そっとドアの隙間から中の様子を窺う。いつもは騒がしいこの部屋も今日はしんと静まり返っていた。それに少しホッとしつつも落とした肩は上がらない。
「お邪魔しまーす…」
するりとドアの間から体を滑り込ませ、雑然とした無人の部屋を見渡す。みんなの机の上には、難しい単語が羅列してある書類が山積みになっていて。
いつもの定位置よりも遠くに投げ出されている椅子を見れば、出て行く時に慌てていたことがわかる。それにどうしようもなく、胸がざわついた。
私の前では、絶対に疲れたところを見せない人達だから、ときどき彼らの置かれている状況が嘘のように思えてくるんだ。こういう場面を見ると、いつも明るくて楽しいみんなの仕事の厳しさを、改めて知る。
だから、今日会えないのは仕方ないわけで。
他とは違って埃ひとつない机を、そっと、なぞった。寝る暇もないくらい忙しいのに、いつ掃除をしているんだろう。
整頓された机の上には、表向きの無機質な黒やシルバーのものばかり並んでいて、彼の部屋をつい想像してしまい無性におかしくて笑ってしまった。
散らかった机の上にひとつずつ包みを置いていく。緑の袋に赤のリボン。その中のひとつだけは色を反転させて。今は見ることのできないみんなの顔を思い出して、思わず口元が緩んだ。
コツコツと、人気のない廊下に私の足音が響く。みんながいないと、こんなに静かだったことに今さら気がついてため息が出た。
官邸の外へ一歩踏み出すと、門の所に見慣れた後姿を見つけた。
「真壁さん、寒いのにお疲れ様です」
「わ!**さんこんばんは!どうされたんですか?今日は皆さんいないはずでけれど…」
「あー…、えと、」
この冬空の下で手袋も付けずに警備をしている手のひらに、紙袋の中の最後のひとつを乗せた。瞬きを繰り返す真壁さんに笑って背を向けた。
「…**さん!」
歩みを進めていた足を止めて振り返れば。
「…メリークリスマス!」
大きく手を振りながら大声で叫ぶ真壁さんに、少しだけ心が温かくなった気がした。
こういう行事がある日はパーティーが行われる確率が高いらしい。現にお父さんもどこかの国のパーティ−に招かれて今日は官邸に不在だった。ボーっとしていた私は、どこの国なのか忘れてしまったけれど。
お父さんが公務で行くということは、みんなも必ず付いていかなくちゃいけないわけで。お父さんではなくても他の大臣の場合もある。
先月官邸で会ったそらさんが、きっと今年も仕事なんだろーなー…と零していたのを温いこたつの中で思い出した。
『…残念だね、』
『…こればかりはしょうがないですから…』
『うん、でもさ、やっぱり初めてのクリスマスだから一緒にいたかったっしょ?』
『…、』
『…っあー、…キャリアも何とかなんないかって班長に頼み込んでたんだけどねー…』
その時の私は、バツの悪そうに頭を掻くそらさんの横顔をぼんやりと見つめていた。結局その日も会いに来たはずの人には会えなくて。もう、いつから会ってないかも忘れてしまった。
ちょこんとテーブルの上に佇むクリスマスツリーの小さな置物をじっと眺める。こんなものを買ってしまったことに、酷く後悔をした。街はイルミネーションでキラキラしていて、手を繋いで歩く人たちはみんな幸せそうなのに。
じんわりと瞼の奥が熱くなって、無性に声が聞きたくなった。
ピンクの携帯に手を伸ばして開くけれど、それは無駄な行動ですぐに閉じる。
今、私が電話しても取れないことはわかっていたし、何より心配かけたくなくて。私からの着信履歴に気が散って、仕事の妨げになるようなことは絶対にしたくない。
あと、2日だ。
正確には1日半。やっと取ることの出来た休日は明後日の、クリスマスの次の日。黙っていても時間は過ぎる。
今まで会えなかったんだから、あと1日半くらい我慢できるはずなのに。今は、その時間が止まってしまったかのようにゆっくりと流れる。時計の音がやけに響いて頭から離れない。
持て余した感情をどうにかしたくて、テーブルに突っ伏した。ひんやりとしたプラスチックがショートした頭には気持ちがいい。
こんなことなら、みどりと演劇部のパーティーに行けばよかったな。そうすれば時間はあっという間なのに。携帯を開いてみても、新着メールはない。きっと盛り上がってる会場を想像して余計に寂しくなった。
「…おなか空いた、かも」
イライラするのも空腹からだと思い、冷蔵庫を開けた。
