「ほなな!」
「おん、気ぃ付けや」


さ、と身を翻し、何を急いでいるのか浪速のスピードスターは目の前から足早にその姿を消した。小さくなっていく彼の背中を見届けてから1歩、2歩、それから振り返って、白石は後ろを歩く大柄な男に向き合った。


「何でずっと後ろ歩いてたん」


こっちに来て一緒に会話に混ざればよかったのに、という思いをを暗に含ませてそう告げれば、部室を出てからずっと数歩後ろを歩いていた千歳が自嘲めいたように笑う。


「…邪魔になるけん」


それだけ言ってまた口を閉ざす。目線を下に向けたままの彼は、どうやら隣に並ぶ気はなさそうだった。それならばと自分から近寄って隣りに並ぶと、それは別段彼の気に障る事は無かったらしく無言で受け入れられる。何だかなあ、と思いつつちらり、と隣を見ると千歳はすでに足を一歩踏み出していて、慌てて自分も置いて行かれないようについて行く。





曲がり角が近付く。いつもならどちらともなく歩調を緩めていたこの道も、今日ばかりはそのスピードが落ちる気配はなかった。結局、言葉を発する事もはばかられるこの重苦しい空間に、先に耐えられなくなったのは白石の方だった。
恥を忍んで、気付かれるか気付かれないか程度に少しだけ千歳に体を近づける。


「…なぁ、」
「なんね」


そっぽを向きながら返される態度に、白石はなんとなく出会った頃の千歳を思い出した。千歳と部室で最初に挨拶した時、彼は一定の予防線を張っていた。人好きのしそうな笑顔を浮かべて、その実そこには感情が一切伴っていない。千歳が部活に参加するようになってもそれは変わることはなかった。自分の領域に誰も立ち入らせないよういつもひょいひょいと避けながら笑っていて、一歩でも踏み込んでしまえば冷徹なまでの態度で切りつけてくる。そんな彼に、白石はどこか既視感を抱いた。
それを思えば今の態度のなんと分かりやすいことか。いかにも不機嫌ですといった様子の千歳を見ながら白石は小さく苦笑を漏らした。
一緒に過ごすようになって千歳の予防線は大分たわんだ。相変わらずへらへら笑うものの、きちんと向き合って話をすれば大抵の事は彼の口からきけるようになった。多分千歳自身、未だにそういう事に馴れていないのだろう、聞き出すまでには時間を要すが、それでも大きな進歩だ。白石は過去の自分を見ているような気持ちで千歳を見つめた。


「千歳、なあ、悪かったって」
「…別に気にしとらんったい」


どこがやねん、と思わず突っ込みそうになった右手を制し、白石は参ったなあとため息を漏らした。確かに、今回は自分が悪かった。
何があったかといえば、まあいわゆる約束違えだ。先に千歳と一緒に帰る約束をしていたのに、謙也に途中まで一緒だからと半ば強引に約束を取り決められ、結果その言葉通り先ほどまで帰り道を三人で歩いていた。これが言の顛末だ。
いつも財前と一緒に帰っている謙也がいきなりこちらの予定も聞かず一緒に帰ろうだなんて、二人になにかあったに決まっている。白石の中で千歳と一緒に帰ることも大切な用事だったが、親友に何か起こったならそれも聞いてやりたい。そう思って結局謙也の言葉を受け入れてしまったのだ。
結局、謙也の話は大したことはなかった。いつものように口喧嘩に負けた謙也が言い返せなかった悔しさを俺に切々と語り、言葉の折々に「酷いと思わん?!な?!」と同意を求めてくる。それの繰り返しだ。けれど最終的には自分も悪かったとへこみ、「よっしゃ、今から光に謝ってくるわ!」と風のように消えていった。後に残ったのは拗ねたような千歳と、痛いくらいの静寂だった。



相変わらずの耐えがたい空気に、白石は手持無沙汰になった右手をうなじへ持っていく。

(どうしたらええんや…)

たまに視界に入る自身のつま先を見つめながら白石は途方に暮れる。このまま機嫌を損ねたままだと存外子供っぽい千歳のことだ、きっと仲がこじれる。できるなら今の内にきちんと謝って仲直りをしたい。けれど千歳にその気はないようだし。
ちらりと千歳の方を窺うように目線をやると、千歳の右手が動く。どうやらラケットバックを抱えなおしたようだ。けれどそれだけの事に思わず肩を揺らしてしまった自分が恥ずかしくなって、うなじに当てていた手を口元へ持っていき、白石はばつの悪い顔を隠した。
声をかけようにも先ほどから一々びくついてしまって全く話にならない。自分はいつからこんな臆病になったんだ。情けなさに打ちひしがれていると、それを見かねてか偶然なのか千歳が一つ咳払いをする。ここだ、ここしかない。


