act.5





逃げるように飲み物を取りに行ってから、白石はとにかく千歳を視界にいれまいと必死だった。彼と接触しないように常にアンテナを張り巡らせ、臨機応変に動いて距離をはかる。まるで鬼ごっこのようなその行為にほんの少しのスリルを感じながら、白石はなんとか部活終了の時刻まで耐えぬいた。
時間を確認してふぅ、と一息つけば強張っていた肩が緩む。それと同時に周りの雑音が一気に鼓膜を襲った。飛び交う部員の声、コートを踏みしめる靴音。ああそうだ、後片付けをしなくては。未だに霞がかった思考のまま踏み出した一歩は、けれどもまたその動きを停止した。


白石は、気付いてしまったのだ。あまりに自然で気付くことすらなかった、それに。
けれど一旦自覚してしまえば途端にそれはじわじわとむしばむように身の内を侵食していく。こんな分かりやすい事実を目の前に突き付けられるまで己は一体何を考えていたのだ。千歳が好き?ならばどうしてこんな簡単なことに気付けなかったのだ。愕然とした気持ちで白石はその場に立ちつくした。


―――己と千歳が言葉をかわさずにいるのは、こんなにも簡単な事だったのだ。
そう認めてしまえばストン、とさも当然であることのようにそれはしっくりきた。失念していたのか、それとも浮かれていたのか。目先の恋に盲目になりすぎたせいで肝心な箇所を見誤ってしまえば元も子もない。最初から何も動いていない恋であったが、なぜだかふりだしにもどったような脱力感に襲われ、白石は形のいい唇をきゅっと引き結んだ。




お疲れ様でした。その一言でぼうっとしていた意識が引き戻される。眼前には不思議そうにこちらの様子を伺う瞳。そこでぐん、と一気に現実世界に戻った白石は、慌ててお疲れさん、と取り繕うような笑顔を顔に浮かべた。
演じるのは昔から得意だった。その気になれば泣きたいくらい辛くても瞬時に笑顔になれるくらい、演技は白石の中でごく当たり前のことになっていた。謙也のように例外はあるものの、基本的にそこまで親しくない友人の前では当たり障りのないように本心は隠している。決して褒められたものではないがこうして役に立つことも多いのだ。
今だってそうだ。最初は訝しがっていた部員たちも白石の笑顔を前に気のせいかと己の考えを改め、軽く会釈をしてからぞろぞろと群れるように帰っていく。それを見届けてからくっと顎を引く。

(アカン、集中や・・・)

瞼を指の腹で押さえつけ、言い聞かせるように何度も何度も繰り返す。今日の自分はやはりどこか本調子ではない。サーブはミスしまくるし、スマッシュは軌道をずれるし、さっきだっていつからあそこで呆けていたのか自分でも思い出せない。試しに思い返そうとして、すぐやめた。辛い出来事をほじくり返して自虐行為を行うほど己はマゾではない。

なにより失恋が確定したわけではないのだ、結論を出すにはいささか尚早だろう。しょぼつく瞳をぐっとこじ開けた白石はさて、と気を取り直すようにぐるりとコートを見まわした。
この後自分にはいつもどおり自主練が待っている。そう、ようやく一人になれる時間ができるのだ。馴れたとはいえ赤い糸が見える状況は精神にかなりの負担がかかっている。今日はあまり無理をしない方が得策か。自主練のメニューを調整して、ああそうだ、ついでにトーナメント表も作りなさなければ。
腕を組みながら次回の組み合わせを脳内で考えだす白石の肩に、突如ぽんと何かが置かれた。少しごつごつしていて重みのある、この感触は手だ。けれど俺はさっき部員を全員見送ったはずである。もしかして誰か自主練の為に残っていたのだろうか。そこまで考えて、白石はようやくある事に気付く。
俺は千歳を見たか?あいつが部室に戻る姿をこの目で確認したか?答えは否だ。今日千歳を避けに避けまくっていた俺は、当然ながらあいつが部室に入る姿なんて確認していなかった。最悪の結論を脳内で弾き出した瞬間、体がぴくりとも動かなくなる。いつもだったらなんのためらいもなく振り向けるのに、なぜだか今日は振り向けない。いや、振り向く勇気が無かった。

夕日に照らされたコートには自分の影が伸びている。そしてその横にも、見知った影が一つ。
千歳だ。
どくどく、と嫌な鼓動を刻む心臓を服の上からきゅっと掴んだ白石は、なるべく不自然ではないように前を向いたまま彼をあしらうように口を開いた。


「…なんや、驚かせんなや」
「いや、遅れてきたけん謝ろうと思って…」
「よう言うわ。いっつも言わんくせに」
「いやー、いつも思ってるばい」


嘘つけ。心の中でそう吐き捨て、白石はぐっとその柳眉を寄せる。まったく悪いと思っていない千歳の心無い態度が、朝からイライラしていた精神を更に追い詰めていく。しょうがないことだと頭では分かっているのだ。白石の特殊な状況を千歳は知る由もない。こんな気持ちを彼に押し付けるのはお門違いも甚だしい。しかし、だ。よりにもよってこのタイミングでくるか。そんな言いようのない苛立ちが腹の底からふつふつと湧きあがってくると同時に、またしてもすさまじいタイミングで千歳がぽつり、とまた怒っとる、などと零したのを白石は聞き逃さなかった。
朝から続く赤い糸のせいもあって、白石はとてつもなくイライラしていた。そう、イライラしていたのだ。自分が未だに赤い糸を見る事ができる、という事を忘れるほどに。


