※サンイヴェ(サン)です









懐がまともに潤ったのは実に数か月ぶりのことで、石畳を滑る足取りは雲でも踏んでいるかのように軽い。精神力も体力も消費する本業に加えて、日雇いの肉体労働から各所の下働きまで、時間を惜しまず働く期間がこれまでになく長かった。アパルトマンには帰るだけ。飽きるほど一緒にいる相方も本業以外は別行動で、こうして久々に並んで歩くと懐かしいような、背中がかゆくなるような感慨を覚える。しかし流石は相方、明日を仕事のしも掠らない日にして、今夜は冷たくない食事と浴びるほど酒を飲むという話がとんとん拍子に決まった。

外が暗くなるとすぐに一杯ひっかけ、出来立ての美味しい夕食を財布の中身を気にせずに頬張る。皿に乗るのは肉、肉、魚。フォークを握る間はどちらも無言でただ空きっ腹の中に放り込んだ。普段無駄に多い口数がぐっと減るほど疲れ切っていたローランサンは、酒場に向かう頃にはへらへら周囲に笑顔を振りまいていた。悪態一つで剣呑どころか殴り合いになりそうだった昨日までの空気が嘘のよう。僕は少し躊躇ってから、だらしなく緩んだ目元に向かって気持ち悪いと呟く。返ってきたのは「人の事言えねーよ」なんてこれまた気の抜ける返事だった。

「人間って、飢えが満たされると満足するよな」

曇ったグラスが照明に鈍く煌めく。宵の序の口は酒場の喧騒も序の口で、まだ立ち台で歌う名無しの歌手の声が耳に届くのだけれど、さっきから高いレばっかり外してて耳が痛い。しかし有難くも歌声を遮るようにしてローランサンは唐突に語りだした。ただし、固い椅子にゆったり凭れ掛かりながら口から飛び出したのは訳の分からない台詞で。

「そんな当たり前のことを」
「いや当たり前なんだけどさ。この満たされた時の……何ていうの、満足感?解放感?煩い胃袋黙らしてやったぞこんちくしょうって感じの」
「達成感?」
「そうそれ達成感!それって病み付きになるよなって話。あとイヴェールの機嫌が良くなるから、せめて生活が成り立つぐらいの金は常備したいな」
「それこそ人の事言えないだろ、一昨日寝起きにむずがって僕のマグ割ったのは誰だった?あれ気に入ってたのに」
「……今度蚤の市で新しいの見繕ってくる」

蚤の市で新しいものという矛盾の説教が終わる頃には、酔っ払いの騒音で歌声は掻き消されていた。




「あー飲んだ飲んだ!」

マナーも気遣いも無用な下町の夜半。食前酒から食後酒までたっぷりと楽しんで、それでもずっと働き詰めだった僕らは、酒場が丁度盛り上がりの最絶頂へ到達する手前の時刻になると二人してうとうと寝落ちしそうになり、慌ててねぐらへと帰ってきた。折角の休日の目覚ましが、酒場の女将の怒声じゃ楽しみも半減する。昼間に比べて冷え込んでいる外の空気からようやく逃れ部屋へ上がると、相方は「ぽーい」と上着を宙に投げて寝室に入っていった。相当酔っているらしい行動に一瞬怒鳴ろうかと本気で考え込んで、こっちも寝室へ足を踏み入れた途端出迎えた安らかな寝顔にやっぱりデコピンでもしてやろうかと指を鳴らした。


額を摩りながら渋々脱ぎ捨てた上着を回収しに戻る姿を見届け、やっと僕も上着を脱ぐことが出来た。襟元を緩め、後ろ髪を束ねていた紐を解く。そうすると、今日の疲れどころか忙しくなってきた頃から溜めに溜めてきた疲労感が鉛のようにどっと押し寄せ、それを逃がすように僕は軽く息をついた。アパルトマンまでの帰り道で覚めた眠気が再び瞼に伸し掛かり頭の回転が鈍くなる。今すぐにでも先ほどのローランサンのようにベッドに転がりたいが、シャワーも浴びたい。幸せな悩みにうろうろ思考を漂わせていると、酔っ払いが千鳥足よりはしっかりした足つきで戻ってきた。

「ちゃんと、」
「ちゃんとハンガーに掛けてきたよ、イヴェールママン」

酒の魔法は当分切れないようだ。人をおちょくる言い分に眉を寄せるとけろりと冗談だってと調子の良いことをのたまう。それを溜息一つで許してしまう僕も、今日は大分酔いが回ってたのかもしれない。それと、今日はもうベッドの上で好きなだけ睡眠を貪っていいのだという安心感も。

しかしすっかり目が覚めて酔いは醒めてない相方は、今日一日を終わらせるつもりはないらしかった。てっきりまたベッドに向かうと思っていたローランサンは、不意をついて僕の背後に回った。

