

「そりゃ僕だって高校生だよ?いつまでも小さいわけじゃない!」

「そっか」


ふっと笑って僕の頭をポンポンと叩くタケ兄の手は、優しくて温かくて、何故か少し泣きそうになった。










「なまえちゃん目真っ赤だよ?」

「うっ…だ、だって、」

「感動しちゃったんだもんね?トイレ行く?」

「…うん、ゴメン、行ってくる」


ひらひらと手を振ってすなまえちゃんを見送り、壁にもたれ掛かった。なまえちゃんが見たかったという映画は、幼馴染の男女三人の間の三角関係によって仲の良かった関係が崩れていく人間関係を描いたものだった。数年後に結局三人の仲は戻って、ヒロインはその一人の幼馴染の男の人と結婚して、その後も三人で仲良くめでたしめでたし。なまえちゃんは感動してたみたいだけど、僕にはどこがめでたしなのか全くわからなかった。


この間からハルくんのあの顔が離れない。本当はハルくんにだって思うところがあるのはわかってるつもりなんだ。だけどあんな顔するくらいなら自分に素直になればいいのに。ハルくんを見てるといつももどかしくなる。

なんで遠慮するのかわからない。遠慮なんかする関係だったのかな、僕たちは。


「…りっちゃん?」

「あ、なまえちゃんおかえり」

「ただいま。……どうかしたの?」

「ううん、なんでもないよ、どっか行きたいとこある?」


ハルくんも言ってたけど今日はなまえちゃんの気分転換になればいいなと思ってのことだった。本当はリュウ兄たちも一緒に来たってよかったんだけれど、誘ってもいっちゃんが来ないなんてわかっていたし、尚更いっちゃんの存在を浮き彫りにしてしまうと思ったから。もちろん、なまえちゃんと二人で出かけたかったという下心がなかったと言えば嘘になるけど。

だから僕が心配かけたらダメなんだ。なまえちゃんに笑ってもらわなくっちゃ意味がない。少しでもいっちゃんを思い出さないように、それで少しでも僕のことを考えてくれたら嬉しいけど。


なまえちゃんは隣で笑顔を浮かべながら新しいクレープ屋さんのことを話している。友達と前に一度行ってすごく美味しかったみたいで、どうやら僕を連れてってくれるらしい。そんなことを嬉しそうに話すなまえちゃんを見たら、やっぱり僕はなまえちゃんのことが好きなんだなって思った。

ぶらぶらと揺れる手持ちぶさたの小さな左手に、僕の右手を絡ませた。ほんの、出来心で。


「え、ちょっ、りっちゃん?」

「今日はデートだから手繋いでもいーでしょ?」

「だ、ダメ。りっちゃんとは付き合ってないから」

「じゃあ付き合えばいいんじゃない?」

「……え?」

「そしたら手繋いでいいんでしょ?」

「え、あ、うん…でも、」


ギュ、と繋いだ手に力を込めた。ビクッと震えた華奢な肩。いつもは強気ななまえちゃんのオロオロと困っている様子が珍しくてクスッと笑えば、少し赤くなって僕に文句を言ってくる。そんな赤い顔で言ったってかわいいだけなのにな。


「もう、りっちゃん、年上をからかわないの!」

「年上?なまえちゃんがー?」

「りっちゃん!」

「あはは、ごめんね?」

「もー…で、この手はいつ離してくれるの?」

「あ、やっぱりダメ?」

「ダメ!何度言ったらわか………っ、」

「……なまえちゃん?」


動きの止まったなまえちゃんを覗き込んでもその瞳に僕は映っていない。釘付けになってるその視線の先を見れば、自ずと答えはわかった。

ギリ、と歯を噛み締めた。なんのために今日なまえちゃんを連れ出したかわからないじゃん。だいたい誰のせいでなまえちゃんがこんなにも苦しんでるんだと思ってんの。

ねぇ、わかってるの、いっちゃん。


「一、護……」

「……次は理人かよ」

「…っ、」


隣にいる彼女はいっちゃんを不安そうに見上げている。ボソッと呟いたいっちゃんの声はすごく小さかったけど、なまえちゃんにも僕にもはっきりと聞こえた。繋いでいた小さな手にギュッと力が込もり、震え出す。


「いっちゃん久しぶり。いっちゃんたちもデートなんだ。僕たちもなんだよね」


なまえちゃんの手を強く握り返して敵意のこもった瞳でいっちゃんを見つめた。いっちゃんは黙ったまま僕を睨みつけて明らかにイライラしている。なまえちゃんのことを傷付けたのはいっちゃんなのに、なんでそんな顔して僕を見るのかわからない。なんで、そんな僕に嫉妬するような瞳をしてるの。

僕の言ったことも、繋いでる手も、いつものように僕がふざけて勝手にやったってわからないくらいいっちゃんは余裕がないみたいだ。


「…いっちゃんさ、クロフネに来ないくせに毎日夜中までどこ行ってるの?リュウ兄が行ったっていつもいないって言ってたし、おばさんも帰って来ないって心配してるよ」

「…別にお前に関係ねーだろ」

「……ふーん、いっちゃんはもう戻らない気なんだ、僕たちのところに」

「……」


僕は真っ直ぐいっちゃんを見つめた。だけど、いっちゃんは僕の視線に耐えられなかったのか目を逸らした。それは少なからずそう思っていて、肯定だということ。


「そう、なの…?一護…」

「……」

「私の、せい……?」

「…別に」


震える声が胸の奥を切なくさせる。僕よりも一歩前に踏み出しているなまえちゃんの顔は見ることが出来ない。けれどきっと、なまえちゃんは必死で泣くのを堪えてる。こんななまえちゃんを見ていっちゃんは何も思わないの?


「…じゃあ僕がもらってもいいよね?いっちゃん」

「……」

「いっちゃんはいらないって言ったんでしょ?」


何が、とは言わなかった。僕と視線を合わせたいっちゃんはギロリと睨みつけて、無言で踵を翻した。

あ…、と小さな声を上げたなまえちゃんはまた一歩踏み出した。するりと解けた手は僕から離れていって、僕には捕まえられないと言われているようで、苦しくて拳をギュッと握った。


「…なまえちゃん、大丈夫…?」

「……うん、」


顔を覗きこめば、へらっと下手くそな笑みを浮かべた。見間違いかもしれないけれど、目尻に少しだけ光ってるものを見たような気がした。

上手くいかないね、なにもかも。結局僕はタケ兄の思ってる通り余計なことをしただけだったのかもしれない。


「…お腹すいちゃった!りっちゃん、クレープ食べに行こ!」


なまえちゃんは僕に無理した笑顔を向けて、早く、と言って僕の目の前を歩き出した。幼馴染なのに頼ってくれない、弱みを見せてくれない、それがただ、悲しかった。










僕は泣く場所になることすら出来なかった。










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