油絵の具の臭いが染み付いた部屋に一歩踏み入れる。月の光が、千尋のピアノに反射してキラキラ光る。
普段、あまりアトリエに入り浸らないオレは、この空間の中での居場所がない。…ない、という表現は間違ってるのかもしれない。この部屋は、みんなが真剣に何かに打ち込むための空間。おちゃらけたこのオレが、使う必要性がないだけだからいつも追い出されるんだけど。
窓際に近づいて、隅の方に寄せて片付けてあるイーゼルを引っ張り出す。それをあの子がいつも使ってる位置に置いて、同じように向かい合って座って真っ白なキャンバスを眺めた。
**は、この白に、何を見てるんだろう。
いつも一生懸命に、課題と、作品と、自分と向き合っている**。そんな姿を見ると、鏡に映った自分は酷く汚なく、狡く見える。
「…ホント、狡いよなー」
見える、ではない。実際にそうなんだ。
いつまでも、現実から目を背けてる。だから、いつでも自分に正直で、偽りのないまっすぐな**が眩しすぎるんだ。
話してる時も、笑いあってる時も、一緒に帰ってる時も、抱き締めてる時も、キスをしてる時も、この腕の中で触れ合ってる時も。
いつも、オレは**に後ろめたさを感じる。正確には、**の瞳に。
そっと、白いキャンバスを指でなぞった。
コイツは、何を描きたいと言ってるのか。何を伝えたいと言ってるのか。…俺は、何を描きたいと思ってるのか。
何も聞こえない。何も見えない。何もわからない。
「…どうやって描いてたっけ、オレ…」
描くのが楽しくて、楽しくて、楽しくて。そんなのはいつまでだったかな。大学に入って、いろんな作品と触れ合って、いろんなヤツの意見を聞いて。今は、もう、苦しくて仕方ない。溺れたように、もがけばもがくほど真っ暗な闇に沈んでゆく。
今、こうやってキャンバスを眺めてるだけで、肺を握り潰されてるみたいだ。苦しい、助けてくれよ、誰か。
「…っは…」
ドクンドクン、と早鳴る心臓の音。目を逸らしたい、背けたい。でも、いつかは見なくてはならない現実。
このフツフツと沸き上がる衝動をぶつけたくて、無意識に、キャンバスを睨み握り拳を作って何かに耐えていた。これが、自分の抱えていた弱味だと、自分の心臓が収縮して教えている。
目の前にあるこの白いキャンバスは、オレだ。オレは今、自分と向き合っている。
そう思ったら、急にこの白を、赤でメチャクチャにしたくなった。
棚にぐちゃぐちゃに突っ込んであった油絵の具と、ナイフと筆をひっ掴んで床に撒き散らかす。イーゼルと椅子も邪魔だと言わんばかりにぶん投げて床に放ったキャンバスと向き合った。月の光だけが照らす暗闇の中、白いキャンバスが浮かび上がる。
オレは、描く必要があるんだろうか。
劣等感や挫折がつきまとうこの世界で、そんな嫌な思いをして、相手にさせてまで、本当に描く意味があるんだろうか。
ひたすらに、白に赤をのせた。筆で、ナイフで、手で。ただただ、赤く。ところどころ黒が混じる。
みんななんでそんなに一生懸命描くんだ?睡眠を削ったり自分を追い込んでまで、なんでそんなに頑張んの?そんなに頑張らなくたって生きてはいけるじゃん…
何のために、描いてるかわからない。
何のために、生きてるかわからない。
なぁ、描くことをしないオレの存在意義って、ナニ?
