僕は猫。名前も「猫」。最近餌をくれる人がつけてくれた名前なんだけど、正直もっと良い名前はなかったのかなあと思う。だけど、あの人が嬉しそうに何度も猫、猫と呼ぶものだから、僕もまぁいいかとその名前を受け入れることにした。
そんな僕の名付け親はいつも僕を見つけるとちょいちょい、と手招きをする。その手には決まってさきイカがあるから、僕も大人しく彼のもとまで歩み寄るのだ。足元まで行ってその大きな体を見上げれば、体格に見合った大きな手が僕の頭を優しく撫でる。今でこそ慣れた行為にごろごろと喉を鳴らしているけれど、最初の頃はただただ恐ろしかった。だって、いきなり近づいてきたと思ったら乱暴に頭を撫でてくるんだもの。びっくりして逃げても彼は追いかけてくるし、とにかく立ち止まったらダメだと思ってひたすら走った。流れる景色の中、目についた建物と建物の隙間に急いで逃げ込む。助かった、乱れた呼吸を整えていると、僕の目の前を彼が横切っていく。どうやら僕を見失ったようだ。ざまあみろ、と逃げ切った安心感に浮かされながら僕は彼の後ろ姿を盗み見た。けれど。

(…あれ、)

その後ろ姿は僕が思い描いていたものとは違っていた。躍起になって恐ろしい表情で探しているものだと思っていた彼は、肩を落とし残念そうにとぼとぼと歩いていたのだ。その姿に心がぐらり、ぐらりと揺れ動く。野良の世界は厳しい。一歩選択を間違えれば待っているのは死だ。だけどなぜだかこの時、変な不安はなかったんだ。

(――悪い人じゃ、ないのかな…)

気付けば僕は折角逃げ込んだ建物の隙間から一歩足を踏み出していた。


それが僕と彼との始まり。それからは彼を見かける度にゃお、と挨拶をして、餌をもらって、少しだけ遊んでもらうのが日課になっていった。



柔らかな夕日の光が辺りを包む中、僕は今日も彼のアパートへやってきた。けれどいつもいるはずの彼の姿が今日はなかった。どうしたのだろうと思いながら、僕はアパートの階段の下で丸くなって彼を待った。伸びる自分の影をぼんやりと見つめながら、今か今かと彼の帰りを待っていた。そしてどのくらい後だろうか、遠くの方から小さく声が聞こえてきた。


「…から、……やんな」


切れ切れにしか聞こえないけれど、とても綺麗な声だ。思わずピンと立ってしまった耳が、その発信源を探るようにきょろきょろとせわしなく動く。言葉の合間にほんの少しだけ笑い声が聞こえた。凛とした声質で、聞いていてとても心地が良い。僕は相変わらず耳だけに意識を集中しながらそっと目を瞑った。ゆらり、ゆらり。声に合わせるようにしっぽがゆれる。あの人はまだだろうか、今日は何をして遊んでもらおうか。そんなことを考えていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。


「はは、謙也らしいばい」


(あの人だ、)

瞑っていた目を開いてもう一度確かめるようにぴこぴこと耳をそばだて、確信を得てからさっと身を起こした。声もすぐそこから聞こえてくる。いつものように走り寄ろうと思って前足を踏み出したけれど、そういえば今日は彼一人ではない事を思い出してまた元の場所に戻った。それから様子を窺うようにそっと身をかがめて、声が聞こえてくる方向をじっと探るように見つめた。





(わぁ…)

最初に目に入ったのはさらりと流れる綺麗な鷲色。柔らかな夕日の光が髪に当たって、まるでその人の髪自体がキラキラ光っているみたいだ。

(綺麗だなあ…)

僕が今までに見た中で、きっと一番綺麗な光景だった。鷲色の彼が笑う度にあの人も頷きながら優しく笑う。そこを風が気まぐれに走り抜けるたと思ったら、綺麗な髪の毛がふわりふわりと揺れて彼の顔を隠してしまう。それが何度も続き、手で押さえつけても意味がないと悟った彼は、諦めたのか押さえていた手を外し横の髪を耳にかけた。それをあの人が見つめる。顔は逆光で見えなかったけれど、多分微笑んでいたと思う。
二人を縁取るオレンジ色に、目を細める。そして僕はもう一度心の内で綺麗だなあと呟いた。


「じゃあな千歳、明日もちゃんと来るんやで」
「解っとおよ。白石も気を付けて帰りなっせ」


勇気を振り絞って前足を一歩踏み出した時にはどうやらお別れの時間だったようだ。白石と呼ばれた人は片手をあげてからくるりと背を向けて帰っていってしまった。あぁ、折角一緒に遊んでもらおうと思ったのに。期待に揺れていた尻尾は元気をなくしてぺたりと地面に落ちた。けれどまだあの人がいる。未だに白石さんの後ろ姿を見つめている彼へ近付き僕はにゃあ、と鳴く。こっちを向いて、早く遊ぼうよ。


「…白石、」


けれどあの人は一度もこちらを振り返らずに、小走りで白石さんの所までいってしまった。どうしたのだろうか。少し寂しくなって小さい声でもう一度にゃあ、と鳴いてもあの人は気付いてくれなかった。みるみる内に小さくなっていく彼の背中に、僕は今日彼が遊んでくれないだろうことを知る。少し寂しいけれど、でもきっとまた明日遊んでくれるはずだ。そんな妙な自信を胸に、僕は二人に背を向けて自分の家へと歩き出した。

(それにしてもあの二人、顔近付けて何してたんだろう)

夕日もすっかり落ち、電灯がチカチカと点滅する中、僕は最後に見た彼らの姿に首をかしげていた。話しをするにはあまりにも近すぎる距離感に一体何をしていたか気になるところだけれど、考え出したところで正解を持ち合わせていない僕にはどうしようもない。だから僕は明日何をして遊ぶかについて考えることにした。

(この前遊んだねこじゃらしってやつ、面白かったなあ)

脳内で独特のフォルムを思い出しながら、期待に揺れるしっぽがゆらりと宵闇に舞った。



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