「すみません煉獄さん、ご馳走になっちゃって。ありがとうございます」
「俺としてはもっと良い店のコーヒーを飲ませるつもりだったのだが」
「お気持ちはすごく嬉しいですけど……駅前まで行くよりも、ここで煉獄さんとお話しすることに時間使ったほうが良いじゃないですか」

 特に深い意味はなく発した言葉だったが、私のその発言に、煉獄さんの肩が微かに揺れたような気がした。
 わざわざ駅前のコーヒーショップまで行こうと提案してくれた煉獄さんを制止して、私は隣のビルに併設されているコンビニのドリップコーヒーが良いと、ご馳走してもらう立場であるにもかかわらず我儘を言った。
 煉獄さんは困ったように眉を下げたけれど、嫌な顔を浮かべることはなく、コンビニのメニューの中で一番高価なコーヒーを、一番大きなサイズで注文してご馳走してくれた。

 コンビニの外に出ると、冬の前の少し乾いた空気に頬を撫でられる。そのひんやりとした温度に対抗するかのように、私は大きなコーヒーカップを両の手のひら全体で包み込む。
 淹れたてのホットコーヒーが、紙コップ越しにじんわりと手の中を温めてくれる感覚が心地良かった。

「でもどうしたんですか、急に。気配もなく現れるから本当に心臓止まるかと思いましたよ」
「驚かせてしまってすまない!」
「私、何か奢ってもらえるようなことしましたっけ」
「ああ、それは」

 こほん、とわざとらしく咳払いをした後、煉獄さんは少しだけ言い留まるような素振りを見せてから、私のほうへ体ごと向き直る。
 きゅっと唇を食むように閉じられた口元と、いつになく真っ直ぐな煉獄さんの瞳が、私の視界に映る。なんだか職場で言葉を交わす時よりも急に距離が近くなったような気がして、思わず固唾を呑んだ。

「近頃、元気がないように見えてな。気になっていた」
「……。そう見えました?」
「うむ! 何かあったのか? 俺で良ければ話を聞こう!」
「いや、彼氏と別れただけなんです。大したことじゃないので気にしないでください」

 普段から大きな煉獄さんの目が、いっそう大きく見開かれる。
 そこで私ははっとした。

 思えば、彼氏と別れてからというもの、私はその事実を誰にも言っていなかった。個人の恋愛話なんてプライベートな話題でしかないのだから、職場の人間にわざわざ自分から話す必要はないと思う。けれど、職場の人間どころか身近な友人にさえ、破局したことを伝えた記憶がない。
 そもそもこの1か月ほど、友人と会う機会を設けることを、自ら避けていたようにすら思える。

「大したことではないのか、それは」
「まぁ、別れたばかりの時はそりゃつらかったですけど……。なんかもう、思い出す暇もなくなってきていたので、そんなに気遣っていただかなくても大丈夫ですよ」

 そのように言っておきながら、心の中で「嘘つけ」と自分自身に突っ込みを入れる。
 平気だ、平気だと何度も言い聞かせていたけれど、私はまだ“その話題を自ら口にできない程度”には、元カレのことを引きずっているようだ。仕事が忙しくて思い出す暇もないと、そう思い込もうとしていただけで、実際はふとした瞬間に元カレと過ごした時間のことが頭に浮かんでは、心を痛めていた。
 自分の中でそのことを自覚した途端、喉がきゅうっと狭くなったように息が苦しくなる。そんな私の様子を凝然と見つめていた煉獄さんが、一文字に結んでいた口を開いた。

「承知した! では、俺と付き合おう!」
「…………。うん?」
「今のうん、は了承の意だろうか」
「いやいやいや。違う、違います。ちょっと急なことで頭の処理が追い付かなくて」
「急ではない。君に恋人がいたから伝えられなかっただけだからな!」
「え……そ、そう……。し、仕事残ってるから戻っていいでしょうか」
「そうはさせない」

 思いも寄らぬ煉獄さんの発言。妄言にも聞こえるようなその発言に、どのような反応を返せば良いのか即座に判断がつかなかった私は、半ば逃げるようにくるりと踵を返した。
 しかし、再び煉獄さんに手首をがっしりと掴み取られ、その動きは易々と阻止される。まだ休憩時間内だ、と煉獄さんの左腕の腕時計を見せつけられて、何故この人は私の休憩時間を知っているのだろう……と混乱した頭の片隅で疑問を抱いた。
 そんなことを深く考える間もなく、掴まれた手首を強い力で引っ張られ、反動で大きく揺れた手元のコーヒーに意識を持っていかれる。いとも容易く私の体は煉獄さんのすぐ側まで引き寄せられて、今更ながらその力の差に唖然とする。

「ちょ、れ、煉獄さん、コーヒーこぼれる」
「みょうじは俺のことが嫌いか?」
「い、いえ、嫌いじゃないです」
「そうか! なら問題はないな!」
「いや、あの、きっ嫌いではないですが……。これまで煉獄さんのことを、そんなふうに見たことがないと言いますか……」
「俺が相手では不満だろうか」
「不満というか、それ以前の話だとおも」
「嫌いではないのだろう? では差し障りないことだ! いずれは俺のことを好きだと言わせるつもりだからな」

 嵐のような展開に、私の思考は追い付くことができなかった。身体中から変な汗が吹き出し、煉獄さんに掴まれた手首が熱くなる。
 何か反論しなければと慌てて唇を開いたが、回らない頭では今発するべき言葉を浮かべることができず、代わりに呼吸が乱れていくだけだった。
 私が状況を飲み込むより先に、「そろそろ休憩時間が終わってしまう。続きは仕事が終わった後だ」と、煉獄さんが私の手首を掴んだまま歩き出す。結局淹れたてのコーヒーをひと口も飲めていないことに気がついた私は、されるがままに手を引かれながら、ようやくひと口目のコーヒーを喉に流し込んだ。


Title by 草臥れた愛で良ければ
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