夏の日の僥倖 燦々と照りつける太陽、どこまでも澄み渡る空。アーカンジェルは仕事机から忌々しげに窓越しの空を見上げた。――ガラスを通しても分かる、雲ひとつない快晴だ。だが、それが憎らしく思えるぐらい気温が高い。今日はもう仕事を切り上げて自室に戻ってしまおうか。そう思っていた矢先、視界の端に黒が映りこんだ。見なれた黒――ウランボルグだ。 「ウル!」 アーカンジェルは、らしくなくガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、音もなく扉を開けて入ってきたウランボルグの元へ歩みを進めた。アーカンジェルをまっすぐに見つめ、表情を柔らかくしたウランボルグがゆるりと口を開く。 「アーカンジェル。仕事の進み具合はどうだ?」 「もう切り上げて、部屋へ戻ろうと思っていたところだ」 それは都合がいい、と、ウランボルグは口角を吊り上げた。――え、と、気がついた時にはもう世界が九十度回っていて。 「ウル…っ、」 唇をあたたかいものが掠めた。仕方なく抗議を飲み込んで、それでも恨みがましくウランボルグを睨みつけると、漆黒の瞳が愉快そうに踊る。 「どうした、アーカンジェル」 「…暑くないのか、君は」 「アーカンジェルと一緒にいるのだから、暑さなど微塵も感じない」 さらりと言われた台詞の意味を解するのに数秒を要した。その間にウランボルグは部屋から出て、廊下を歩きだしていた。 「何処へ向かうんだ? 私の部屋は反対方向だが…」 「浴室だ」 当たり前だろうと言うウランボルグの思考が、全く読めない。アーカンジェルは即座に疑問を口にした。 「何故」 「暑いのだろう? 浴室で水浴びでもすれば多少は変わるかと思ったんだが…ああ、中庭の噴水で浴びたかったか?」 「そういう問題ではないっ!」 「なら浴室でいいじゃないか」 満足げな笑みを浮かべたウランボルグは、滑る様に廊下を進んでいく。時折すれ違う騎士に怪訝な目で見られながらも、それが気にならない自分に気づいてアーカンジェルは自嘲を漏らした。 脱衣所に着くと、ウランボルグは壊れ物を扱うかのようにそっとアーカンジェルを地に下ろした。アーカンジェルに背を向けて服を脱ぎ始めるウランボルグに、アーカンジェルは恐る恐る声をかける。 「あの…ウランボルグ…?」 「なんだ、アーカンジェル。脱がしてほしかったのか?」 「…っ、自分で脱げる! そうではなく、その……些か、恥ずかしいんだが……、」 白皙の頬を朱で滲ませて、アーカンジェルはウランボルグの広い背中から視線を外した。旅の途中で水浴びをすることはしばしばあったが、その時と今では状況が違いすぎる。ドウマもクローディアもいない上に、間違っても先王は出てこない。浴室に、二人きりとなるのだ。アーカンジェルの真意を知ってか知らずか、ウランボルグは微笑を湛えてそれに答える。 「アーカンジェルの身体は美しい。恥じることなどひとつもない」 そういう問題ではないのだが…と逡巡するアーカンジェルに口付けを一つ落としたウランボルグは、悪戯っぽい笑みをその口元に浮かべた。――そんな笑みにすら、心臓が跳ねる。 「アーカンジェルは、照れているのか」 それは問いかけではなく、確認。図星を突かれたアーカンジェルは頬の朱を濃くした。ウランボルグは、朱色というよりは緋色に近くなったアーカンジェルの頬に小さく口づけてその上着のボタンに指をかけた。思わず引けてしまう腰に腕をまわされて、アーカンジェルは観念した。 「分かった。自分で脱ぐから、放してくれないか」 降参だというように軽く両手を上げるアーカンジェルを名残惜しそうに放して、ウランボルグは再び自分の服を脱ぎ始めた。次第に露わになってゆくウランボルグの美しい裸体を、直視できない。しかしアーカンジェルとて男である。覚悟を決めて一気に服を脱ぐと、浴室へと走る様に移動した。ウランボルグは苦く笑いながらアーカンジェルの後に続き、浴室の戸を閉める。 二人の目の前に広がる大理石の浴槽はとても広い。しゃがんで手で温度を確かめると、熱くもぬるくもなく丁度良い温度だった。アーカンジェルはゆっくりと湯に身体を沈め、ふぅ、と一息吐く。隣でウランボルグに熱い視線を注がれているのに気付き、どうしたんだい、と小首を傾げた。 「…綺麗だ…」 ほぅ、と吐息とともに零れた呟きは、浴室の中に反響して消える。 「君の方が――」 そっと腕を伸ばして、ウランボルグの頬に指を滑らせた。アーカンジェルの手にウランボルグの手が重なる。触れたところが甘く痺れて、アーカンジェルは微かに笑んだ。 「――何倍も、綺麗だ」 無意識に腕を伸ばし、ウランボルグの首に回していた。ウランボルグは一瞬戸惑ったようだったが、すぐに腕をアーカンジェルの背に回して抱擁に応える。肌と肌が直接触れ合う生々しい感触すら愛しくて、アーカンジェルはウランボルグの唇に己のそれを重ねた。誘うように舌先でウランボルグの唇をつつくと、ぬめりと舌が絡められた。 「ん…、」 粘膜同士が擦り合って奏でられるいやらしい水音が、鼓膜を直に刺激する。アーカンジェルはもっともっとと強請る様に舌を絡ませた。 「っ…ふ、ぅ……っぷは、」 どちらからともなく唇は離れ、名残惜しさを表すように二人を銀糸が繋いだ。ふつりと真ん中で切れたのが合図であるかのように、ウランボルグは手の甲でぐいっと唇を拭った。そして、凭れかかる様にアーカンジェルの首筋に顔を埋める。 「…ウル?」 「アーカンジェルは、俺の理性を過大評価しすぎだ…」 唸るウランボルグに、アーカンジェルは明るく笑った。 「はは、そうかもしれないな」 「他人事だと思って…今すぐにでも、アーカンジェルをどうかしてしまえそうなのに…」 「でも、しないだろう?」 私が嫌がるから。ウランボルグの硬質な髪を梳いてやりながらアーカンジェルは笑みを深める。 「確かにそうだが…あまり、煽らないでくれ」 「そんなつもりは無いんだ」 「嘘だ」 「いや、本当」 したいようにしているだけだ。ウルの心を玩ぼうとか、ウルの理性の限界に挑戦しようとか、そんなつもりは毛頭無い。嗚呼、でも…ウルになら、いいんだけどな。アーカンジェルは思考を廻らせて、しかしぶんぶんと首を振る――何を考えているんだ私は。 「どうした、アーカンジェル…?」 「…なんでもないよ、ウランボルグ。…愛してる」 「――愛してる」 不埒な思考を消し去るかのように、腕に力を込めて最愛のドラゴンを強く強く抱きしめた。 了 |