ぐんぐん走る自転車は、夕焼けの街を淡いオレンジ色へと溶かしていく。

まるで絵画のようなその光景を、財前光は目を細めて眺めていた。淡い光がビルや家を照らしてその全てを優しく包む。キラキラと反射する水面も、家路につく子供を先導するかのように照らされる道も。そして空に浮かぶ雲も、その一つ一つがまるで芸術品であるかのように完成された空間だった。けれどその中で、自分と彼だけがいつもの日常であった。
耳に届く忍足の荒い息遣い。その声にはっとして意識を手繰り寄せれば、一気に視界が開けたような感覚がした。汗だくになりながらも必死に自転車をこぐ忍足の後ろ姿と、はためく彼のシャツが視界いっぱいに広がる。ばててきているのかふらふらとした軌道を描きながら、それでもタイヤは回る。だから立ち漕ぎなんてやめておけと言ったのに。忍足がこぐ自転車の荷台に乗りながら、光はコンビニで買ったアイスをぱくりとくわえた。さっきまではしっかりと固かったアイスは、このむわむわとした暑さのせいで今にも崩れ落ちてしまいそうなほど柔らかくなってしまっていた。さっき買ったばかりなのになあ、とすでに棒の端から垂れてきている滴をぺろりと舌でなめとれば、生温いメロンソーダの味が口内に広がった。





(…広い背中やなあ)

視界のほとんどを埋め尽くしている謙也さんの背中は、悔しいけれど自分より一回りくらい大きい。この時期の1歳差は大きいのだ。どんなに頑張ってもやはり彼の方が頼もしく感じてしまう。事実そうなのだろう。認めたくない事だが何度も彼に甘えてきた自覚はある。

(俺は謙也さんに何回助けられてきたんやろう)

シャツから浮き出ている彼の肩甲骨の影を見つめながら、ぼんやりと思った。一体俺はこの背中に何度守られてきたのだろうか。きっと数えだしたらきりがない。謙也さんの後ろ姿に既視感を覚えつつ、俺はそっと己の頼りない腕を見下ろした。いつか俺も、守れるのだろうか。ぶわりと胸の内に溢れる感情に浮かされながらもう一度しゃくりとアイスを咀嚼した。


ここの所ずっと同じ感情に心を乱されているのは自覚していた。何度も悩んで、何度も苦しんで、けれどその度にまた同じところへ帰ってきてしまう。答えは分かり切っているのだ。
怒り肩になりながら自転車を漕ぐ姿も、先制点を決めてひっそりと喜ぶ無垢な姿も、俺の嘘を見抜いた上で優しく包み込んでしまうあの雰囲気も。ゆっくり一つ一つ脳内で反復するように思い返せば、まるで走馬灯のようにそのシーンが流れる。怒った顔もいいけど、やっぱり一番好きなのは俺に気付いた時のあの笑顔だ。ひかる、と呼ばれる度に胸が軋んで、声が出なくなる。

(…俺、やっぱ謙也さんのこと、好きなんや)

食べきったアイスの棒を緩く握りながら、流れるコンクリートの地面に目を落とす。好き。そう、俺は彼が好きなのだ。けれど同時に、それが間違った感情であることも知っていた。この想いを告げた所で何がどうなるわけでもない。ただ、このひどく曖昧で優しい関係が壊れてしまう事だけが、はっきりとした事実としてそこにあった。だから俺は、せめてこの想いを口に出して彼を困らせないよう、ぐっと歯を食いしばって耐える。けれど心のどこかではこの張り裂けそうな想いが伝わってしまえばいいのにとも思う。二律背反な想いを胸に抱きながら、それでも俺は淡い恋にもう何度目かになる蓋をした。


「はぁっ…は、…あー、…しんど…」


商店街を猛スピードで抜けた自転車は、見知らぬ公園の前でようやくその動きをとめた。意図的なのか偶然なのかはわからないが全力疾走した彼を休ませるには丁度いい。なるべくいつもの軽口を意識して謙也さんに疲れた、休みたい、と申し出れば、予想通りぎょっとした顔の彼と目線が絡む。


