帽子を深くかぶって、辺りを見渡す。暗闇の中浮かび上がった一台のタクシー。その運転手と目が合って近づいていくと、ガチャ、とドアが開いて俺は身体を滑り込ませた。
ふっと笑った優しい顔が印象的で。運転手の妙に高い声が、耳に残る。行き先を告げると同時に少し固い背もたれに身を任せて息を吐き出した。
頬杖をついて外を眺めていれば、ネオンが光輝いていて、そこにいる人たちはみんな陽気に楽しそうに笑っている。今までは夜が来ない街に自ら飛び込んであそこにいたのに、今日ばかりかは疲労困憊の身体に、眩しい光がかなり堪えた。
「…お客さん、ラジオつけていいかい?」
「…どうぞ?」
「いやー、すまんねぇ」
俺が乗るまで聞いていたんだろう。切っていたボリュームを少しずつ上げていく。流れてきた音楽に耳を傾けると、ドキン、と心臓が鳴った。肺を握りつぶされたように息が出来なくなる。
「…、」
大きく息を吸い込んで、やりきれないこの気持ちを吐き出した。高音の域まで澄みきった、綺麗な音色に身体を固くしながら瞳を閉じる。
今日という日のために無理矢理仕事を詰め込んできて、身体はボロボロで。やっと、やっと確保出来た時間だった。本当は、午前で終わるはずだったんだ。
『京介!丁度いいとこにいた!』
『あ、お久しぶりです!』
『お前、俺と一緒に雑誌の表紙飾れ!』
『はっ?』
『今から撮影するから!』
『ちょっ…!』
大先輩に断る暇もなくスタジオに連れてかれて、俺は何故か瞬くフラッシュを浴びてカメラに笑顔を向けていた。
本当は事務所の許可とか必要だったんだけどな、なんて思ったけどこの人と一緒に仕事出来るなんて棚からぼた餅だって、きっとマネージャーも大喜びで頷いてくれただろう。それくらい、偉大な人でお世話になってる人だった。
…けど、
「そういやこれ歌ってる子、なんて言ったっけねぇ、」
「…」
「確か、誰かと式上げるとかニュースでやってたよなぁ、」
この場に不釣り合いな、陽気な声が木霊する。明らかに俺に投げ掛ける言葉に、耳を塞ぎたくなった。何もかもを遮るように瞳を閉じて帽子のツバを下げる。
そんな中、聞こえてきたのは、スピーカーを通しても尚、前よりも芯のある透き通ったのがわかる声。一緒にラジオをやってた時よりも格段に上手くなっている声だった。
「……すいません、やっぱり消してもらってもいいですか」
「ああ、ごめんね」
「…こちらこそ」
プツッと途切れた音楽。また、静寂に包まれる。シンとした車内には、俺とこの運転手しか、いない。なのに、何故か彼女の声が聞こえるんだ。頭の中から消えてくれない、強い記憶。
「…お客さん、チョコレート食べれるかい?」
「…え」
「ほら、」
前を見ながら、席の間から左手を後ろに伸ばして拳を振り翳して俺を催促する。慌てて片手を差し出せば、コロンと銀の紙に包まれた丸い物体が転がってきた。
「疲れてるみたいだからねぇ」
ははっと笑ったミラーに映った運転手の顔には隈が出来ていて、目尻のシワも相当目立っていた。苦労してきたんだな、と一人勝手に思う。
でも、何故かその横顔から目が逸らせなくて。ありがとう、と言えば照れたように笑う顔が、頭の片隅の記憶を引っ張りだす。また、自分の手のひらにゆっくりと視線を戻した。
『京介くん、チョコ食べれる?』
『うん、食べれるよ?』
『…じゃあ、ハイ!』
『くれるの?ありがと』
『忙しいと思うけど、無理しないでね』
蘇る、大切な記憶。あまり甘いものを好んで食べない俺だけど、あのとき食べたチョコレートほど美味しいものはないと感じた。そんな、微笑ましい、俺の感情まで思い出させられる。
きゅ、と確かめるように手を握り締めた。
「…こうやって、よくあの子もくれたな、」
「ん?好きな子かい?」
好きな子、という響きに苦笑する。そんなの今までの俺には皆無だったはずなのに。
「いや…、好き…だった、人です」
自分で言って、胸が傷んだ。まだ、俺の中では終わってないのに。気持ちはまだここにあるのに。
強制的に終わらせなきゃいけないのがこんなに痛いだなんて。堪えるように、片手で服の胸のところをギュッと掴んだ。
「…そうかい」
「…はい、」
さっきまでの笑った顔が、悲しそうな色を含んだ。チョコレートといい、豊かな表情といい、彼女を思い出させるのは何故だろう。そんな戸惑う俺をフロントミラーで確認して、また前を見た。
「…お客さんより生きてる俺から言うなら…、人生なるようになる、ってことだな」
「…、」
