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1829年ロシアとトルコ間でアドリアノープル条約が締結され、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通行権の確保や領土の割譲をトルコに強制しながら、ギリシャの独立が両国間で認可される。
翌30年ロンドン会議が開催されて国際的承認がなされ、32年にギリシャ王国が成立。それはビザンツ帝国消滅から約400年ぶりに得た”自由”であった。




潮を愛撫した風が、大理石の列柱を通り抜ける。
黄昏の光芒が降り注ぎ、黄金色の海が輝く。
アテネのアクロポリスの丘の上。悠久の時を渡るパルテノン。
ビザンツ時代はハギア・ソフィア寺院となり、オスマントルコ支配下ではイスラーム寺院となっていた、女神アテナを祭る古代ギリシャの遺物。
かつてヴェネツィアの砲撃を受け、独立戦争の最中にも被弾した傷だらけの姿は、それでも不滅の美と叡智を持つ女神の如く、雄渾にして優美な姿をしている。
光と影が織り成すコントラストは、眩暈がするほど美しい。


古代ギリシャの正統なる後継。
ビザンツ帝国を母に持ち、東方正教を管掌する栄光と叡智の国。
永く遠い被支配の末手に入れた"自由"は、手放しで喜ぶにはあまりにも多大な犠牲を払いすぎていた。


「後悔はしてないの?」
北からやってきた”解放者”は、黄金色の夕日の中で柔らかい白銀の髪を靡かせた。

指し示す内容は、独立の代償か、それともあの男を見逃したことか。
いずれにしろ、答えは変わらない。









銃剣が、砕けた大理石に突き刺さる。
かつての庇護者は恐る恐る目を開けて、困惑したように俺を見た。


「…っ死ね…」
幾度となく繰り返してきた暴言。
その度に殴られて殴り返して、心底嫌っていた相手。
美しきコンスタンティノープルを蹂躙した仇。

カタン、と銃剣が地面に落ちた。
ああ、一体全体俺は何をやっているのだろう。

「なんでぇ…、やらっ、ねぇのかよ」
そんな、意気地なしに育てたつもりはねぇ、と男は呟く。
歪む表情は、痛々しくて寂しい。

「…るさい、死ねっ」

視界がぼやける。
頬を伝う涙が、埃まみれの床に落ちて、まあるい染みを作っている。


ずっと憎んでいた。
永久にも思える永き月日を、その男を憎むことで生きてきた。
海に囲まれた城砦、難攻不落の城塞都市。
糸杉に囲まれた、母の思い出の城。
そこを我が物顔で闊歩する異民が許せなかった。
自分は、幼く無力だと思い知らされるようで。

三日月が浮かぶ紺青の空。
剣のように鋭く聳える、イスラーム寺院の尖塔。
母の香りが残る都を、男は愛した。
砂漠と海の風を繋ぐ、偉大なる帝都。
噎せ返るほど焚き染められた麝香の中で、男はいつも満たされない笑いを浮かべていた。
表情を隠す仮面が嫌いだった。
母親とは違う俺自身の部分に見てみぬふりをされているようで。


少年は青年に成長し、やがて痛みの意味を知る。

永く支配された記憶は、けれど、邂逅すると夢のように過ぎた美しい日々だった。
記憶の中の母の残香は、いつの間にか、オリエントの神秘的な薫香へと変化していた。
その男は、いつも血と土と、そしてオリエントの匂いがした。

ずっと憎んでいた。
永久にも思える永き月日を、その男を憎むことで生きてきた。
けれど、強すぎる執着は気が付けば簡単に裏返るものだ。
あるいは逆かもしれない。
最初から、裏返っていたのだ。
憎んでいた。
恨んでいた。
ずっとずっと、見つめていた。

ほしくて、手を触れたかった。
母ではなく、俺を見てほしかった。



「…お前は、弱くなった…」
語気を強め、断定的に言い放つ。
苦悩と忍耐と憂愁を綯い交ぜにした表情で、男は俺を見上げた。

「だから、俺一人を見るのが、限界だ…」
涙で濡れた視界の向こうで、いつもは仮面に隠されたオリーブ色の瞳が、困惑するのが分かる。


繰言を未だ言いたそうな唇を無理に封じた。

狂おしく抱きしめた腕の中からは、血と土と、そして、懐かしいオリエントの匂いがした。









アクロポリスの丘の上。黄金の黄昏に染まる海。
空も海も燃えるような煌きを放ち、時が止まる瞬間。
パルテノンは幾度となく傷つき、しかし灰燼の中にあって絶えず不朽の美を讃えている。
血と苦悩の果てに、芸術は生誕し、
血と苦悩に耐える精神こそ、崇高にして美しい。


「後悔なんて、するわけない…」

この海を越えた向こう側で、同じ風景を眺める者を想う。
白銀の”解放者”は興味なさそうにふーん、と呟いた。


葡萄酒色の海は、罪も罰もすべて受け入れてるように、波打っていた。



輝かしい独立の影に隠されたもの。
独立を確保した地域が限定的で、オスマン帝国内に残っていた地域ではギリシャ人の特権は剥奪され、地位が低下。国外に多くの同胞が取り残されている状況は、近東のギリシャ人居住区域はすべて「ギリシア」に帰属すべきであるという、極めて帝国主義的な主張を生み出す。
その結果、セルビア、ブルガリアなどとの間で民族主義に基づいた領土対立が生じ、バルカン半島は火薬庫と化す。

そして、1914年。
バルカン半島で放たれた一発の銃声は、やがて欧州全体を荒れ狂う動乱へといざなう事となる。



→後書き



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