「サン!」

無防備に固まるしかない背中に疲労感よりも重いものが伸し掛かってくる。一人分の腕と頭だ。酒臭い息が耳元に掛かり、首筋に悪寒のような痺れが走る。咎めるように犯人の名前を叫べば、腕は脇の下を掻い潜って胸の前で絡みつき頭は更にぐりぐりと項に摺り寄せられた。

「……っこら、そんなことするんだったら今度は殴るぞ」
「痛いのは嫌だ。でも止めるのも嫌」

そう言って腕の力が強まる。小さい子どものような仕草に一瞬胸が高鳴って、慌てて首を横に振った。いや、可愛いと思っても何故かすんすん人の匂いを嗅ぎだしたこいつは成人間近であるが大の男。男で相方で、ローランサンだ。人生の共犯であるローランサンと僕は、その身近さから体を重ねることはあっても、恋人のような甘い雰囲気まで存在することがあってはならないのだ。

しかし唯でさえ鈍い頭が整理されるのを待ってくれない。気づけば抵抗も儘ならないままベッドに押し倒されていた。顔から柔らかい布地へそのままダイブ。

「イヴェール、すげぇ良い匂いする」
「ぶっ」

二人分の体重を受け止めたベッドは同じだけの反動を返す。伸ばしている自分の髪がその拍子に口の中へ入ってきて気持ち悪い。鼻辺りに広がるじんとした痛みに呻いていると、「…イヴェール」なんて誑し込んでいるのかと疑いたくなるような甘ったるい声音を相方が囁いた。痺れどころではない、ぞわりと鳥肌が立つ瞬間にも似た感覚に襲われる。咄嗟に耳を塞ごうとして、僕の行動を先読み(酔ってるくせに)していたらしい腕に縫いつけられる。触れた生身に肌が粟立ち、思わず漏れそうになった息を唇を噛んで堪えた。

――嫌だそんな声聞かせるな触るな馬鹿。無理やり心臓を押さえつけていた普段通りの自分のイメージまでもが、自分の身体から追い出されそうだ。


「人間って、飢えが満たされると満足するよな」

いつか聞いた訳の分からない台詞を吐いた相方はその内背中だけでは飽きたのか、起き上がると膝立ちになり腕の力だけで僕を反転させた。返事もできないまま視界が180度回転して、酔い以上に潤んだ藍色の目と出会う。

「……ぁ」

いつからそうなっていたのか、薄く開かれた口は物欲しげな赤色。ローランサンはとっくに酔っ払いの余裕を脱ぎ捨て、くしゃりと顔を歪めていたのだ。切ない表情に思わず息を飲みこむ。ローランサンのこれは煌々と照明に照らされた獲物を前にした時のもどかしげな表情で、欲しいものをねだる幼児の癇癪のようだった。

中心から末端までくまなく広がる感覚は正しく言葉に言い表せば背徳感。衝動的に熱を浮かべている眼前の頬に手を伸ばして、ふとうっかりその背徳感の向こうに隠れているものを見つけてしまった。駄目だと表面では思っていても、無意識に求めていたもの。

(気づいてしまったら、もう諦めるしかないじゃないか)

つくづくローランサンは僕のことを分かっていると思う。切っ掛けがなければ、実際に腕に囲い込まれて逃げ場が何処にも無くならなければ、一歩も前に踏み出せない。中に隠れているものを取り出せない。

「だけど今は、飢えてるから、イヴェールを触ってもいい?」

僕の手の上にもう一つ手を重ねて、ローランサンは頬を擦り合わせる。今度こそ心臓が締め付けられるような切なさを押さえつけることもなく、無言のままその手を引き寄せて、返事代わりに唇に噛みついた。

「んっ」

隙間から漏れる息がいやらしい。相方は目を丸く見開いたままキスを受けている。薄目でそれを確認し満足してから顔を離すと、僕は頬を片方持ち上げて笑ってやった。仕返し完了。ローランサンは勿論悔しげに口を尖らしている。すごく気分が良くて、今なら素直じゃない言葉も雲を歩くように軽やかに出てくるに違いない。

「僕もローランサンに飢えてるみたいだから、よろし」

最後の“く”とその先に続くはずだった“  ”という言葉は、人の話が最後まで聞けない馬鹿に首を思いっきり噛まれて言えなかったけれど。

その後はアルコールの効果も相まって、折角の休日を結局寝て過ごす羽目になったのは言うまでもない。










いかがわしいの一歩手前で止まってしまいました。サンイヴェのつもりで書いたはずが漂ってくるイヴェサン臭…(笑)それでもこのサイト屈指?の攻めっぽいロラサンになってるはずです。はず(※当社比)。那槻さん、折角の美味しいリクに微妙に添えずすみませんでした…!












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