「なまえちゃん、おはよ」
私の1日は、この一言から始まる。
制服に着替えて早めに下に降りていくと、いつものカッチリとした服ではない、ちょっとラフな服を身にまとったマスターが笑顔で迎えてくれる。開店時間までだいぶ時間があるのに、マスターは開店準備で忙しい。
「おはようございます、マスター」
私もにっこり笑えば、マスターはおいで、と片手で呼ぶ。
「今日はブレンドでいい?」
「マスターが入れてくれたのならなんでも」
目を細めて、私の方へ手を伸ばす。クシャッと頭を撫でて、嬉しそうにカップへコーヒーを注ぐ。
コーヒーを入れるときのマスターの瞳は、いつも愛しそうにその黒い液体を見つめている。飲んでもらう人にマスターの愛が注がれているのだと思うと、それを飲むお客さんに嫉妬してしまいそうになるんだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
目の前に差し出されたコーヒーカップを両手で挟みこむ。それを掬うように口に含めば、香ばしい薫りが突き抜ける。
「おいしー…」
そうため息を漏らせば、マスターは両肘をついて私を覗き込んで満足そうに微笑む。それに私もはにかみながら微笑み返す。
この瞬間を、私は毎日待ちわびるんだ。
ただ二人だけの、秘密の時間。時が止まってしまえばいいのに、と本気で思ったりする。
「…今日は、ポニーテールなんだね」
じっと私を見ながらそう呟くマスターの瞳は何故か真剣で。
「…似合いませんか?」
いつもなら似合うね、とか可愛いとか甘ったるい言葉を言うのに。自意識過剰とかじゃなくて、マスターの反応がいつもとは違うことに私は不安を覚えた。
「ああ、違うよ?似合ってるよ…、可愛い」
「…っ」
不安げな私にふっと目を細めて、カウンター越しから伸びてきた手はそっと私の頬を撫でた。ふわりと優しく笑うその笑顔に、胸がきゅうっと苦しくなる。
赤くなった顔を誤魔化すように、慌ててマスターから目を逸らして口元をカップで隠した。
「きょ、今日は体育があるから…」
「ああ、なるほど」
んー、と何かを考えるようにして唸るマスターは、頬を撫でていた手を私の顎に滑らせた。ゆっくりと骨格をなぞって首筋を、つつ、と二本の指が伝う。
じっと私を見つめる熱を含んだその薄いグレーの瞳と。スルリと肌を撫でる器用な指先に囚われて、なんだか居心地が悪い。
「ま、マスター…?」
「んー…」
「あ、あの…」
「やっぱり、ダメだな」
「…え?」
私を、というよりは、私の剥き出しになった首を穴が開くほどじいっと見つめている。
カウンターから出てきて、私の隣の椅子に腰かけたマスターは、私からカップを取り上げて私の手をギュッと握った。
動揺する私の瞳を、もう一度正面から見つめる。
「変な男についていっちゃダメだからね?」
「…は、はい」
「学校でも男と二人っきりになんてなっちゃダメだよ?」
「…はい」
「教師にセクハラされそうになったらすぐ逃げるんだよ?」
「…もー、マスター心配しすぎですよ…」
「…心配になるんだよ、なまえちゃんが無自覚だから」
はぁ、とため息を吐きながら眉を寄せて苦しそうにボソッと呟いた。グイッと手をそのまま引き寄せられて、マスターの腕の中に閉じ込められる。
しっかりとしたマスターの身体は、勢いをつけた私の身体をいとも簡単に受け止めて。胸元にしがみつくようにして、急に感じた大人の男の人の感覚に私の心臓は忙しなく動く。
ああ、もう、壊れちゃいそうだ。マスターからするコーヒーの匂いが、今の状況を強く認識させて顔が熱くなる。
そんな私に構わず、マスターは私の無防備なうなじや首を、何度も何度も、しつこく、なぞる。
「俺のってマーキングしときたいんだけどなぁ…」
私を抱き締めながらブツブツと呟くその内容にドキンとする。
その内容を理解して、焦ってマスターを見上げれば、私の顔には影が落とされていて。
「んっ…」
反射的に目を瞑った。やわらかくて、ふにっとしたあたたかいものが唇を包む。優しい、と思ったのは、一瞬で。
さっきまで飲んでいたコーヒーの味と、私が来る前にマスターが飲んでいた違うコーヒーの味が絡まって、ひとつに溶け合わさっていく。
腰に回された手にぐっと力が入ったのがわかった。いつもよりも唇が、深く、合わさる。
「…ふ…、…んっ…ん」
咥内で動き回るそのザラリとした生温かい感触と。ずっとさっきから首を撫でるその手のせいで、ゾワゾワと背中から何かがせり上がってくる。
鼻と口から漏れる甘ったるい声が、いつもよりも少し強引な唇に引き出される度に、コーヒーに混ざる男の人の、マスターの匂いが強く感じられた。
はぁ、と切なくて熱い息が唇に吹き掛けられる。
やっと唇を離されて、また触れ合わさってしまう近すぎるこの距離を取ろうとした。けれど、朝からこんなことをするマスターのせいで一人では立つことも出来なくて。
思わずギュッとマスターの胸にしがみついた。大きな手が、私の肩を抱く。
「…なまえちゃん。ほら、そんな顔他のヤツの前でしちゃダメだよ?」
「…?」
マスターが言っていることがわかんなくてまだ心臓が大きな音を立てる中、首を傾げると苦笑された。さっきまで首筋を触っていた手で頭をポンポンと撫でられる。
キスの間に、生理的に瞳にたまった私の涙をそっと親指で拭った。
「お願いだから春樹たちが迎えに来るまでにその顔やめてね」
「…え?」
「トロンとした顔してるよ?そんなに俺のキス、よかった?」
クスッと笑ったマスターに、私は何も言えず真っ赤になって俯いた。すると、ふわっとコーヒーの香りが私を包む。
「…ちゃんと俺のとこに帰っておいでね」
ギュッと強く抱き締められたかと思ったのは一瞬で。かろうじて耳に届いたのは、聞こえないくらいの小さな小さな声。
普段では考えられないほどの声の弱さに、私は言葉を詰まらせた。
きっと独り言に近いんだろうけど、なんで、そんな切なくて頼りない声でそんなことを言うのか、わからない。
「…マ、スター…?」
「なんでもないよ。ほら、早く準備しておいで」
私を見送るときのようにマスターは、すぐにその腕から解放して優しく私の背中を押した。さっきのは聞き間違いかと思うくらい、マスターはいつものように笑っている。
鉄壁の笑顔を見せるマスターに何も言えなくなった私は、納得のいかないまま渋々頷いて鞄を取りに部屋へ向かった。
私の背中を、クシャリと顔を歪めてため息を溢すマスターが見ていたとも知らずに。
その笑顔の下に隠されたもの
それは私に明かされることはないだろう。
end