「ただいまー」
「おかえり、はい」
「・・・え?」
「え?やないで。ぼーっと突っ立てる暇あるんやったら風呂掃除と電球の埃落としてや」






期待していなかった訳ではない。いや寧ろ盛大に期待していたさ。
がっしがっしと苛立ちをぶつける様に、泡を纏わせたスポンジで浴槽をこれでもかとばかりに力強く洗う。
ドアを開けたら抱きついてきてくれるのかなーとか、それで、いつもより豪勢な食事が机に並んでいたり、なんて。だって俺たちは恋人同士で、今日は俺の誕生日で。それは恋人である白石も勿論承知しているはずだ。
いや、『だった』・・・?
ちらり、風呂場からリビングを覗き見すれば、家計簿と格闘している彼の後姿を捉えた。さらりと首筋に這う髪、せわしなく動く左肩、均整のとれた体躯。いつもとなんら変わりのない彼にまた落胆した。

(せめて言葉位くれたって)

罰が当たるわけでもあるまいし。
ぴっ、ぴっ、と頬に飛び散る泡をぐいっと腕で拭って一つため息をついた。
まぁ正直、自分に全く非がないといったら嘘になる。バイトを店長にごり押しされる形で引き受けてしまい、朝早くから、白石が起きる前にでていってしまった。これが一つ。(白石はどんなに忙しくても見送りたいと言っていたのだが、昨日は無理をさせてしまったし気遣った故の結果だ)後はそれを彼に謝らなかった事。きっとこれも白石の中での怒りを蓄積させてしまっているに違いない。
でも、それでも。


「千歳、」


予想外の声にがむしゃらに浴槽を擦っていた手を止める。振り向かずに黙っていると、痺れを切らした白石が口を開いた。


「あんな、俺かてこんな、お前の誕生日にまで怒りたかないねん」


じゃあなんで怒っているんだ。バイトを引き受けたから?朝黙って出て行ったから?帰りが遅かったから?酷く自分勝手な言い分にちり、と腹の底が熱くなった。
そんな俺に「せやけど」と一つ区切って白石は押し黙った。
本来祝われる立場であるはずの俺を納得させられる理由があるなら早く言ってほしいものだ。ぽいっとスポンジを近くに放って彼の言葉を待った。


「せやけど、隣が冷たくなってんのは、嫌や。怖なる・・・」


(あ、)

思わず振り向けば風呂場のドアに背を預けながら白石がくしゃりと手で顔を覆っていた。あぁ、もしかしなくても、あの強情っぱりが泣いているのだろうか。そんなつもりこれっぽちもなかったのに。ぎゅうっと切なさに疼く胸に知らず眉根が寄った。


「ワガママなんも知ってる。今日はお前が主役で、いつも怒っとることも、笑って許してお前に良え気分でいてもらって。・・・そんなんも全部、分かってんねん・・・」


涙声を隠すように、震える声を叱咤するように紡がれた言葉は、深く俺の心に突き刺さった。俺に泣き顔を見られることを嫌がる白石は、ずっと俯いたまま、口だけが忙しなく動く。


「だけどどうしてもうまい事消化しきれんかった。いっつも、・・・お前が絡むと、俺おかしなる」


そこまで言って俯いたまま軽く目頭を押さえる白石に俺はバスタブを出て彼の腕を引いた。ぽすりと力無く俺の胸の中に納まる白石の身体を、久しぶりに頼りないと感じた。
俺は、馬鹿だ。知っていたのに。彼が打たれ弱い事も、隣に温もりがないと、ひどく怖がることも。知っていたのに、それを無視したのは紛れもなく俺自身だ。


「すまん、蔵、ここに居るよ」
「千歳、」
「ここに、蔵の傍に。ずっと」
「千歳ぇ・・・」


安心させるように何度も囁いて、以前彼が好きだと言ってくれた仕草で頭を撫でた。白石の全てを包み込めればいいのに。そうすればこんな不安なんてすぐに拭える。まるでおとぎ話のような考えを巡らせている俺の頭に、先程の怒りはどこにもなかった。


「もう絶対勝手に出ていかん」
「う、俺、も、ごめん」
「どげんして?」


控えめに背中に回る腕。少し震えているのはきっと、風呂場が寒いからだけじゃない。じわり、綿の長そでに吸われていく液体はすぐに冷たくなった。


「お前、誕生日、なんに」
「あー、もう気にしとらんよ。それより早く泣きやみなっせ。別嬪さんが台無しばい?」


顔を上げさせて溢れ出る涙をそっと指で拭った。何度も何度も、人差し指から親指に変えて、頬を両手で包み込んだ。白石の泣き顔には昔から弱かった。いくら自分に非がなくとも、彼の目から涙が零れでたらすぐに謝っていたっけ。
たった一度だけ、泣かれても意志を貫き通したことはあったけれど。


「あほ、あほや、あほ」
「そげん言うんも酷かね」
「あほ・・・誕生日おめでとう・・・」
「え?」
「もう言わん」


物凄く変なタイミングで祝われてしまったが、まぁ良しとしよう。ぎゅっと首に抱きついたまま顔をあげない恋人は、きっと耳まで真っ赤。それにくすりと笑みを漏らせば除夜の鐘がごーん、と響いた。


「・・・危な」
「今度からはもうちっと早お祝ってくれんね」


ようやく顔をあげた白石にそう告げれば、考えといたると一言。酷かー、苦笑しながら放った言葉に今日初めて笑った白石の顔はとても綺麗だった。


「なんや風呂場で新年迎えるて、間抜けやな。お前の恰好も間抜けやけど」
「それは言わんで欲しかったばい・・・」


腕をまくって裾をまくって、泡まみれの浴場で男が二人で抱き合って。あまり客観的に見たくない図だという事は確かだ。まぁそれもいいか、俺たちらしくて。
少し身をかがめて頬にキスをすれば、それに対抗するように白石からもキスをされた。お互い笑いあって、浴室を出ようと足を動かせばこけて、白石も道連れにして。
怒られて、謝って、笑った。






淡い期待は大抵打ち砕かれる運命だ
(けれど、それ以上に素晴らしいものが待っていた)



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