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オスマン帝国はエジプト太守率いるエジプト軍の協力を得て、徹底的な力による弾圧を行った。
ホメロスの生地とされるシオ島の虐殺はその中でも有名である。

英仏露の三列強は1826年イギリス外相カニングの仲介によって、独立支援同盟を結成。
ギリシャの独立運動支援を続けた。

1827年英仏露の三国艦隊によるナヴァリノの海戦が勝利に終わったことで、ギリシャの独立を確実なものとなる。



比類なく美しい女だった。
闇の中にいてなお蜂蜜色に輝く生糸の髪。
緑青色の瞳は大粒の孔雀石よりも深く透き通っていて、星と月が輝く夜のエーゲ海を彷彿とさせた。

心を奪われる、などという生ぬるい言葉では決して表せない。
蜜のように甘く、毒のように激しく。
美しき魂の虜にさせられる。
五感全てを一瞬にして掠奪されるほどの不条理さをもって。

強くなって、かならず手に入れてみせる。
そう思えるほどあの頃は若く傲慢で、そして、無知だった。


「カスタリアの泉を飲めば、魂はエーゲに戻るのよ」
破壊と背信に耐え、傷つきながら血を流し、それでも握る剣が、カタンと音を立てて落ちた。
「だから、ずっとそばにいるわ」
そう言って、差し出した侵略者となった俺の手を、諦観と憂愁の色を浮かべた瞳で笑った。
哀しい微笑みだった。

ビザンツ帝国はオスマントルコの手に落ち、女は、俺の腕の中で息絶えた。
あとには、恋を失った愚者と、彼女が託した愛息だけが残された。



手に入れられなかった最愛。
手に入れてしまった生き形見。

彫刻のようにくっきりした目鼻立ちと、大きな潤みがちの孔雀石。
それなりに大切に育てたつもりだ。
「愛に生涯を賭けることには、至上の喜びと価値があるのよ」
そう言った愛する人の面影に日に日に似ていく姿は、けれど、呪縛のような痛みをもたらした。

爛熟してゆく帝国で、遺児は何を思うのか。
母親似の瞳に狂気を宿して、仇である俺に復讐の刃をむける瞬間も夢想しなかったと言えば嘘になる。
それは、蜜のように甘美な毒だった。


肥大した帝国は、熟しやがて黄昏の斜陽のように崩れ落ちる。
かつて、彼女が言った。
これが、時代の淘汰なのだ、と。
時が経ち、少年は青年となり、そして武器を手にした。




立ち込める硝煙と砂埃。
アラベスク模様の宮殿は崩れ落ち、瓦礫と成り果てる。
人の呻き声、血糊の匂い。
海が血に染まり、大地が泣き叫ぶ。
静けさと死の荒涼を、宵の帳が一層冷たく暗く沈ませている。


銃剣を突きつけるのは、見慣れた姿。
永い月日をかけて育てた、息子と言っても差し支えのない存在。
三日月に照らされた緑青色の瞳が、きらきらと輝く。
それを、美しいと感じるのは、彼女の存在のためか、それとも彼自身がかけがえのない存在だからか、答えはとうの昔に分かっている。

笑おうとして、失敗する。
痛みに歪む表情を隠す仮面は、割れて存在しない。

独立阻止にはがむしゃらに、なりふりかまわず全力を尽くした。
手放す事などできるはずもなく、するつもりも毛頭なかった。
それでも、このざまだ。
これが、西洋列強の力か、それとも時代の流れか。
そう考えると、まったく全てを投げ出しなくなる。


痛みの中で消えた悲壮の美女はその最中で何を思っただろう。


「何が、おかしい…」
今や、俺の身長を超えた青年は、眉を潜め、問う。

光る海、たゆたうエーゲの香り。
紛うことなく彼女の面影がそこにある。
なのに、あれほど鮮烈に愛し求めた美しい魂の形を、細部まで寸分違わず思いそうとすると、途端に拡散して手から逃げてしまう。

まるで、エウリピデスのヒッポリュトスだなと、酷く下らないことを思う。



「――…っ、とどめ、させよ」

こちらの都合などお構いなしに時代は流転する。
これはきっと、自己犠牲と自己満足に驕った俺への罰なのだ。


本当はずいぶん昔に気がついていた。
拡散した粒子が記憶の中で再結集して結ばれる像は、目の前の青年となるのだ。
それはあまりにも永く見つめ続けて、けれど、ずっと見てみぬふりをしてきた想いだ。

彼は、彼女ではない。
彼女の身代わりになど、なるはずもない。


「俺を殺せば、復讐はっ完成、して…、晴れて、自由だろぃ」

途切れ途切れに息を吐き出して、言葉を紡ぐだけでも血塗られた体のあちこちが痛んだ。
どれだけの大国も、逆うことは出来ない。
かつて、彼女が言った。
これが、時代の淘汰なのだ、と。

愛しき人のために戦い、復讐する。
全く、愛と哲学に生きたあの人の遺児らしい。
育てた俺には、あまり似ていない。


三日月が煌き、星が瞬く。
空は深く、エーゲ海は輝く。

「…おまえはっ、全然わかってない。本当に、馬鹿だ…」

血と涙と苦悩でぐちゃぐちゃの顔で、青年は憎憎しげに涙声で言った。
まるで生と死の岐路に立つ咎人のような苦痛の貌は、立場的には俺の方なのに、見ていて酷く哀しくなった。

こういう時に、かけてやれる言葉が何も浮かばない。
保護者失格だな、と自嘲したくなる。

動かない満身創痍の体に見切りをつけて。
閉じた瞼の裏に浮かんだのは、愛した女ではなくて、愛しい養い子の姿だった。


そして銃剣は振り下ろされた。

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