誰にも言えない



「ごめんリュウジ、もう無理」

か細く震える声に、とうとう来たかと息を飲み込んだ。さっきからずっと俯いているヒロトの緑の目は、きっと薄い水の膜で歪んだ景色しか映っていないに違いない。

前方でわっとざわめきが広がった。ほんのり顔を赤くしたこの場の主役の一人が、もう一人の頬にキスをして周囲に囃し立てられたのだ。ヒロトが更に肩を震わせたのを感じ取り、思わず苦虫を噛み潰した気分になる。

(隅の席にしてもらっておいて良かった……)

――だから今日の参加は止めようって言ったのに。俺はヒロトの手を強く掴み、幸せそうな雰囲気を壊さないよう、そっと外へ連れ出した。



電車に飛び乗り、近からずも遠からずな所に発見した居酒屋へ入って、運よく空いていた個室に上がる。店に入った時に軽いものを数本頼んでおいたので、腰を落ち着けてからすぐやってきたそれはテーブルにずらりと並んだ。グラス越しにヒロトのぼんやりとした表情と視線が合う。適当に注文した軽食も手際よく店員が置いていくと、やがて「ごゆっくりどうぞ」という言葉を残して室内に二人だけ取り残された。

扉が閉まった途端、緑の目がメロンソーダになって溶けだしたように、床へ向かってぽろぽろ涙が零れ落ちる。ゆるりとテーブルに突っ伏した幼馴染の頭を軽く叩いて、俺はグラスをちろちろ煽った。ヒロトと二人きりの飲み会にはもう慣れたもので、勢いで飲みすぎず素面のままにならない加減はお手の物だった。向かい側の両目がグラス一杯の涙は零したんじゃないかと思われるぐらいの頃、ヒロトはやっとのろのろ顔を上げて、無言のまま温くなったグラスに手をつける。

以前は敵として、最後は同じチームとして戦った円堂が、今日、彼の想い人と結婚した。彼を慕う人が多いのは勿論のことなので、多くの人が今日の式に招待(もしくは飛び入り参加)していて。何故か一番にその情報を持ってきた晴矢がノリノリで一緒に行こうぜと誘ってきたのだが、俺は諸手を上げて賛成というわけにはいかなかった。

何故なら、施設を離れ独立したエイリア世代でも特に仲の良いヒロトが、円堂にずっと片想いをしていたのを直に見てきたから。中学の時からずっとずっと、俺はヒロトの恋愛相談役として健やかに胃を痛め続けている。悲惨なことに耐性があるようでいて、この幼馴染は酷く傷つきやすい。イケメンと呼ばれる分類に一応属しているのに涙腺も弱い。ましてや大好きな相手が他の人間とキスをしている所を見たが最後、気を失ってぶっ倒れるんじゃないかと俺は危惧していたのに、ヒロトはそれでも行きたいと白い顔を余計に青ざめさして言った。

「大好きな人が一番幸せになる時をね、例えその相手が俺じゃなくても、見届けたいんだ」

どこの乙女だ。そう突っ込んだら絶対泣くので黙ってついてきたけど。

「結局泣くんだよね、ヒロトは」
「……だって」
「どうせ今日行けば、ふん切れがつけられるとでも思ったんでしょ」

ヒロトは二杯目をグラスに注ぎながら、意味もなく片手で頬杖をつく。言い訳を探している時のヒロトの癖だ。些細な行動から彼の心情を読み取れるのは、長年親友として過ごしてきたことの成せる技でしかない。

「今日でふん切れがついて、緩やかに気持ちが引いてくなら良いよ。でもそんなに泣けるんだったら、ふん切れつかすんじゃなくて、気持ちを諦めることを諦めれば?」
「リュウジが、難しいことをいってるー……」

ヒロトは既に若干酔っているようだった。ふわふわとした口調で器用に眉間に皺を寄せる。まだ素面の俺は溜息をついて、ヒロトに合わせるためグラスの中身を注ぎ足した。

「学生時代の時も、ヒロトは見てるだけの恋だったよね。一歩踏み出せば何か違ったかもしれないのに」
「嫌われたくなかったから」
「うんそれ何度も聞いた。円堂のこと嫌われたくなくて、他の人と結ばれちゃって泣く程には好きなんだっけ?」
「ほどにはってなんだよ、僕は本気でえんどうくんを」
「はいストップ。それ以上続けると、最終的に俺が延々と円堂の素晴らしさを聞く羽目になって、ヒロトが泣いて終わる」
「うー……リュウジひどい……」
「高三の時に同じ事しといて、まだ懲りないんだな」
「……ごめん」
「うん。で。だから、そんな泣くくらいだったら、諦めるんじゃなくて片想いするだけしてればいいじゃんってこと」

ヒロトは黙り込んだ。気づけばいつの間に涙は止まっていて、目元に赤を残すのみとなっている。俺はその色を見ながら、考え込むヒロトに更なる投石を投げかけた。

「ヒロトが告白も何にもせずに我慢したご褒美だと思えばいいじゃん。ストーカーはしてたけど。誰にもヒロトの片想いがバレてない今現在なら、想うだけタダだよ。奥さんがいても……好きな人がいても、ね」
「そんなこといって、えんどうくんおもいつづけて、僕がこんどこそたえきれなくなったらどうするのさ!」

グラスを乱暴に置いたヒロトは、怒ったと思いきや更に泣きそうな顔をしている。折角泣き止んだのに。俺は何でこんなに面倒くさい男といつまでもいられるんだろうなという最もな長年の疑問を抱きつつも、肩をすくめてみせた。

