日曜日の午後。久々に部活の無い休日を、白石は千歳の部屋でゆったりと過ごしていた。
どうしてそうなったかと聞かれれば「成り行き」と答えるのが一番近いだろう。ただなんとなくメールをしていたらなんとなく千歳の家にお呼ばれされて、なんとなく了承したらそうなっていた、ただそれだけなのだ。かくして千歳と付き合い始めてから初めてのお宅訪問が実現した訳であるが、折角の初訪問に手土産一つも持参しないのはどうなのかとこれまた悩みの種が一つ生まれる。色々考え抜いた結果夜が明けてしまったので、朝になってから適当に前日作られた母特製のプリンをいくつか持って行ったところ、うまかうまか、と千歳はあっという間に二つも食べてしまった。

(案外甘いモン好きなんやな…)

ひょんなところで垣間見えた恋人の新たな一面は、白石を少しばかり驚かせた。これからこうやって少しずつ、お互いが知らなかった時を千歳と共有していくのだろうか。そう思いながら白石は先ほど千歳が淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。
じわり、安物のティーパックの味が口内に広がる。お世辞にも美味いといえる代物ではなかったが、普段水か緑茶しか飲まないと言っていた千歳の事を思えばしょうがない事だ。それに、もしかしたら自分が来るからとわざわざスーパーかどこかで買ってきてくれたのかもしれない。味自体は安物で粗悪な味だったが、これを手に入れるまでの過程を思えばこれもまたおいしいと白石は思った。

(…にしても、)

湯気をあげる湯呑を見つめてそっと言葉を落とす。
ティーカップがないからといって湯呑で紅茶を飲む、というのは初めての体験だった。なんだか紅茶を飲んでいるのに緑茶を飲んでいる気分がして落ち着かない。今度来る機会があったら手土産にティーカップセットでも持ってこようと思っていると、向かいに座っていた千歳が何の前触れもなくぽつり、と言葉を発した。


「なぁ白石…」
「ん?」


千歳が放った言葉は明確な意思を持ったものではなかった。つい口から出てしまった、そんな形容が正しいだろう。事実、千歳はそれから言葉を繋ぐこともなくただじーっと光が降り注ぐ窓を見つめていた。どうしたのだろうと思いながら次の千歳の行動を窺っていると、またぽつり、と彼は呟く。


「…例えば」


そう前置きして、千歳はまた黙り込む。なにやら重大そうだ、と白石は頬杖をつきながら事の行く末を見守ることにした。
そもそも、千歳が仮の話をするのは珍しい事だった。人よりも幾分先を読む事に長けている彼にとって、未来は未来であって未来じゃない。
例えば、絶対、きっと、もし。
この言葉を千歳から聞いたことは片手で足りてしまう程に、彼は未来について話をすることは少ない。だから今日は、異例なのだ。言おうか言うまいか迷っている千歳の横顔を見つめながら、白石はゆっくりと一つ瞬きをした。迷いに揺れているその瞳は酷く頼りなくて、彼が何を言おうとしているのかも分からないのに思わず大丈夫だとその頬を撫でてしまいそうだった。


「例えば、」


今度ははっきりと明確な意思でもって発せられた言葉は静かな部屋に良く響いた。掬い上げるように視線をあげれば、ばちん、と音がしてしまいそうな程強く視線がぶつかる。


「例えば俺が、熊本に帰ったら、白石はどげんする?」


そう来たか。酷く冷静な思考とは裏腹にどっどっ、と鼓動が嫌な脈拍を刻む。
一度だって忘れたことのないその事実は、言葉になるとその鋭利さを更に増して白石の心に深く突き刺さる。冗談かそうじゃないかを推し量るにはあまりにも材料の少ない千歳の言葉に、胸の内に静かに動揺が広がった。もしかしたら、という思いが胸にぽたり、と染みを落とし、そこからじわじわと際限なく広がった迷いがゆっくり確信へとその姿を変える。気付けば緊張からカサついていた唇を舌で湿らせて、白石はまず率直な思いを述べた。


「…帰るんか?」
「…例えばって、言ったっちゃろ」


そう言ってへらり、と笑う千歳は、なんとか現実味を無くそうと頑張っているように白石の目には映った。今まであえて触れてこなかった話題に触れる千歳は、俺にどんな答えを求めているのだろう。すがりついて泣き叫んでほしいのだろうか、それともそこまでの仲だったと別れを切り出してほしいのだろうか。


