しとしとしと。
頭上に広がる鼠色の雲から絶え間なく水滴が零れ落ちる。つるりとした傘の表面を叩いた雨粒は、次に道端に咲いているアジサイの花弁を優しく濡らし、消えていった。色の変わったアスファルトの上を歩きながら千歳は人気のない小路を歩き、そんな「雨の日」を眺めていた。


千歳は雨の日が存外嫌いではなかった。特有の匂いを鼻から吸い込み、少しだけ靄がかった街並みに目を凝らせば、どことなく異世界に来た気分になる。常に刺激を求める自分にはうってつけの世界だった。
一歩一歩、足を踏み出すたびに濡れる足元。そういえば昔から傘の使い方が下手だとよく笑われていた事を思い出して、なんとはなしに視線を前へ向けた。くるくる、視線の先の彼女は透明なビニール傘をたまに回しながら歩いている。凛とした後ろ姿も、湿気など物ともしないさらりとした髪の毛も、きつそうに見えるけれど笑うと細くなって可愛い瞳も、相変わらずそこにあった。


1年ぶりに降り立った駅に、彼女はいた。おかえり、そう一言だけ発して俺に傘を渡すその一連の動きは、すでに馴れているのか無駄の一切ない完璧な動作だ。軽くお礼を言ってから傘を受け取り、柄についているボタンを押すとぱんっと乾いた音がしてビニール傘が開く。横に並んだ彼女もそれに習うように薄黄色の可愛らしい傘を開けば、ここからほんの少しだけ、終着点のない旅が始まる。


今回の旅でもそうだったが、この町を離れている間、連絡はいつも千歳からの絵葉書のみであった。今日は白波が綺麗な浜辺に行っただとか、地元の人と仲良くなって野菜をたくさん貰っただとか、さして面白みのない内容の葉書を一週間に一度送るのである。生存報告を兼ねたその葉書は千歳が旅に出るごとに増え、彼女にそのうち紙で窒息しそうだと嫌味を言われるほどになった。白石にしてはとても分かりやすい嫌味だ。百通の葉書を貰うよりも一度くらい顔を見せてくれと、そう言外に訴える健気な彼女に、千歳はふるりと静かに首を振る。もっと旅をしたい、自分の知らない景色や人をこの目に焼き付けたい、そんな心の内の欲求を千歳は優先したのだった。それが、俺たちの関係に綻びを生んだ。
そして気付けば、顔を見せなくともこうやって手紙は出しているのだと、本来ならば沢山の想いを乗せる葉書を千歳はいつしか免罪符のように扱っていた。白石なら理解してくれると、愚かにもこの時は本当にそう思っていたのだ。彼女の小言の裏に隠れた本心にも、ばらばらと崩れていく自分たちの関係からも目を反らし、千歳はここまできた。
きっと、お互いが無理をして、綻びが出ないように努力をしてしまったのがいけなかったのだ。


駅を出てから一切言葉を発しない彼女の後姿を見つめながら、千歳はぼうっと過去を振り返っていた。雨のせいか、それともこれから訪れるであろう結末のせいか。風邪でも引いたかのように体全体が倦怠感に襲われるのを感じた。

(嫌ぁな雰囲気っちゃね…)

腹の底からふぅ、とため息を付けば、いつのまに歩みを止めていたのか彼女の傘が大画面で視界に映し出される。慌てて進めていた足をぴたりと止めれば、今までとは違う空気に自然と柄を握る手に力が籠る。


「し、白石…?」
「…今回も楽しそうやったな」


背中を向けたまま、ぽつり、白石は呟く。それがあまりにも小さい声だったものだから、雨音にかき消されてしまわないようにと横に並ぶ。白石の小さい頭がちょうど二の腕にくるこの位置が懐かしくて、きゅっと胸が苦しくなった。


「海に、山、あぁ、この前は砂丘も行ってきたんやっけ?」


数えるように指を折り、白石は努めて明るい声音で喋る。いじらしいその姿に罪悪感が一気に膨れ上がり、とにかく謝らなければと気持ちだけが千歳の内を全速力で駆け抜ける。しかしそう上手い事いかないのが人生だ。なんとか言葉の間を縫ってタイミングを掴もうと試みるも、そうはさせるかと白石の声が続けざまに被ってくるので、結局閉口するしかなかった。大体、謝るにしても自分自身まだ整理がついていないのだ。

(一体、何をどこから謝ればよかね…)