「おまっ、ただ乗ってただけやろ!」
「俺か弱いんで、げほげほ」
「か弱い奴がテニスするか!」


いつものように全身で怒って、それでも渋々自転車を漕ぎだす謙也さんに、思わず伸ばしかけた手を慌ててサドルへもっていく。アホ。この手、どこに持ってこうとしてたんや。自戒を込めてぐっと握り拳を作って力を籠めると、同じくらいの強さでもって心臓が軋んだ。


この人は何も気付いていないのだ。俺の視線の意味も、言葉の裏に潜ませた本心も、なにもかも。それなのにいきなり手を伸ばして感情のままに彼に触れたら、怪しまれて距離を取られるのがオチだ。勘違いされてまたいらないお節介をやかれるのも困る。
好きな子おったんや、と嬉々として聞いてくる彼を想像しただけで胸が痛くなって、はーっと目を瞑ってため息を吐く。
素直にあんただと言えたら、いいのに。


「ちょ、お前重いんやからはよぉのけや」
「えー、謙也さん先輩ですやん」
「理不尽!」


ふらふらと動く自転車と同調するように、先ほど固めた意志もゆらりゆらりと頼りなく揺れていく。いつもそうだ、この人の優しい雰囲気に飲まれて、ちょっとだけならいいんじゃないか、と思ってしまう。ばれないように言葉と言葉の合間に軽く触れてしまおうか、なんて。食べ終えたアイスの棒をがじがじとかじりながら不毛な恋の行く末に空を見上げれば、そこには俺の苦悩などしったこっちゃないとばかりに光る夕焼け空が広がっていた。
自転車の荷台から降りてもう一度見上げる。
やっぱり綺麗だ、そう思って謙也さんのシャツをくいっと引く。なんやねん、と言う彼にこの夕焼けを見せようと思って、けれど何度シャツを引っ張っても彼はこちらを向かない。謙也さん、と少し語尾を大きくしても、肩を揺らしただけで相変わらず視線は前を向いたままだ。
まさかシャツを引っ張るのは彼の中だと奇異の対象なのだろうか。いや、でもよく腕で首をホールドされるし、そんな事はないはずだ。いや、でも。嫌な考えにじわじわと渇いていく喉とは裏腹に、心臓だけが正直にいつもより早い鼓動を刻む。
離さなければ。この人の思い出の中で「生意気な後輩だった」と思い出してもらう為に。
なに固まってんスか。そう言って憎まれ口を叩かなければならないのに。
でも、どうしても、離したくない。こんな時だけ願望に忠実な自分が情けなかった。


「ひかる、」
「っ、あ・・・」


ぱっと思わず掴んでいたシャツを離す。さっきまで散々離したくないと駄々をこねていた癖に、謙也さんが名前を呼んだだけでこれだ。こんなに弱い自分は彼に相応しくないのだろうかと自己嫌悪がぐるぐると胸の真ん中を巡る。いつもだ。いつも、この人の前だと普段の自分がどこかに行って、代わりに弱い自分がぐるぐると悩みだす。ちょっとしたことでも、あそこはああ言えばよかった、あぁもしかして傷ついてしまったかもしれないんじゃないか、だなんて俺が思い悩んでいることは、多分絶対に謙也さんは知らない。今だってそうだ。どうすればこの雰囲気を打開できるか、さっきから脳がショートしそうなくらい働かせているのに良い考えは何も浮かんでこない。
どう言葉を発するか迷っていると、もう一度謙也さんが光、と俺の名を呼ぶ。泣きたいような感情に無理やり蓋をして、気を緩めたら俯いてしまう顔をぐっと持ち上げれば、変な顔をした謙也さんと目があって、少しの沈黙。


