「…手、出してください」
「うん…」
いつの間にか部屋に常備するようになった消毒液と包帯を手に傷の手当てをしている間、私は黙ったままだった。そらさんは言い訳のように今日のことを話していたけれど。
こんな傷なんともないって!と明るく笑うそらさんは、きっと私に心配かけないようにそう言ったんだと思う。
けれど、それは逆効果でしかない。今、口を開けば、そらさんに余計なことを言ってしまう気がして堅く口を結んだ。
「……」
「…ねぇ、**ちゃん…もしかして怒ってる?」
「……」
「…ごめん…」
「……私が何に対して怒ってるかわかりますか?」
思わず口を開いてしまった。
そらさんはきっと、私が何に怒ってるか理解してない。そのことに、無性に苦しくて悲しくなった。
「…え」
「…怪我を言わなかったことだけじゃありませんから」
「……じゃあ、電話しなかったこと?」
私は答えなかった。でもそれは肯定とそらさんはみなしたみたいで、少し私と距離を詰めて真剣な顔になる。
その顔は見たくなくて、包帯の巻かれた手を見つめた。
「…ごめん。班長にどうしても残れって言われて、しかも提出してない報告書あって書いてたら遅くなったんだ。んで、やっと終わったら声だけじゃなくて会いたくなっちゃって…」
予想通りの言葉が出てきた。やっぱり、わかってない。
「……そういうことを言ってるんじゃないんです」
「え?」
「…私がどんな気持ちでいつもそらさんの電話を待ってるかわかりますか?」
「………」
「……そらさんの身体は…自分だけのものだと思ってますか…?」
最後のほうは声が震えて掠れてしまっていた。唇を噛んで下を向く。
普通の人が相手だったら、きっと私はこんなこと言わない。そらさんの特殊な仕事が私をそうさせてしまう。
私のように急に環境が変わって危険にさらされる確率や、交通事故に遭う可能性は、普通の一般人で考えると極僅かだ。
でも、そらさんは違う。
自ら危険な場所に飛び込んでいかなければならない。人の盾と言われているそらさんには常に危険と隣合わせで。いつ、そういったことが起きてもおかしくはない。
それが今日なのか、明日なのか。それともずっと先なのか。
そらさんと付き合うと決めた時、覚悟はしたはずだった。でも、それとこれとは違う。覚悟はしても、不安にならないことなんてない。鳴らない電話を前に、最悪の事態をどうしても考えてしまう。
心の休まる日なんて、ない。
「…ごめん」
「…、」
「ずっと…心配させてたんだよね?」
「…っ」
「ねぇ、**ちゃんの思ってること聞かせてよ。いつもオレ約束破ってばっかで、ちゃんと**ちゃんの気持ち聞いてあげれてないじゃん」
包帯を巻かれた手で、そらさんは私の手をそっと握る。その手があたたかくて、血が通ってることを改めて実感する。
私の言葉を促すように、安心させるように、髪を撫でる手。それにずっと張り詰めていた心が、少しずつやわらいでいくような気がした。
「……もしかしてって…考えちゃうんです…」
「…うん」
「…」
「…それで?」
「…今日だって…不安で…っ」
「……うん」
「……仕事終わったら…電話でもメールでもいいから一言欲しかった…!」
「…っ、ごめん…!」
肩を震わせながら胸のうちを叫ぶ私を、強く強く抱き締めた。
震えているのは私なのか、そらさんなのか。
怖い、とは言えなかった。それはきっとそらさんも同じだと思ったから。
「これからは仕事終わったら絶対連絡する」
「…っ」
「だからさ…、そんな顔しないで?」
ギュッと抱きしめられて、それと同時に私の心も締め付けられた。
こんな、そらさんを縛りつけるようなことはしたくなかったのに。本当は、そらさんの安らげる場所を作って笑顔で待っていてあげたかったのに。
昔の女の人はなんて強かったのだろう。泣き言も言わず、無事に帰ってくるかもわからない男の人の帰りを黙って待っていたなんて。
私には、無理だった。怖くて、耐えられなかった。
「…っ、ごめ…」
「スト―ップ!」
「…?」
「それは何に対してのごめんなの?」
「……え?」
「オレ、**ちゃんにいっつも我慢させてんじゃん。こんなの全っ然ワガママとかじゃないから!」
「でも…でもっ、束縛したくな…っ」
そらさんの腕の中で首を横に緩く振った。
ハァ、と呆れたため息に、ドクンと心が波立つ。抱きしめられてた身体は離されて怒ったような瞳で見つめられた。
「あのさ、こんなんで束縛とか言わないって!オレなんか**ちゃんをどっかに閉じ込めて、キャリアとか海司とか他のヤツに見せたくないとか思ってんの!」
「…そら、さん…」
「ね?それにそう思ってくれるのはオレのこと好きだからでしょ?」
「……うん…」
「じゃあいいじゃんか!…オレも**ちゃんの気持ち考えてなくてごめん。逆だったらオレめちゃくちゃ辛いかも」
…かもじゃないや。やっぱスッゲーツライ。
そう呟いて、顔を歪めて目を伏せたそらさん。その逆の立場を想像しているのかもしれない。
辛そうな、泣きそうな顔をして私をまたギュウッと抱きしめた。額を私の肩に押し付けて、落ち着かせるように吐き出した息が首筋にかかる。
「…心配ばかりかけて、ごめん」
「…っ」
「でもさ、オレどんなことあっても絶対**ちゃんのとこに帰ってくるから。だから信じてて」
その言葉にじわじわと決壊が迫る涙腺に気付きながら、小さく頷いて背中に腕を回した。
このぬくもりが愛しいと、改めて思った。
そらさんはいつだって私を全力で愛して抱き締めてくれる。このぬくもりを、私は絶対に失いたくない。絶対に。
「そらさんがちゃんと帰ってくるの、いつも待ってますから…必ず…帰ってきてくださいね」
そう言った瞬間、そらさんは私の不安も寂しさも埋めるように、きつく、そして優しく抱きしめてくれた。
まだ不安は拭えないけれど。
そらさんは必ず、私の元に帰って来てくれる。それを私は、信じて笑顔で待っていよう。
トクトクと心臓の音が伝わってくる。それを噛みしめるように瞳を閉じて、信じてと言ってくれたそらさんをギュッと抱き締めた。
「**…」
こめかみにキスを落としながら私の名前を呼ぶ声はすごく甘くやさしくて、胸の奥がぐっと詰まり泣きそうになる。
そらさん
そらさん
そらさん
ねぇ、無事に帰ってきてね
そんな思いを込めてギュッとスーツを掴んだ。
それからどちらからともなく唇が重なる。触れた先から広がるぬくもりが、ここにある幸せを感じさせてくれる。
触れるだけの口づけをしたあと、二人で泣きそうな顔を見合わせて少し笑った。
「あー…もう!かわいすぎるっ!」
「…ふふっ!大好きだよ…、そらさん」
「…くっそー…オレの方が好きだっつーの!」
「私です!」
「いや、ぜーったいオレ!」
そう何度も言い合って、笑って。また何度も唇が重なる。
そらさんの唇からカスタードのやさしい味がして、閉じた瞳からまたひとつ、涙がこぼれた。
眠れぬ夜を越えて
安息なんて出逢った時からないけれど。
それでも私はこの人がいい。
end
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