気持ちと共に落ちていく視線は、少し前を歩く彼女の横顔へ移る。中学を出てから想像以上の成長具合を見せ千歳をひやひやさせた彼女も今や26歳。まだまだ花の盛りだ。マスカラを塗ったまつ毛が彼女の白い頬に影を落とすのを、千歳はぼんやりと眺めた。


「葉書に映ってた写真、綺麗やったなあ。特に沖縄の!水がキラキラ光ってて」
「なら、今度はそこの砂も持ってきちゃる」


罪滅ぼしのようにそう言えば、ほんま?と予想以上に嬉しそうな声が耳に届く。それに一つ頷いてみせると、するすると視線を落とした白石は勢いを無くしたように黙り込み、それからまた視線をあげてへらり、と笑う。


「おおきに」


そう言ってきゅう、と右手を握ってきた。俺より小さくて、細くて、それでもすごく力強いその手は、きっと沢山勇気を振り絞って握られた手だ。彼女がどれだけ意地っ張りなのか知っている。どれだけ臆病なのかも、それを隠すための強がりが決壊した時の脆さも、全て。頼りなく傘の柄を握る彼女の手を見つめながら、繋ぎとめるようにぐっと力を込めて手を握る。

(そげん辛か顔、いつからするようになったとね…)

己が気付かないふりをしてきた代償が目の前の光景だ。気丈に前を向いていた白石が耐え切れなくなって顔を伏せる。嗚咽も漏らさずただ静かに泣く彼女の涙を拭う勇気はまだなかった。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。俺たちの間に未だ音はない。


「…千歳」


いきなり呼ばれた名前に、気の抜けた声が口から漏れる。俯いていた顔をあげ、小さく深呼吸をしている白石の様子に、気付けば自分まで深呼吸をしていた。


「千歳、また、旅行の話、聞かせてな」


そう言って、彼女は笑った。まだ少しだけ湿っぽい目尻をさげて、自分の弱さや甘えを押し殺して。あぁ、それが白石の出した答えなのかと俺は頭の片隅でぼんやりと思った。きっとこれが、彼女なりの別れのサインだ。


思えばいつも無理ばかりさせてきた。こんな無理を強いるために付き合ってきたわけではなかったはずなのに、いつからか歯車が軋みだした。彼女との日々が積み重なるたびに、心のどこかで大丈夫だろうと高を括って好き勝手行動していた俺を、彼女はどう思っていたのだろう。
ざあ、と風が吹き彼女の髪が宙を舞う。その拍子に露わになった細い首には慎ましやかな輝きを放つネックレスが一つ。俺はそれに見覚えがなかった。それが、全てだ。俺と白石の空白期間を表すには十分だった。
もう、元に戻る事はないのだ。
あんなにごちゃごちゃだった思考が霞がかったように白くなっていく。けれどこの手を離したくなかった。自分勝手な思いに動かされる形で、繋いでいた手をぐんっと引き寄せ、白石の体を正面から抱き込む。その拍子にぱちゃ、と地面にできた水たまりに二人分の傘が転がる。

ばたばたばた。

容赦なく振り続ける雨は服や髪を濡らしていき、そうして最後に静寂を落とした。


「千歳…?」
「白石…」


祈るように名前を呟く。白石、本当は君と一緒に見たい景色が沢山あったんだよ。同じ時間を共有して、一緒に笑ったり、冗談を言い合ったり、身を寄せ合って体温を分けあったりしたかった。これは本当だ。
けれど白石には白石の生活がある。それを俺の都合で振り回すわけにはいかないだろうと、どこかで正当防衛のような言い訳を胸の内に秘めていたのもまた事実だ。連れて行こうと思えば強引にでも連れていけた。つまるところ、俺は白石の時間を全て担うという責任から逃げていただけなのだ。

(酷か男ばい…)

好きな女を泣かせて何を今更と、自分でも思う。けれど、浅ましいことにこの美しい人を泣かせたくないとも思うのだ。


「白石、これからも俺は、白石を置いてふらふら…すったい」
「…宣言かい」
「でも帰ってきたら白石の顔ば見たいし、おかえりち言うてほしか」


つまりは、そういうことだ。遅れに遅れたプロポーズもどきの告白に、愛想を尽かした白石が出す答えなんて分かりきっているけれど。それでも願わずにいられないのは自分自身の未練からきたものだろうか。雨の匂いとシャンプーの匂いが鼻をかすめる中、祈るように瞳を閉じる。ふわりとした髪の毛が頬にあたって少しだけくすぐったかった。


