部活終了直後の部室は賑やかだ。帰りの挨拶や寄り道の話あいが頭上を飛び交い、時折大きな笑い声があちらこちらで響く。ユウジと小春が漫才でも始めたのだろうか、一層騒がしくなる部室に白石はやれやれと肩を落とした。
放っておけばいつまでも続く喧騒に頃合いを見計らって下校を促せば、間延びした返事がそこかしこからあがる。折り重なる別れの挨拶を微笑みで返し、じゃあな、と出ていく最後の一人を見送れば先ほどまでの賑やかな部室から一転、静まり返った室内には自分だけが残された。ふう、と押し出されるようにため息を付いて白石は机の上に開かれたままの部誌に目を落とす。

(…どこやったっけな…、…あ、ここか)

パイプ椅子を引き寄せ腰を下ろすと、白石は見直しの最中に見つけた不備をボールペンで一つ一つ埋めていく。修正個所を見つければ慎重に修正テープを貼り、言葉足らずな場所には相応の単語を足して埋めていけば完成はすぐだ。淡々とした作業は特に苦ではなかったが、完璧に仕上げられなかった事だけが酷く心残りだった。それこそ集中していない証拠だ。
とん、と最後に句読点を打って部誌を書き上げた白石は、その眼を再び自分が書いた文章へ落とし静かに読む。もう修正個所はないか、説明不足はないか、読み進めながら脳内で静かにチェックしていく。それから暫くたった後、忙しなく動かしていた瞳はぴたりと止まり、静かに部誌が閉じられた。

(…よし、完璧や)

胸中でそう呟き、白石はこれでお役御免だとばかりに一つ伸びをした。近くにかけてあった時計を見ればもう下校時刻が迫ってきている。長居する理由はないと先ほどまでかけていたパイプ椅子から腰を浮かせた時。背後のドアががちゃりと音を立てて開いた。誰か忘れ物でも取りに来たのだろうか。身をよじってその先を見れば、そこには見上げるほどの高身長が居た。


「…千歳?どないしたんや、忘れ物か?」


ひょっこりとドアから半身を覗かせる千歳に珍しいと思いつつ声をかける。部活が終わればいつもふらっと一人で先に帰ってしまう彼とこんな時間に顔を合わせるのは少し妙な気分だった。皆が帰った後ざっと部室を見まわした時には忘れ物らしきものは見かけなかったんやけどな、と内心首を傾げていると、声をかけてから少しの間んー、と言葉を濁していた千歳がようやく言葉を発した。


「白石ば待っちょったばい」
「…俺を?」


千歳は一つ頷いてみせると俺の向かいのパイプ椅子にどかっと座り、真面目な顔でこちらをじっと見つめてくる。どうやら今の言葉に嘘はなかったようだ。

(…一体どういう風の吹き回しや…)

白石はいきなり現れた恋人の意思を推し量れずに、ただ困惑していた。どうもこのまま長居しそうな雰囲気に浮かせていた腰を再び落とせば、ぎしりと安物のパイプ椅子が軋んで音を立てる。


「もう部誌は書き終わったとね?」
「…あ、うん」
「どれどれ…うわー、相変わらず小さか字ばい…」


目を細めながら大げさに言う千歳を見ていると、思い出すのは彼と付き合い始めて二週間くらい経った頃の事だ。
一向に友達付き合いから脱しない関係に焦れた白石が一度だけ、一緒に帰ろうと言ったことがあった。皆に秘密の関係なのは重々承知していたが、形式上は恋人同士だ。手こそ繋げなくとも一緒に下校するくらいは良いだろうと了承を得る気満々だった自分に、千歳は暫くの沈黙の後絞り出すように了解の意を返した。一緒に下校する約束をとりつけた事実は喜ばしい物であったが、千歳の態度に一時の喜びはすぐになりをひそめる。

もしかして無理強いさせてしまったのだろうか。というか、一緒に帰りたくない理由はなんだ。自分に治せることであればまだ良いが、もしそういう次元じゃないとしたらどうしようもない。

様々な憶測が脳内をしめる中、元来ネガティブな思考だった白石は、何を思ったのか最終的に付き合っていると思い込んでいるのは自分だけなのだろうかという結論を弾き出した。それ以来、一緒に帰ろうだなんてとてもじゃないが誘えなくなってしまった白石に、千歳から実は恥ずかしすぎて一緒に帰れなかったのだと聞かされるのがそれから一ヶ月後。ここまではいい。問題なのはそれから現在に至るまで、未だに二人きりで帰ったことがないという事だ。


「白石の字は小さかばってん、ほなこつ綺麗ったい」


感心するように呟かれる言葉にはっと意識を戻す。未だ食い入るように部誌を見ている千歳は、今は練習メニューの辺りを読んでいるようだ。


「千歳の字はでかいし癖字やし、読解が大変やって皆言うてたで」
「失礼な、立派な個性ばい」


不満げにそう呟いて、千歳は満足したのかぱたりと部誌を閉じ、どこか居心地悪そうに笑った。このばつが悪そうに口端をあげる笑い方が、白石は好きだった。普段本心を悟られないように笑顔を張り付かせているこの顔が少しだけ崩れると、胸に優越感と庇護欲が生まれる。野性的でいて、尚且つ放っておけない雰囲気を持ち合わせる千歳に惹かれぬ道理はない。