「…はぁー……」
感情のままに筆を、指を動かした。深呼吸して、見下ろせば、キャンバスには赤と黒、そして少しだけ黄色と白が混じっていた。
結局、オレはこんなものしか描けなくなっていた。なんの、意味ももたない絵。いや、絵というか抽象画とも言えるもんじゃない。ただ、このもて余した感情をどこかにぶつけたくて、その捌け口となった、ただの赤。
手のひらは、真っ赤。まるで誰かを殺して血に染まったみたいだ。
今の自分の全てをぶつけたオレは精神的に疲れきって椅子に腰をかけた。両肘を膝について項垂れていると、カタン、と小さな音が外から聞こえて顔を反射的に上げた。
「…誰?」
「………ごめん、なさい…」
「…**か…」
そっとドアの向こうから俯いたまま姿を現した。本当はこんなところ見られたくなかった。こんな、自分自身に嫌悪して疲れてるカッコ悪いとこなんて。
「見てた、の?」
コクリと小さく頷いたのを確認して、オレは小さく溜め息をついて自分の手のひらを見つめて困ったように笑う。
「血、みたいだろ?」
「…、」
オレの手を見て、ギュッと胸の前で手を握った**を、なんだか苦しそうで見てられなくて。立ち上がって、**に背を向けて油で真っ赤に染まった手を洗っていく。今、**を直視することなんて出来ない。
「…**は眠れなかったの?」
「…うん」
「そっか」
「アトリエのほうから、物音が聞こえてきたから…」
そう言って、黙ってしまった**にお構い無く絵の具を拾って片していく。床に付いた絵の具も拭き取っていると、**は近寄ってきてオレがついさっき色をのせたキャンバスを見つめていた。
その瞳に居たたまれなくなる。このキャンバスは、今のオレ自身だから。ドロドロとした汚い自分を**に見られてるみたいで。
今すぐにでもゴミ箱にぶちこみたいのを抑えて、**にを見えないように壁に立て掛けた。
「さ、寝よっか!」
「え…」
「ん?まだ眠れない?添い寝してあげよっか??」
「ゆ、裕ちゃん!」
ゆらゆらと月の光が映る瞳が切なげに揺れる。その光に照らされた綺麗な髪に、白く透き通った肌に、本当は触れたかった。
だけど、触れてしまったら**が汚れてしまいそうで。さっきまでこびりついたオレのドロドロとした赤が、純白の**を染めてしまいそうで怖い。
オレの顔を見た**が、苦しそうに顔を歪めた。すっと伸ばされた手は、その瞳に金縛りにあったように動けないオレの方へ伸びてくる。オレは、触れるのを躊躇したのに、**はためらうことなく普通にオレに触れた。頬を軽く親指で擦られて、そこから熱がじんわりと広がって、オレの何かを溶かしていく。
「裕ちゃんの、燃えるような情熱の赤だね」
嫌そうな顔もせず、赤がついた指を見せながらオレに笑ってみせた**が愛しくて。
知らないうちにこの腕に抱きしめていた。ギュウギュウと強く抱きしめて、離さない。離せない。もうやだ、なんなのこの子。
「ゆ、ちゃん…苦し…よっ」
腕の中で暴れるから少し力を緩めると、そっと包み込むようにオレの背中に腕が回る。そのぬくもりに、泣きそうになった。
なんで**は、そうやってオレの心を救ってくれるんだよ。ドロドロとした、汚い、醜い血のようだと思ってたのに。
無意識だった。赤と黒に、黄色と白を入れたのは。苦しみや悲しみの中に混じっていた、希望。オレの、光。
知らぬ間に救いを求めてたオレに、手をさしのべてくれた、光。
「…真剣な裕ちゃんもかっこよかったよ」
「…ホントに?」
「うん、ホントだよ…」
「ホントにホント?」
「ふふっ、ホントにホント!…あの絵も…裕ちゃんを、表しているんだね」
「…」
**が言葉を選びながら、どこか真剣な声色で言葉を紡ぐ。また、オレの元に不安が舞い戻る。こんなオレを見て、離れていかないんだろうか。ふらふらといつまでも定まらない、いつまでも真剣にならない、オレに、嫌気は差さないのか?
「…また、裕ちゃんをひとつ知れた」
嬉しそうに、でも切なそうに言う**は、オレを抱き締める腕に力を入れた。
「…裕ちゃん、あれは捨てちゃダメだよ」
「…、」
「裕ちゃんの想いなんだから、それも大事にしなきゃ」
「…あんなの、」
いらないよ、って言いたかった。あんなの描くの、オレじゃないんだ、って。でも、**の泣きそうな顔がそれをさせてくれなかった。
わかってた。今も、オレはオレでしかなくて、弱いオレも自分の一部なんだってことは。認めたくなかった。何かを理由にしたくて、ずっと向き合わなかった。自分で昇華した気になってたけれど、違ってた。
「…**、」
「…ん?」
「オレの赤は…情熱の、赤?」
「…うん、血じゃないよ。情熱の、激しい、綺麗な赤」
「…そっか」
また、ギュウッと抱き締めたら小さな声で、痛いよ、と唸った。
0から生み出すのは、本当に難しいことで。殺すのは、本当に簡単なこと。
オレは今日、オレを殺したと思ってたけどそれは違った。認めることで、真っ暗な闇に迷い込んでいたオレ自身を救ったんだ。自分と向き合うことを恐れ、全てから逃げていた自分自身を。
「裕ちゃん…?」
そう思えたのは、そうさせてくれたのは。いつもオレのそばで頑張ることを教えてくれてた人で、いつもそばで見守ってくれてた人。こんなオレを見放さないで、何も言わず寄り添ってくれた人。
「**…、あの絵、**が持っててくれない?」
「え…?」
「ダメ?」
「い、いいけど、私が持ってていいの?」
「うん、**に持ってて欲しい。また…オレが迷ったらこれをオレに見せて?」
「…うん、わかった」
やっと、満面の笑みを見せてくれた**の頬を両手でやさしく包み込む。少し潤んだ瞳に笑いかけて、目尻にキスを落とした。
「ん…裕ちゃ…擽ったいよ」
「いーじゃんかぁ、**がかわいすぎるんだもんっ」
「な…っ、…んっ…」
「…**…」
睫毛を震わせ赤く顔を染める彼女に、そっと、心の中でありがとうと呟く。
窓から射し込む月の光は、高く澄んだ空まで導くように、オレたちを照らしていた。
end
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