「…よおそんな事言えるな」


震える唇で吐き出された言葉は想定内のものだった。けれどダメージがないかと言われれば話は別だ。しっかりと心の奥深くをえぐるようなその言葉に、そっと閉じていた瞳を開ける。そうだ、これだけ待たせて今更な話だ。白石はきっと、とうに見切りをつけて今日はそれを話す為に俺に会いに来たのかもしれない。


「いきなり帰るからって葉書きても、こっちにだって仕事とか色々あんねん。お前とはちゃうねんで…いつまでもふらふらしとって電話の一本も寄越さん彼氏がどこに居んねん…」
「…うん」
「いうとくけど、俺モテんねんで…この間かて告白されて…千歳は知らんと思うけどな…優しい人やで」


うん、相槌を返しながら鼻筋を白石の肩に押し付ける。想像しなくても分かる事だ。その人の方が俺より何倍もの幸せを白石に与えてやれる。毎朝彼女の作ったご飯を食べて、おいしいよ、と微笑んだら、せやろ、と彼女も微笑む。それが違う男と繰り広げられるかと思うとみっともなくも泣きそうになった。以前までは当たり前のようにあった俺の席は、もう彼女の中にはないのだ。


「そんでな、俺の事大切にしてくれる言うてた…うん、そう思うわ。どっかの誰かさんと違ってマメやしな…ほんま、良え人や…」
「うん…」


白石は千歳の言葉を聞き届けてから、ゆっくりと体を離すように両肩をつかむ。千歳もそれに抵抗することなくただ白石の行動を見守った。ぽたりぽたり、耐え切れなかったかのように白石のヘーゼル色の瞳から水滴が零れでる。できるならこれからもずっと、白石の涙を拭って大丈夫だとその背を撫でてやりたかった。今となっては虚しく響くだけの願いも、間違うことなく己の本心の一つなのだ。
雨に打たれ歯がゆさに打ちのめされながら、千歳は白石の言葉をただじっと待った。


「ほんま、…自分でもどうかしてる思うわ」


ようやく発せられた白石の声は酷くくやしげで。それでいて、温かみに満ちていた。


「こんな、こんな最悪で最低で、甲斐性なしな奴やのになあ…」


白石の両手が伸び、頬を包まれる。目の前でくしゃりと泣き笑いを浮かべている顔は傍から見れば酷い顔に違いないが、俺には世界で一番綺麗に見えた。


「こんな良え女放っといたら後悔すんで」


だらり、無気力に下がっていた両腕を思わず目の前の彼女に伸ばす。二度と抱きしめられないと思っていたその体を掻き抱いて、冷たくなってしまった頬に顔を寄せる。嗅ぎなれた白石の香りに包まれればまた涙腺が緩んで、もう間違うまいともう一度その体を力強く抱きしめた。お互いにみっともなく泣いてぐしゃぐしゃになった顔で、うわ言のように謝罪と感謝の言葉を繰り返す。それから確かめあうように愛情を伝え合えば、心と心がかちりと重なる音がした。


きっと俺たちに必要だったのは距離の長短ではなく、言葉を交わして想いを伝え合うことだったのだ。俺は一方的に葉書を送ることで満足していて、白石は白石で不満を一人で内に抱え込んですれ違った。二人とも、真正面から向き合う強さがなかったのだ。
背中に回る腕を感じながら、改めて白石の存在を再認識する。学校生活に何の興味も見いだせなかった俺に喝を与えてくれたのは彼女だった。面倒な奴だ位にしか認識していなかったのに、気付けばするりと懐に入ってきて俺があきらめていた事全てを与えてくれていた。何かに一生懸命になる事、飾らない自分を表に出す事、そして誰かを全力で愛する事。昔の俺なら全て鼻で笑っていた事だ。


長いまつげからぽたり、滴が落ちる。そこに唇を寄せながら、千歳は美しい恋人の暖かさにそっと瞳を閉じた。





きっと君は最初の頃、俺の言葉の全てを嘘だと思っていたかもしれない。勿論、関係を終わらせないように葉書に沢山嘘も書いた。けれどちゃんと本当の事も毎回書いていたんだよ。「いつか、白石にも見せたい」、その言葉だけは本当だった。だから今度は一緒にいこう。ちゃんと望みの場所に連れて行くから。そしてそこで俺はもう一度、君にプロポーズをするんだ。頑張ってその綺麗な左手に見合う指輪も買っていくから、どうか頷いてほしい。しょうがないから一緒になったる、そう言って笑ってほしい。