「?どげんしたと?」


反応のない白石に焦れたのか、千歳は軽く手を振って様子を窺う。それに慌てて笑顔を返し、なんでもないと取り繕えばそれ以上の追及はなかった。

(…っちゅーか、話あんのお前の方ちゃうんかい…)

話を切り出す雰囲気を見せない千歳に今度は白石が焦れる番であった。お互い口をついて出る話題と言ったらテニスか共通の友達くらいなもので、色気も何もない、ある意味健全なものばかりだ。普段沈黙があっても特に何とも思っていなかったのが仇となったのか、こういう雰囲気の際に何をするのが正解なのか白石には分からなかった。時計を確認すれば幸か不幸かあと少しで下校時刻のチャイムがなる。もしそれまで沈黙が続いたら時間を理由にこの場所から脱しよう。そう心に決めてちらりと千歳の様子を窺えば待ってましたとばかりに熱い視線とぶつかる。途端、今まで以上に何かしゃべらなければならないという使命感に襲われ、口がはくはくと開く。体は喋ろうとしているのに肝心な言葉が喉につっかえて一切でてこない。未知の体験に困惑しつつ、その間にも注がれる焼けるような視線に体温だけがどんどんあがっていく。

(…逸らせや!)

内心で理不尽な事を叫びつつ、ついに根負けした白石がすっと目線を伏せ無言の対決に幕を引く。なんだ、これは。指先一つ一つにまで循環した血液が沸き立つような感覚は、初めて千歳とキスした時と似ている。あの時もこんな感じでどこもかしこも熱くなっていた。

(お前は何のために口がついてんねん…)

詰まる息を浅く吐き出しながらなんともいえない雰囲気に耐えていると、机に投げ出したままの腕にそっと別の体温が触れた。感じる他人の熱にびくりと肩を揺らすと宥めるようにぎゅっと手を握られ、ゆるゆると親指で掌を優しく撫でられる。出っ張った骨や筋を慈しむようになぞられ、ぞわわ、と悪寒に似た何かが背筋を駆け上る。どう反応したらいいか分からず、かと言ってやめろと言うのも違う気がして、白石はただじっと撫でられている手を見つめた。


「白石の手は、綺麗ったい」


ぽつりとそう言って、千歳は肉刺だらけの手を1つ1つ確認するように撫でる。まるで母を思わせるようなその優しい手つきは、本来ならば安堵するはずのものであったが、今回は逆でどうにも落ち着かなかった。いつも自分より暖かい手をしている千歳が、今日はなぜだかひんやりと冷たい。いや、違う、俺の体温がいつもよりあがっているのか。握られた手からどんどんと奪われる熱に、けれども体温は一向に下がる気配を見せない。じわりじわり、熱も己の心の領域も、共にこの男に奪われていく感覚にくらりと眩暈がした。


「ち、千歳」


みっともなく裏返った声に、千歳は目線をあげて応える。相変わらず手は握られたままだ。


「なんか、話、あるんちゃうの…」


息を吐くように一言一言区切って話せば、その通りだとでもいうように一度千歳は目線を落とし、それからまたあげてこちらを見た。


「白石、今日は…一緒に帰るったい」


実はそう、誘いに来たのだ、とどこか照れたような口調で千歳は告げた。その声は甘く、魔法のように俺の心をふわりと包む。なぜか分からないけれど、ともすれば泣いてしまいそうな感情に突き動かされながら、俺はこくりと一つ頷いて了承した。
まだ気恥ずかしさの残る千歳と目が合うと、千歳は誤魔化すように笑ってもう一度俺の手を優しく握る。


「遅くなって、すまん」
「…遅すぎや、どんだけ待たすつもりやってん」


減らず口を叩けば何が楽しいのか千歳は音を立てて笑う。それにムキになって反抗しようとすれば図ったかのように下校時刻のチャイムが鳴り響いた。


「…覚えとけや」


がたがたと身支度を済ませラケットバックを担いだ白石が苦々しく告げれば、千歳は了解したとばかりにすれ違いざま掠めるように唇を触れ合わせる。それにまた調子に乗るなと噛みつけば、はいはいと受け流されそっと隣に立って微笑まれる。肩と肩が触れ合う位置が、今の俺たちの精一杯の距離感だ。手を繋げたらどんなにいいだろうか。そう思う事もあるけれど、なんせ俺たちは今日ようやく一緒に下校を果たす恋愛初心者だ。キスまで済ませておいて何を今更と言われてしまえばそれまでだが、まぁこれはこれでゆっくりやっていこうじゃないか。そんな意味を含ませて千歳の顔を見れば、視線に気づいた千歳がきょとん、とした顔でこちらを見つめる。それに笑いを返して白石は一歩足を踏み出した。



俺たちは今日、一歩を踏み出す



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