そこにはきちんと整理されていたはずの中身が前よりもごちゃごちゃになっていて。冷凍庫にはラップで小分けにされたご飯が入っていた。棚に目を向ければ、私の知らない調味料までいつの間にか増えている。
部屋の中は雑誌やら資料やらが雑然と置いてあって、洗濯物も畳んで置いたままタンスにしまっていない。
チッ、チッ、チッ、と時計の音だけが部屋に響く。
食欲なんて一気になくなった。時計の音も聞きたくなくて布団にもぐりこんだ。寝てしまえば早く時間も過ぎる。何より、彼の痕が残る部屋を見ていたくない。
私はひとりじゃなにもできない。
そう、改めて思い知らされた。
『**…』
夢か現かわからないふわふわとした意識の中、感じたのは頭優しく撫でる大きな手。
あたたかい温度が私を溶かしていく。
「…すば…、さ…」
ああ、私、涙が出てしまうくらい昴さんに会いたかったんだ。
夢にまで出てきてしまうくらい、私は寂しかったんだ。
ひんやりとした雫が瞳から溢れて耳へと辿り着く。それは枕へ濃い染みを作った。ぼんやりとした頭では何も考えられず、瞼が重くて上げられない。
会いたい、と思っているのに会えなくて。私を呼ぶ声まで聞こえるなんて、どれだけ昴さんが足りないんだろう。この夢がいつまでも続いてくれたら、いいのに。
夢で会えても起きたらいないだなんて、今の私には辛すぎる。これが、本当に現実だったら…。
頬に、あたたかい温度が触れた気がした。
「……ん…、…っえ…?」
「…やっと、起きたか」
聞こえないはずの声にこじ開けた瞼の隙間から差し込むのは、リビングからの僅かな光。それに照らされた顔は私が会いたくてたまらなかった人で。
「…ゆ、め?」
「お前は夢の方がいいのか?」
「…うそ、ホントに…、すばる、さん?」
「…**…、」
私を見つめる瞳が悲しげに揺れて、伸びてきた手が私の目尻を、そっと拭う。
久しぶりに触れた昴さんの指先は、少し冷たかった。いつもの強引さはなく戸惑いがちに触れるから、これが本当に現実なのかわからなくなる。
でも、どうしても昴さんに触れたくて。夢にまで出てくるくらい会いたくて。
恐る恐る伸ばした手は、柔らかな髪の毛を掠め、頬に触れた。
そっと、重ねられた大きな手は私の手を優しく握る。ふっと息を吐き出して、私に愛おしそうに笑う昴さんをじっと見つめた。
「……昴、さん?」
「…ん?」
「…あ、や…夢じゃない、な、と…」
「……」
ベッドに座って覆いかぶさるように、私の顔を見下ろす昴さんを見上げた。
苦しげに眉を寄せて顔を歪めた昴さんの目の下にはうっすらと隈が出来ていて、光のせいか顔色も悪く見える。
不謹慎だけど、そんな疲れた顔を見て、何故か現実味が帯びてきた。それにそっと息を吐き出して、もう一度昴さんを見つめる。
私の目の前には、確かに昴さんがいる。
「…おかえり、なさい」
「…っ」
「お仕事、お疲れさま」
「…っ馬鹿」
泣きそうな表情をした昴さんを見て微笑んだ瞬間、触れてた指は絡め取られて二人でベッドに沈んだ。
身体はギュウッと力強い腕に抱かれて身動きすることもできない。この広い胸に抱かれ煙草の匂いに包まれて、やっと実感するんだ。
抱き締められる痛みに息が詰まりそうなくらい苦しくなって。襲ってくるたくさんの感情に一筋の涙が伝った。
この時を噛み締めるように、そっと、背中に手を回して昴さんの心地よい重みを受け止めた。
久しぶりの熱い抱擁に甘い言葉なんていらない。
あなたがそばにいれば、それで。
「…**、メリークリスマス」
特別なことなんていらない
私はサンタに願わない。
願い事はいつもあなたが叶えてくれるから。
「…なんでアイツらにもやったんだよ」
「え?あ、クッキーのこと?」
「…まさかアイツらのもハートとか言うんじゃねぇだろうな?」
「ち、違うよ!みんなのはツリーとか星とか…!」
「**の愛は俺だけのだろーが。全部ハートっつーのはそーゆうことだろ?」
「…わかってるくせに」
「んで?欲しいものは?なんでもねだれよ」
「…、」
「おい」
「時間……」
「…は?」
「昴さんの…、やっぱりなんでもないっ!」
「……」
「ていうか昴さん、仕事はどうし……んっ!」
「…バーカ。んなこと考えてんじゃねぇよ。今から明日一日中愛してやる」
「…っん…え…、ちょ、すぐに仕事戻るんじゃ…あっ、」
「…クリスマスプレゼント欲しいんだろ?あんな可愛いこと言いやがって……」
「昴さ…、ん……ふ…ぁ…」
「…俺の時間は、今もこれからもお前のものだ」
end