言い返そうと横を見てしまった時にはもう遅かった。網膜には面倒くさいことになったという顔をした千歳と、彼の小指に巻きつく2本の赤い糸が鮮明に映し出された。辿るな。思わず彼の赤い糸を追ってしまいそうになった自分を瞬時に制止し、白石はそのまま何も見るまいと千歳の顔だけを見つめた。くそ、失念していた。そうだ、そうだった、俺は、見えるのだ。
けれど、それと同時にもしかしたら、という淡い気持ちがぐぐっと白石の意思を揺り動かす。もしかしたら、千歳も俺を好いてくれているかもしれない。この2本の内1本でも自分の小指に繋がっていたら、俺は。そんな頼りなくも鮮やかな恋心を捨てきれずにいた白石は、やめろ、と脳が再度制止をかけるのを振り切り、己の左手に目線を落とした。




結論からいうと、視線の先に赤い糸はなかった。千歳の小指に繋がる赤い糸はずっとずっと遠くまで伸びていて、その先は見えないけれど、一つだけ分かったのは自分と千歳が結ばれない事実だ。
分かっていたことじゃないか、白石は胸の内で吐露した。少女漫画みたいなありきたりな展開が実際に起こるわけないのだ。期待だなんて、した方が馬鹿を見るに決まっている。一時でも浮わついていた自分が情けなくて、恥ずかしくて、ぐっと喉にせりあがってくる嗚咽を飲み込む。これ以上情けない醜態を千歳の前で晒すことなどできなかった。
百面相をしている白石に対して、千歳は不思議そうにそれをただ見つめていた。どうしたのか、と声をかけて怒られるのも嫌だったし、なにより珍しい物が目の前で繰り広げられていて声をかける頃合いを図りかねていたのだ。それでもこのままではどうにも気まずいと、千歳はたっぷり時間を空けてからなるべく白石を刺激しないように話しかけた。


「白石、しーらーいしっ」


千歳が白石の目の前で手の平を2、3度振ると、はっとした色素の薄い瞳が目の前の千歳を捉える。眼前のきょとんとした千歳の顔を見てようやく事態を把握した白石は、少しの沈黙の後にはよ帰れ、と不愛想に言って千歳の背中をばんっと力任せに叩いた。あまりの痛さに顔を歪めた千歳はなんね、人が折角・・・とぶつぶつ文句を言いながら、それでも言われたとおりに部室へと歩いていく。
ちょっと強く叩きすぎたかもしれない。そう思いながら白石は千歳がのろのろとした足取りで部室に入っていくのを見届けた。
千歳が目の前から消えて5分たっても、白石がそこから動くことはなかった。微動だにしない白石に焦れたのか、お前も早く帰れとばかりにびゅう、と風がコートを駆け抜ける。柔らかな薄茶が揺れて、落ちる。まるでそれが合図だったかのようにゆっくりと部室に背を向けた白石は、いつのまにかぐしゃぐしゃになっていた顔を隠すように伏せた。声だけは出すまいと奥歯を噛みしめて、暖かい水をジャージの袖でぐいっと力任せに拭う。それから、未だに残る千歳の手の感触を辿るように、先ほどまで彼の手が置かれていた箇所に触れる。そこにはもうぬくもりはなかったが、感触は目を瞑ればありありと思い出せる。冗談めかすような千歳の声も、こちらを見つめるあの瞳も。焼き付いて離れない。
しん、と静まり返ったコートの中で膝を抱えるようにしゃがみこむと、白石は溢れだす水を何度も何度もジャージに吸わせた。嗚咽を漏らすこともなくただぽろぽろと溢れ出る涙は、白石が今まで体験してきた涙とどこか性質が違ったものだった。初めて試合に負けて流した涙よりも静かで、謙也と喧嘩をして仲直りをした後の涙よりもほろ苦い。そんな不可解な衝動のまま溢れる涙を、白石はその髪の毛と同じ鷲色の瞳に浮かばせては溢した。
ジャージが水をたっぷり吸った頃、辺りは夜の色に同化するように薄暗くなっていた。はあ、様々な想いを乗せたため息を吐けば腫れた目尻がぴりっと痛んだ。


俺は、失恋したのだ。自覚してから失恋するまでのあまりに早い期間、それでも俺は千歳に恋をしていた。こんな時でも頭の中では、今まで見てきた千歳の表情がぐるぐると回っている。まるで忘れさせないとでも言うように脳裏に映し出されるそれは、いつもあいつのことを考える時に出てくるものと一緒だった。けれど一つだけいつもと違ったのは、最後をしめくくるように出てきた2本の赤い糸。


見る目あらへん。
自分に言い聞かせるように小さく呟いた声は、誰に聞かれることもなく小さくなって、消えた。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -