※中学卒業あたり



人ごみの中、白石は前を歩く大きな背中を見失わないようにその歩を速めた。黒いカットソーにはき古したボロボロのジーンズ姿の千歳は、はたから見てとても様になっていたけれど、彼の酷いファッションセンスは未だに健在で、今日だってそれはあんまりだ、という柄の服を選びそうになったのを、自分が無理やり押し付ける形で黒いカットソーにしたのだ。そんないつになっても変わらない千歳の背中を見つめていると、未だ実感のわかなかった胸に、途端に現実がなだれこんでくる。
最後だ。これが、最後。なんてあっけないんだろう。この背中を追いかける事も、この背中に手を回すことも、お互い声を交わすことさえも、これから先ないのだ。そう思ったら、どうしてか昔の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。思い返してみても決して楽しい事ばかりではなかった。世間から認められるような関係じゃなかったし、どこかでいつも怯えながら関係を続けてきた。けれど、不幸せだと思ったことは一度もなかった。
お互い交わす言葉はない。ただ黙々と一定の距離を開けて歩く自分たちは他人の目にはどう映っているのだろうか。機械的なアナウンスを聞き流しながら白石はもう一度目の前の背中を見つめた。千歳の肩越しにぼんやりと搭乗ゲートが見える。あれをくぐれば、本当におしまいだ。


今日、千歳は九州へ帰る。





「わざわざすまんね、白石」


こちらを振り返った千歳の顔は、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとしていた。千歳はきっともう、覚悟を決めているのだろう。ずるずる結論を引き延ばしていた己とは違うのだ。目尻を下げて笑うその瞳は、相変わらず優しく甘やかな色を浮かばせて俺を見つめてくる。まるでいつもの帰り道にまた明日、と言ってくるような雰囲気だ。ずるい奴。そうやって最後まで俺の心を掻き乱していく。


「一応部長やったからな。皆の代表として来たったんや」


精一杯の強がりは、けれども千歳には通用しなかった。分かっとおよ、どこか笑いを含んだ声が上から降ってきて、それになんと返していいか分からずに口を閉ざせばふっと沈黙が落ちる。同時に、今まで気にならなかった周りの音が一気に大きくなった気がした。ざわざわ、とまるでテレビの砂嵐のような雑音が白石の鼓膜を揺らす。携帯片手に喚きながら横を通り過ぎるサラリーマン。近くの椅子で泣いている赤ちゃんをあやす母親の柔らかな声。どうにも気まずくなって視線を千歳に向ければ、ばちりと目が合った。じっと逸らさずこちらを見つめてくる両眼に今しかない、口を開いたその瞬間、空港内にアナウンスがこだました。


「時間やけん、行くばい」


愛しとおよ、白石。白石はむぞかね。意地っ張りなとこも好いとおよ。
そうやって、いつも優しく愛を伝えてくれていた声で彼はさよならを告げた。止める術はなかった。決意した千歳が誰よりも頑固であるのを知っていたから、白石は言葉を発することはせず、静かにその口を閉ざした。


背を向けて歩いて行く背中を目で追う。小さくなって人混みに紛れていく彼の背中が段々とぼやけていく中で、願った。どうか彼が躊躇わずに前へ進んでくれますように。間違っても後ろなんか振り向きませんように。そして同時に胸に押し寄せたのは、浅ましい己の思考に対する嫌悪だった。
ずるいのは俺の方だ。彼の為と願った事は全て自分の為だ。躊躇わずに進んで欲しいのは、躊躇った素振りを見たら引き止めてしまうから。後ろを振り向いてほしくないのは、千歳の前でみっともない醜態を晒したくないからだ。今だって、こんなにも振り向いて欲しいと思ってしまっている。

目の奥が熱い。下唇を噛み締めて、手を白くなるまで握りしめて、けれどやはり彼の背中を見続ける事は叶わなかった。思わず伏せた顔からは重力に逆らうことなくパタ、パタ、と想いが零れ落ちる。
こんな苦しい想いをするのはこれっきりだ。そう言い聞かせてそっと瞼を閉じた。





「・・・、やっぱり」


聞き慣れた優しい声色が上から降り注ぐ。驚いて反射的に顔をあげれば、しょうがないなあ、とでも言いたげな瞳が俺を見下ろしていて、俺は思わず口を半開きにしたまま固まってしまった。よしよし、あやすように千歳が涙をぬぐっていくのを、半ば呆然とした心持ちで見つめた。だって、さっき確かにゲートの向こう側にいくのを見届けたのに。なのに、どうしてこいつは目の前で俺の涙を拭っているんだ。段々と思考がハッキリしていく中で、今更ながらに涙でぐちゃぐちゃになった顔を晒すのが恥ずかしくなって顔を下に向ければ、頬を千歳の両手で挟まれて強制的に上を向かされる。


「…なんで、おまえ」
「白石は、いつもそうたい。自己完結して、押し込めて」
「え、」
「黙って泣かれるんがどんだけ辛いか分かっとっと?」


少し諌めるような語気でそう告げられた。まるで自分は悪くないというその言い方に「来てくれた」と少しだけ浮上していた気持ちが再びどすんと地に落ちる。あまりの彼の身勝手な言葉に気付くと流れていた涙は止まっていた。
勝手に自己完結しているのはお前だろう。下腹がふつふつと煮えくり返るような感覚にぐっと下唇を噛みしめながら、白石は沸きあがる激情を抑えきれずにいた。こいつの胸倉をつかんで、お前も俺の前で感情をさらけ出したことがあったかと詰め寄ってやりたい。俺の前で泣いたり怒ったりしたことがあったか?いつだってそういう弱い所を隠してたお前に、一方的に責められる謂れはないだろう。現に今だってそうだ。お前はキチンと別れ話もしないまま九州に帰ろうとしている。どうせ自然消滅するんだからこのままでいいとでも思っているのか。
そう吐き出してやりたかったが、その思いを口にするのに空港という場所は些か不便であった。こんなみっともない光景を不特定多数の人たちに見せるものではないと自制をきかせた白石は、ぐっと息を飲み込んでから千歳の瞳を射抜くように見つめた。


「じゃあ俺が寂しいて言うたらお前は九州いかなかったん?」
「…それは、」
「ほら、ちゃうやろ。やったらなんで最後にあんなこと言うねん。終わらすなら終わらすでさっさとやれや。お前はいっつもそうや。結局最後の最後まで俺に本音は言わん」


一度溢れ出した思いはとどまることを知らず、口は勝手に走り回る。散々蓄積してきた思いの丈をまくしたてるように千歳にぶつけている間、彼は一言も口を挟むことなくただただじっと俺を見つめていた。相変わらず口は止まらなかった。


全てを出し切ると、下りてきた沈黙の中に己の荒い息だけが不自然だった。一気に畳みかけた事で乱れた呼吸を整える。それと比例するように熱くなっていた頭も落ち着いていった。
馬鹿みたいだ、白石は己の行動を思い返しながら後悔していた。最後にこんな醜態を見せる事になるとは夢にも思っていなかった。どうしてこの口からは汚い言葉しか出てこないのだろう。千歳と付き合ってからだって、愛の言葉よりもこういった罵声のようなものが多かった気がする。それでもいつも笑いながら受け流してくれていた千歳に、今更ながら申し訳なさが込み上げてくる。もしかしたら、俺がこんな奴だったからあいつも本音を口に出せなかったのかもしれない。そう考えてしまえばその思いは加速するばかりで、ぐるぐると脳内を全速力で駆け巡る。自分が、いけないのだと。そう思ったら途端に心の芯が冷えていくような感覚がした。
それと、微動だにしない白石の肩に千歳が戸惑うように触れたのは同時だった。


「白石、すまん。そんなため込んどったん知らんかったばい」


肩に触れた手はそのまま背中に回り、気付けば白石は自分より体温の高い千歳に抱きしめられていた。相変わらず最後まで甘い元恋人の肩に顎を乗せながら、白石はぼんやりと出会った当初の事を思い返していた。そうだ、千歳に初めて告白された時もこんな感じだった。未だかつて破られたことのない境界線が目の前の男にあっさりと破られて、戸惑っている暇もなくずかずかと土足で入り込まれて。そんな不躾な男だったのに、どうしてか共にいると心地良いと思ってしまった。気付けばその暖かい場所が当たり前になっていた。いつでも両手を差しのべて、俺をこうやって抱きしめてくれた。けれどそれも、もう終わらせなければならないのだ。


「千歳、頼むから、もう俺の中に入らんといて…」


そういえば、千歳の瞳が戸惑いに揺れた。
千歳と共に居ると、強張った心が安らぐような心地だった。完璧な白石でなくていいのだと言われているようで嬉しかった。けれど同時に、それは自分が自分でなくなるという事にも思えた。潮時なのだ。白石は背中に回る腕を外しながら、どこか冷静になった脳内でそうつぶやいた。
完璧じゃない白石蔵ノ介を受け止めてくれた目の前の男を愛しいと思った。だからこそ、離れなければいけないのだと気付いた。このままだと千歳の言葉に一生縋りついていくような気がして怖かった。未練はある。今ここで行かないでくれと彼の体に縋りつく位には、この胸には未だに千歳との思い出で溢れかえっているのだ。けれどそれがお互いの為にならないという事が理解できない程、子供でもなかった。


「必ず、迎えに行くばい」


嫌になる程真っ直ぐな両眼。硬い声色。未だに希望を持たせる千歳の言い方に、それ以上聞きたくないと目を背けた。己が頑張って固めた決意は、千歳のそんな安い言葉でもぐらついてしまうのだ。自分でも呆れるほど、毎日が千歳で溢れていた事を今更ながらに痛感した。