「…あの、千歳…今日は、悪かった」
「……」
「先にお前と帰る約束しとったのに、謙也と途中まで一緒に帰る形になって、ほんま申し訳なかったと思う」
「……別に。もう良かばい」


じゃあその間はなんやねん。今度こそ口から出そうになった言葉を慌てて飲み下し、代わりにそうか、とだけ返す。


「あいつが途中で帰るなんて言うから、途中までなら良えんちゃうかって、思った」
「……」
「あの、今度からは、その、気ぃ付けるな」


そう付け加えてから落ちた沈黙は、今度は誰にも破られる事なく流れていく。いつのまにか半歩先を歩いていた千歳の背中が妙に遠く感じる。まるで見えない壁でしきられているかのように一定の距離が俺と千歳の間に生まれた。なんだか昔に戻ってしまったようだ。まだ、千歳も俺も心を開けていなかったあの頃に。

(こんな所で懐かしさ感じてる場合やないんやけどな…)

自嘲気味に息を吐いて、白石はもう一度千歳の背中を見つめた。
あの頃は、「体当たりしてぶち壊してやれば良え」と背中を押してくれる仲間がいた。俺はそれに流される形で千歳の心に触れ、千歳もゆっくりだけれど俺に触れて。そして恋をしたのだ。けれど今回はそんな力強い仲間もいない。今度こそ自分ひとりの力で千歳に向き合わなければならないのだ。
見つめた先の千歳の背中は相変わらず遠い。生まれてしまった壁を体当たりで壊すには、今日はちょっと気力が足りなかった。
隣にいきたいけど、いけない。
どうしようもない二律背反が心を埋めていく中、自他共に認める意地っ張りな己は、千歳の名前を呼ぼうとした口をまた閉じた。



頭上に一番星が輝くころ、気付けばいつもの分かれ道にさしかかっていた。その事に沈んでいた気持ちが少しだけ浮上する。いつもとは逆だな、と白石は内心で苦笑した。
口にはしないもののお互い離れるのが名残惜しくて、ここで立ち止まってだらだらとくだらない言葉を交わして別れる時間をのばしていた。それが俺たちの日常だったのだ。けれど今回ばかりはさっさと背を向けて帰ってしまいたかった。それ程までにこの沈黙が辛かったのだ。


「じゃあ…」


そう告げて背中を向ければ、がしっと腕を掴まれる。どうしたのかと振り返った所でそのまま引っ張るように腕を引かれ、電柱の後ろに隠れるようにして後ろから抱きしめられる。

(な、んやねん…)

普段、お互いにあまりスキンシップをとる方ではない。とるとしても、千歳の家の中が殆どだ。けれどここは外で、今は人通りもないがいつ人が来てもおかしくはない。にも関わらず千歳は俺を、抱きしめていて、それで。
脳内がホワイトアウトしていく中で、触れ合っている箇所だけがじりじりと熱くやけるようだった。それを誤魔化すようにきゅうっと目を瞑ると、抱き締められる力が強まる。どうすることが正解なのか分からないまま、白石はただじっと千歳に抱きしめられていた。





お互い無言のまま時だけが過ぎていく。ここが人通りの少ない道でよかった、と冷静な判断を下す一方、これ以上ないという程加速していく鼓動が俺の本心を物語っていた。相変わらず千歳は何も喋らない。ただ抱きしめられる腕の強さから、何か訳があるだろう事は感じ取れた。

(千歳は、何がしたいんや…)

千歳のお世辞にもかっこいいとは言えない仏頂面を思い返しながら、白石は脳内で一向に答えの出ない問題に向き合っていた。あんなに聞く耳持たずだった千歳が何を思っていきなり後ろから抱きしめてきたのか。考えても考えても、結局答えは出ないままだ。どうしたものかと顎の下で交差されている千歳の腕に頬を寄せれば、もぞりと千歳が身じろぎをする。


「…白石」


耳元に唇を寄せ、低く囁かれる。


「白石、」


確かめるように、もう一度。今にも消えてしまいそうな程に小さいその声は、俺の鼓膜を甘く揺らすには十分だった。
否応無しに上がっていく体温。肩から腹に回った千歳の腕に手を重ねて、顔だけを千歳に向ける。


「…千歳」


呼応するように呟いた声は自分が思っていたよりも随分甘いものだった。首筋にすり、と鼻を擦り付けてくる千歳を甘んじて受け入れ、それからもう一度千歳、と名前を紡ぐ。
そうすればそれが合図だったかのように怠慢な動きで顎を掴まれ、くいっと千歳の方へ顔を向かされる。視線をあげた先にはしっとりと濡れた黒い瞳。吸い寄せられるように近付いて、後少しで唇が触れるという時に小さく何かを呟かれた。え、と思わず閉じていた目を開けば、眼前にはらしくなく照れたような千歳の顔。その瞳は何よりも雄弁に彼の気持ちを表していて、そっと唇に感じる温もりに今度こそ瞳を閉じた。




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