「人の気持ちだって流れに任せりゃいろいろ変化していくからねぇ…、」
寂しそうな声で呟いて、運転手はまた黙った。
俺もまた、そっと瞳を閉じる。
思い出すのは、あの、屈託のない笑顔。泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、傷ついたり。とにかく、くるくると変わる表情が魅力的で。
いつの間にか俺は、あの子に恋をしていたんだ。
「…あの、やっぱりラジオつけてもらっても、いいですか」
「はいよ」
何度も気まぐれな俺の要求に、嫌な顔せずに運転手はまたボリュームを上げてくれた。音楽が好きなのだろう、指でリズムをとっている。
ちょうど、新曲の最後のフレーズが流れていた。低音から、高音に急激に変化する曲が、彼女の音を最大限活かしていた。難しいはずなのに、簡単そうにやってのける彼女を支えたのは。
「…、」
なんで、俺じゃなかったんだろう。そんなこと何度だって考えた。でも、選んだのは俺じゃなくて、あの人だった。一番近くで見守っていた、あの人。
曲が終わり、DJが喋り出す。この番組も二人なのか、と流れる景色に目を向けた。どうしても、二人でパーソナリティーをやっていたあの時間を思い出してしまう。俺と、彼女との、二人で過ごした大切な、時間。
「…俺が行かなくて、悲しんでる、かな」
そうだと、いいな。それならまだ、報われる。
今日、見るはずだった、白いベールに身を包んで幸せそうに笑う彼女を想像する。そしてきっと、今頃そうやってあの人の隣で笑ってるんだろう。それはもう予想ではなくて、確定された事実であることに変わりはない。
一番幸せだ、という彼女の笑顔をこの目に焼き付けたかった。それでこの恋心を最後にしようと思ってた。
そんな儚い願いさえも、もう、叶わなくなってしまったけれど。
先輩のことは少し恨んでる。
けど、感謝もしてる。
きっと最後と言いながら、俺はこのまま気持ちを消せないから。俺じゃない他の男の隣で笑っている彼女を前にしてたら、辛くて、痛くて、胸が張り裂けそうできっと真っ直ぐ見れなかったと思う。
幸せな席なのに、心からの笑顔で送り出したいのに、きっと出来なかった。人の心に敏感な彼女ことだから、俺の作り笑顔だって見抜いてしまっただろう。そんなことは、絶対にしたくなかったし、させたくなかった。
だから、これでよかったんだ、これで。
「なるように、なればいい、な」
譫言のように呟いてまたツバを下げて、コツンと冷たい窓ガラスに頭をぶつけた。
切ないだけの恋は、辛いけど。俺は君からたくさんの気持ちをもらったんだ。辛かったけど、幸せだったと思う。
思わずため息を吐き出したとき、赤信号でキッとタクシーが止まった。
「…なるようになるさ」
やわらかい、優しい声が聞こえた瞬間、カッと目頭が熱くなって、思わず帽子を押さえつけた。
好きだった。好きだった。本当に好きだった。
…愛してた。
もう、俺はそれを伝えることも出来ないけれど。
「…**……っ、」
もう、本当にこれが最後。そう言い聞かせて彼女の名前を呼んだ。
帽子を上から目を押さえつけて、しゃくりあげそうになる声を抑えながら、キュッと口を結ぶ。
きっと、この人には全て聞こえていたと思うけど、何も言わず黙ったまま車を走らせているこの人の存在が、何故か俺の心を和らげてくれた。ここにこの人がいて、俺がいて。誰かが、そばにいてくれる感覚が、すごく嬉しかった。
「…っ、」
「…」
まだ、こんなに好きなのに、いつかこの気持ちは風化してくのかな。辛いのが、何も感じなくなるのだろうか。
それは俺にはわからないけれど。
でも、きっと前みたくは戻らない。あんな、虚しい思いはもうしたくない。
まだ、辛い。辛いけど、こんな恋はしたくなかった、なんて不思議と一度も思ったことはないんだ。
「ちゃんと休みなよ、」
「……運転手さんもね」
「ああ、身体が資本だからね」
にっと笑って暗闇に消えた一台のタクシー。なんだか、乗る前よりも気持ちは楽になっている。タクシーが去った暗闇を見つめれば、自然と口角が少し上がった。
吹き抜けた風が、濡れていた頬にひんやりと冷たく感じて季節の変化を感じる。
手の中にある銀紙を開いて口の中に茶色の丸いものを放り込んだ。
「…あま、」
涙味のチョコレート
やっぱり、彼女からもらったチョコレートに敵うものはないと思う。
たげどその一番美味しかった味は、少ししょっぱいチョコレートに霞んだ。
end