「もうええ、はよいけや」
「良えから、ちゃんと聞きなっせ」


震える唇を叱咤して吐き捨てるように告げれば、いつもより力強い千歳の声がそれを遮る。怒鳴り声でもなく先程の諌める声でもない、その静かな声は本当に千歳の声なのだろうかと疑う程に、その声は真剣な色を含んでいた。驚きに目を見開けばそれを宥めるかのように、千歳のしっかりとした手が俺の両肩を掴む。


「高校卒業したら白石ば迎えに行くけん。その、・・・待っとってほしか」


真摯な言葉は、けれど白石の心に届く事はなかった。忘れていた訳じゃない。覚悟を決めた白石が千歳と同じく頑固である事を。今の白石の心には、どんな真実もただの薄っぺらいものにしか思えない。それも、千歳は知っていた。


「そんなん、信じろって…?」


見てるこちらが痛くなるような顔で、白石は言葉を紡ぐ。どうしたら信じてくれるのだろう。どうしたら彼の心に己の言葉が届くのだろう。同じように苦しい想いを抱えながら、千歳はじっと白石の言葉を待った。


「良え思い出にしたいからか分からんけど、そういう言葉とかいらんねん。さっさと別れて、お互い違う道選んだ方が、楽や」


そして今度こそキチンと女性と付き合って、行く行くは幸せな家庭を築いて、あぁあんな青い時代もあったな、そう言って笑い会える日がくればそれでいい。迎えに行くという一言だけで、千歳の光に溢れた未来を己で縛ってしまうのは嫌だ。それは白石にとって何にも代え難い不幸だった。いくら言葉を並べ立てても、結局己より千歳なのだ。千歳が近くにいても遠くにいても幸せであれば良いと、そう思えるくらいに。


「得意やね」
「え、」
「強がり」


ぐい、と掴まれていた肩を引き寄せられると、白石の体はあっという間に慣れ親しんだ千歳の胸に収まる。強がりだと、そのたった一言が合図だったように、自分の中でぴんっと張っていた糸が切れ、ぶわっと膨れ上がるように涙が出てきた。
離れたくない。傍にいたい。どんな時だって一番近くで千歳を見つめていたい。鼻を掠める千歳の匂い。暖かい腕。そのどれもが白石の涙腺を更に緩めていく。この腕が他の誰かを抱くのは嫌だ。その優しい色をした瞳も、甘やかすような声も、ぜんぶ、他の誰かじゃなく己だけに向けてほしい。抑え込んでいた想いは、涙と同じ速度でぼろぼろと胸の内からこぼれ出てくる。


「一緒に幸せになればよかばい。そんな難しい事ばっか考えとるけん、頭でっかちになるとよ」


少し笑いを含んだ柔らかな声が、こんなに心地いいと思ったことはない。
非生産的な関係に幸せは訪れないし、社会も応援してはくれない。後ろ指を指されながら生きていく事になるのは、辛い。嫌だ。けれどそれ以上にこのぬくもりを離したくなかった。こんな、本音もさらけ出せないような相手でいいのだろうか。いつだってお前に嫌われるのが怖くて、それでも恥ずかしくてつっけんどんな態度をとる自分でも、いいのだろうか。だらん、とさがったままだった両腕を千歳の背中に回せば、ぎゅう、と抱きしめる腕に力をこめられた。


「白石んこつ、泣かせてばっかばいね」


少し跳ねた鷲色の髪に鼻を埋めながら、千歳は息を吐き出すようにそう言った。それからぽつぽつと話し出したのは、白石が知る事のなかった千歳の想いだった。
白石が自分との恋愛に苦しんでいることを知って、別れようと思っていた事。けれどいざ目の前にしてしまえば口が固まって切り出せなかった事。辛い状況になるがこのまま白石とずっと関係を続けようと決めた事。そして最後に、全部自分の身勝手だと千歳は言った。白石を振り回してばかりで申し訳ない、と。だけど離してやれそうにない、と千歳はらしくもなく震えた声でそう言ったのだ。


「白石、一緒に幸せになってくれんね」


一生のお願いだ、と少し場違いな言葉を最後につけて、千歳は俺の肩に額を押し付けた。千歳が、俺と一緒にいたいと言ってくれている。それだけで白石はもう十分だった。ぐだぐだと悩み続けていた事がバカらしかった。もっと早くにこうすべきだったのだと、千歳のぴょんぴょん跳ねた髪に頬を押し当て、その耳に返事と共に愛の言葉を吹き込む。待ってる、そう告げれば千歳は今にも消え入りそうな声でありがとうと言った。





約束は、プロポーズへ
(早く迎えにこんと浮気したるからな)


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