act.2




いつもの時間に起きて、いつもの日常を送るはずだった俺に、非日常は何の前触れもなく降りかかってきた。



「おはよ、う…」


挨拶も満足にしないまま、白石はぱたりとリビングのドアを閉めた。見間違いでなければこの先にとんでもない光景を見てしまったのだが、きっと疲れているせいだ。昨日全然寝つけなかったし、きっとそうだ。自己暗示をかけるように何度も大丈夫と繰り返すものの、何がどう大丈夫なのか自分でもまったく分からない。けれど、こうでもしないと先ほどまで眠っていたベッドへ再びダイブしかねない心持ちだったのだ。
深呼吸を一つして、それから昨夜感じた胸の鼓動とはまた別の速さで脈を刻む心臓にそっと手をあてる。頭の中はこのドアの向こう側に一瞬だけ見えた異様な光景で一杯だった。けれど、現状を打破しない限り何も始まらないと覚悟を決め、白石はくすんだ金色のドアノブをゆっくり、感触を確かめるように握った。
1センチだった隙間が5センチ、10センチと広がっていく。パジャマ姿で忍者のように壁に張り付きながら、俺はいやに冷たく感じるフローリングの表面を進んでいく。そろりそろり、時間がまるでスローモーションのように流れていくようだった。

意を決してドアを開けきった先、朝日が射し込むその空間にはいつもの「朝」があった。
パタパタとはためくカーテンの向こう側、少し開いた窓からは爽やかな朝の匂いが運ばれてくる。台所では母親がせわしなく動いて朝食を作っていて、姉はマジックカーラーを前髪に巻きながら食事をし、たまに寝ぼけ眼の妹と言葉を交わす。父はいつものように新聞を広げながら焼鮭に箸を伸ばしている。あ、落とした。

そう、目の前にあるのはいつもとなんら変わらない風景だった。その空間に、異様なものがうつりこんでいる以外は。
ぎゅるぎゅるぎゅる、脳内が異常なスピードでこの事態を理解しようとしている。今からでも遅くない、もう一度ベッドに入ってここから避難しようか。そう思いながらリビングの入り口につったっていると、いつもと様子の違う俺に気付いた家族が心配そうに名前を呼ぶ。

(うわ・・・)

それを耳から耳へと聞き流しながら、俺は目の前にいる母親の小指へ視線を注いだ。というか、そこにしか目がいかなかった。
自分の目が正しければ、あれは昨夜散々考えていた「赤い糸」だ。そしてそれは左隣に座っている父親の小指へと繋がっている。赤くて太いそれは確かな絆として二人を繋いでいて、それに少し場違いだけれど嬉しさを感じた。ついでに言うと味噌汁をすすっている妹や卵焼きを箸でつまんでいる姉の小指にも無数の糸が絡みついていて、それらは窓の外や玄関の隙間へと伸びている。この調子では自分にも糸がついているんじゃ。そう思った白石は恐る恐る自身の小指に視線をやった。


「・・・あれ、」


けれどそこは予想に反して何も絡み付いておらず、つるりとして綺麗なものだった。なんだか拍子抜けだ。

(・・・何も、ない・・・?)

はっとしてもう一度指に視線を落とす。何もないだなんて、そんなバカな話があるか。まだ15歳だぞ。
それに、だって、俺は今恋をしているはずなのに。
もしこの先恋をすることがないのだとしたら、昨夜しぶしぶ認めたあの感情はなんだったのか。よぎる最悪な事態に俺は呆然とまっさらな小指を見つめた。折角自分の中で始まりそうだった想いが音を立てて崩れ落ちる気がして、どうしようもなかった。

これ以上家族に心配をかけるのも悪かったので適当に調子を合わせて椅子に座る。母親は最後までちらちらと俺を見ながら食事をとっていたが、他は皆小首を傾げながらも、まぁいいかとすぐに各々の食事に戻っていった。


結局、分かったのは家族の誰もこの事態を不思議に思っていない事。もしくはこの赤い糸が見えていない、という2点だけだった。ではなぜ俺だけが見えるようになったのか。この現象は治るのだろうか。だとしたらいつごろか。


そこまで考えて白石はいや、と目を瞑った。こんな事を考えていてもしょうがない。とにかく学校に行ってみて同じ症状に陥っている奴らを探す方が得策だ。
上辺で平常心を保ちながら白石は食卓に座り、ふっくらと炊けた白飯を口に含んだ。


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