「はぁ。その時はその時で、仕様がないから俺が止めてあげるから精々感謝してよ!はは、地球にはこんな言葉がある。転ばぬ先の緑川……ってね」
「……」
「……髪型、今日アレにしてくればよかったなぁ」
「……っぷ、あはは、懐かしいそれ!」

ワックスでセットした髪をぐしゃぐしゃにして、在りし日のままに両手で上へ巻きつけると、ようやくヒロトが朗らかに笑う。それも、円堂の結婚の話が持ち上がってから数か月ぶりの明るい笑顔だった。

「そっか、想うだけならタダ、か……」

そのままふんわりと呟くヒロトに、俺は頷く。彼はしかし徐に声音に真剣なものを混ぜて、俺の方に頭を下げてきた。

「ありがとう、リュウジ」
「な、何、突然」
「僕一人で円堂くんに片想いしてたら、こんなに明るく片想いできなかったよ」
「それは……ヒロト落ち込むとうざいから」

想像してみよう。俺が節々でヒロトの面倒を見なければ、こいつはヤンデレとかすっごくネガティブな方向に走っていたんじゃないだろうか、いやきっとそうに違いない。唯でさえ普通に落ち込むだけでも、赤い髪の上にキノコが生えるのだ。加えてヒロトはいつもタイミングが悪かった。まだストーカーしてるのかと問い詰めても許されるくらい、円堂が恋人とデートをしてる現場やいちゃついている所にこいつは鉢合わせる。うん、そこはよくフォローしたと思う、俺。

うざいってやっぱり酷いなぁ、なんてまたヒロトは笑った。

「リュウジが親友で良かった。もう僕、リュウジなしだと生きていけないかも」













ヒロトと飲みに行くときに軽いものをしか頼まないのは、ヒロトが滅法酒に弱いからだった。式の疲れと泣き疲れとがごっちゃになって、今夜も先に沈んだ幼馴染の柔らかな寝顔を見つめる。

(友情だけでヒロトに付き合いきれるなんて、有り得ないよばーか)

年々、華奢で薄幸めいた雰囲気が薄れていくにつれて、彼は大人になっていった。外面だけは。すらっとした鼻立ちに、形の整ったパーツ、優しい性格。ヒロトを放っておけないのは、決して俺だけじゃない。だから俺はしつこくこいつと会ってしまう。出来れば同じ所でずっと同じ空気を吸っていたかったけれど、父さんと瞳子さんの跡を継ぐヒロトと肩を並べることはできなかった。

(“親友”、ねぇ……)

今日ヒロトに放った言葉は、全て自分に返ってくる。まさしく経験者が語るアドバイス。俺もヒロトにあれこれ言える立場じゃないことをヒロトが寝てから自覚して、何となく落ち込んだ気分を一掃するためグラスの残りを飲み干した。

二人で一組の方の幼馴染、彼らはいつもヒロトに諦めろと言っているが、確かに諦めきれたら楽なのかもしれないと心の中だけで実は同意している。報われないと分かりきっている恋程、辛いものはない。現に楽になりたいから、ヒロトは今日の式に参加したのだ。

「ヒロト、本当はね。俺もお前にずっと片想いしてるんだよ」

だから、ヒロトだけ楽にはさせない。俺と同じように伝わらない気持ちを抱えながら、明るく片想いをしていればいいんだ。

ささやかに本音を言える時間。酔って潰れたヒロトにしか言えないのが悔しいが、こんな些細な時間が何よりも幸せで。俺はずっと入れていた肩の力を抜くと、さわり心地の良いヒロトの頭へ手を伸ばした。

しかし、至福の時間はそう長続きしないもので。――今までそんなこと微塵にもなかったくせ、今日だけは魔法が解けたみたいに、開いた瞼から呆然とした翡翠が現れる。

「……っ」
「リュ…ウジ、それ、本当……?」

ゆっくりヒロトが起き上がるのを見て、口は咄嗟に動いていた。

「な、なんだよヒロト、唯の冗談だよ冗談!たまには俺がヒロトを困らせたくてさっ。本当に冗談だから忘れ……っ」

唐突に向かいから腕が伸びてきて、俺の肩をがっしり掴む。言葉を遮られた俺は、吸い込まれるような緑色にそれ以上口を動かせなくなった。ヒロトはやたら、真剣な目をして言い放つ。

「冗談じゃ、嫌だ」

がつんと頭を殴られたような衝撃が襲いかかってきた。俺は今の言葉が信じられず、鉛のように重い口を何とか動かしながら聞き返す。冗談じゃ嫌だ、ってどうして!

「何でだよ、冗談じゃないにしても、ヒロトが好きなのは円堂だから困るのはヒロトだよ?」

すると幼馴染は目を見張り、視線をうろうろ彷徨わせた。これは混乱して頭が真っ白になった時の彼の癖。多分先ほどの発言は、ごく衝動的なものなのだろうと俺は勝手に当たりをつけて、少しだけ余裕を取り戻した。そうすると、明るくなりかけていたヒロトの機嫌が急降下していることに気づき、慌てて話題を打ち切る。

「あーあー!俺もヒロトも相当酔っ払ってるんだな!思ってもいないこと口から滑るんだもんな。明日も仕事だし、もうお開きにする?」
「……そう、だね。帰ろっか」

幸いヒロトも乗ってくれたので、俺は安心して帰る支度をわたわた始めることが出来た。

(あー……これじゃ当分、ヒロトに二人きりで会えないや)

自分の発言で、ヒロトとの今の関係にヒビを入れたくない。頭に残る仄かな酔いを覚ますように、ぐっと拳を握りしめた。その横で、ヒロトが未だぐるぐる思い悩んでいることは、当然知る由もない。

(冗談なら何で、僕が寝てる時に言うの……?)



そしてその日別れてから、ヒロトと連絡がつかなくなった。
















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