「俺、は」


言葉の端が震える。一旦そこで区切ってから、白石は両手で包んでいた湯呑の底へ視線を落とした。
白石には泣き叫ぶ程の勇気はなかった。みっともない姿を千歳の前で晒すくらいなら、ぐっと感情に蓋をしてその顔に笑顔を張り付ける方が楽だ。けれど別れられるのかと聞かれれば答えはノーだ。良い思い出にするには、千歳はあまりにも鮮やかすぎた。出会ってから散々振り回されてきて、いい加減にしろと首根っこを掴んで説き伏せたこともあった。もう二度とこいつには関わるまい、そう思った時もあった。けれどその決意とは裏腹に、千歳はどんどん白石の心に入り込んできて、しまいにはどかっとあぐらをかいて居座ってしまった。出ていけと何度言っても、千歳はそこに居座り続けた。それなのに今、背を向けて千歳は出ていこうとしている。勝手だ。あんまりじゃないか。
胸に迫りくる気持ちが喉元まで差し掛かってきたところで、白石は言葉にならない想いの代わりにゆっくりと瞬きを一つした。

(千歳は、何がしたいんや…)

熊本に戻る前に関係を解消させたいのだったら、いっそ一思いに別れようと言ってくれた方が楽だった。静かに胸に落ちた陰りは白石の不安を緩やかに煽り、胸の暖かさをどんどん奪っていく。結局は自分の一人相撲だったのかと考えたくもない事まで心の隅に芽生え始めた頃、ふいに千歳に名前を呼ばれ伏せていた顔をあげる。


「俺は白石の素直な言葉ば知りたかよ」


そう言った千歳の瞳は相変わらず揺れている。酷な事を強いているのは千歳のはずなのに、なぜだか自分が悪い事をしているような気分になった。耐え切れずに視線を外し、すっかり冷えてしまった紅茶の表面に視線を落とす。ゆらり、波紋が広がるそこに見えたのは、千歳と同じ瞳をした自分だった。

(…ああ、そうか)

ようやく合点のいった思いになんだ、と肩の力が抜ける。簡単な事だった。ただ一言千歳に言ってやるだけで彼はその顔をすぐに笑顔へと変えるだろう。それなのに二人して不安にかられて、しなくてもいいような事をしようとしていた。冗談じゃない、こんなつまらない事で離れられるか。そう思いながら白石はもう一度千歳の瞳を見つめた。
見てみろ。目の前にいるのはいつものどこか冷めた大人っぽい中学生なんかじゃない。まるで、母親に愛情を求める小さな子供だ。
白石は安心させるように口元に笑みをたたえ、息を吐き出すように千歳の望んだ言葉を返した。


「待ってんで、きっと、ずーっと」
「白石…」
「でも迎えが遅すぎたら俺から行ったる」


さも何でもない事のように笑えば、予想に反して千歳の顔はくしゃりと今にも泣きそうな顔に変わった。

(…案外、泣き虫)

本日二度目の驚きを胸に、白石は千歳の横へと移動してそっと腕を広げた。おずおずと回される腕にいつもの力強さはなく、緩く背中に回るだけなのが逆にぐっと辛さを煽った。よっぽど不安だったのだろう。こうして、自分に言葉にしてもらわないと安心できないくらいに。
初めて見る千歳の弱り切った姿は思った以上に白石を苦しめた。お前はいつも通りヘラヘラ笑っていればいいのだ。そう思いながらぽんぽん、といつも千歳がしてくれていたように彼の背中を叩きながら撫でる。


「ずっと、待ってんで」


ダメ押しにもう一度囁けば、千歳は情けない声でおおきに、と呟いた。
千歳の気持ちが痛い程分かる自分だからこそ、今の一言がどれだけの重みをもっているか知っている。この恋を終わらせたくない。その気持ちが強ければ強い分、未来が怖いのだ。別れてしまうその時が一分一秒でも遅ければ良いと、きっとお互いが思っている。


「…白石」
「ん?」
「居ってほしか…」
「え?」
「ずっと、一緒に」


まだ少し硬さの残る顔で、千歳は笑ってみせた。目元を赤く染めながらゆっくりと自分の気持ちを確かめるように呟く千歳からは、もうあの不安の陰りはどこにもなかった。
まだ15歳。他人から見れば何を戯言を、と一蹴されるかもしれない。けれど誓った気持ちに偽りは1つとしてない。大人になっても、例えその時隣に千歳がいなくても。きっと俺はこの一瞬を忘れないだろう。そう思いながら白石は当たり前や、と笑いながら眼前の恋人へと言葉を返した。