「今、何時?」
「え、・・・六時ですけど」
「そうか」


先ほどまでオレンジだった世界はその色を紺色へと変えて、代わりにオレンジ色の街灯が俺たちを照らしてくれていた。謙也さんは乗っていた自転車を近くのフェンスに置くと、もう一度そうか、と言ってばちんと自分の頬を両手で挟んだ。


「け、謙也さん?」
「よし光、覚悟決めたで!」
「えっ」


今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気にぎょっとしながらも謙也さんの行動を目で追えば、視線の先にはさっきまでの空の色にも負けない位赤い顔をした彼がいた。


「謙也さ、」
「好きや」
「あ、の・・・」
「光が、好きや」


真摯な瞳に、どれだけ見つめてほしかったか。その言葉を、どれだけ自分が言えずに苦労したか。
でも、きっと、謙也さんはそれを全部分かっていた。分かっていた上でずっと一人でぐるぐる考えていたんだ。今彼の眼を見て初めてそう思えた。言葉通り覚悟を決めた謙也さんの顔を見つめながら俺は渇ききっていた喉をこくりと上下させて潤した。


「・・・謙也さんは、アホやな」
「え、」
「悩むなんて謙也さんらしくないやん。俺、ただ謙也さんから好きって、そう一言言われただけでなんもいらん位、あんたの事好きなんやで」


そう言えば、複雑ながらも若干の照れが混じった顔をした謙也さんがもごもごと口を動かす。なんて返せばいいのか分からないんだろうな、と思ったら自然と口元が弓形になっていく。この真っ直ぐさが好きだ。一生懸命で、カッコつけなくせして空回る所も、全部。


「真剣な顔もええけど、笑顔の方が何万倍も嬉しいで」


微かに震えている謙也さんの手を包むように握れば、きゅっと口を噤んだ謙也さんが俯く。
ごめんな、そう何度も呟いて俺の手をぎゅっと握り返す。


「俺、気付いててん、ちゃんと。せやけどお前と向き合うん辛くて。俺の想いがお前の想いに潰されるんちゃうかって、怖かったんや」
「・・・そうやったん?」


この人はこの人で死ぬほど悩んだんだなあ、とあまりお目にかかることのない謙也さんのつむじを見つめる。こんなに俺のことで悩んでくれたのは、不謹慎だが凄く嬉しい。頭の中が俺のことで埋まればいいと念じたあの日も無駄じゃなかったのだ。


「でも俺、ようやくお前と向き合える。光に負けないくらい、俺、好きやで」


目尻を赤くして頑張って笑う謙也さんの後ろで一番星が輝いている。謙也さんみたいだ、とぼんやり思いながら、そのどこか痛々しい笑みを見つめる。
きっと今彼の中は俺を長い間待たせたことに対する罪悪感と、新しい恋の始まりとでぐちゃぐちゃになっている。お節介なわりに甘え下手な謙也さんには、やっぱり俺しかおらんねん。復活した彼に対する愛の自信と共にぐいっと握り合っていた手を引き寄せる。


「しゃーないから、愛してあげますわ」


ぐちゃぐちゃなままの謙也さんをぎゅっと抱きしめて、高鳴る鼓動を共有する。じわじわとシャツに生暖かい感触が広がって、案外泣き虫なんだな、と新たな一面に心を躍らせつつこれが夢じゃありませんようにと謙也さんの匂いを肺一杯に吸い込む。


「カッコ悪いなあ・・・俺・・・」
「元々ですやん」
「・・・うるへー」


ぐすぐす鼻を鳴らしながら腕を背中に回してくる謙也さんがどうしようもなく愛しくて、すり、と柔らかな茶色に頬を寄せる。
謙也さん、あんたカッコええよ。俺が怖くて、多分一生越えられなかった線を、あんたは頑張って越えたんやから。
いつだって俺はあんたに救われてきた。


「大事にしたります」
「・・・そりゃどうも」


いつか、一番星を包み込める紺に、なれたらいい。