***
「ふー……」
部屋の前に立ち、一呼吸。きゅ、と小さく拳を握ると、カードキーを通してガチャリと扉を開けた。
「あー、ごほんっ」
中に入った先、リビングのソファには見慣れた頭がいて。わざとらしい咳払いにくるりと振り向いた久谷は、桐生を見とめてどこかほっとしたような顔をした。
「おかえり」
「……ただいま」
そんなあからさまにほっとしたような顔をされては、こちらもなにも言えなくなるというもの。ガシガシと後ろ頭を掻きながら答えればさらに嬉しそうに愛おしそうに目を細められて、罪悪感にぐっと喉が詰まった。
「……テレビも点けずになにしてんの」
「ああいや、ただちょっと、考えてて」
「ん?」
「うん。お前のこと」
正面へと回り込む。久谷の目の前のコーヒーからはもうとうに湯気は消え去っているというのに、口を付けた形跡はなかった。それに気づいた桐生は、僅かに眉を寄せながら隣へと沈み込む。するとすぐに久谷の腕が肩へと伸びてきて、優しく上半身を引き寄せられた。
「侑紀」
自分の名前を呼ぶ声が、酷く甘い。
その甘さに思わずむずりと身じろぐ体。上からそっと口づけられた頭を、引き寄せられるのに逆らわずに久谷の肩にそっと預けた。
「悪い。不安にさせたな」
「……別に、不安だったわけじゃ、」
「でも、あんなこと言わせちまった」
伝わってくる体温と鼓動。温かかくて、穏やかで。桐生は自然と目を閉じる。
別に、不安になっていたわけではない。不安だったから、あんなことを言ったわけではないのだ、本当に。
「……悪い、あんなこと言って。不安だったわけじゃないんだ別に。お前に愛されてるのは知ってるつもりだし」
「じゃあなんで」
「それ、は……」
ゆるゆると頭を撫でてくれる手。しかしその手の動きは、どこか不安そうでもあって。
こんなにも気に掛けてくれて、知ろうとしてくれている。理解しようとしてくれている。
大切にされている。愛されている。それは、痛いほどに伝わってくる。それ以上なにを求めよう。それでいいじゃないか。それで、幸せなのだから。
(でも――……)
言わなきゃ伝わらない。わかってはもらえない。
伝わらなきゃ、わかってもらえなきゃ、相手を不安にさせ傷つけてしまうから。
ずるずるとソファに足を上げる。行儀が悪いのは重々承知で、両足を抱えてそこに顔を埋めた。
「……もどかしい、んだ」
ぽつり、呟いた言葉。
体育座りに埋めた頭にそっと触れようとしてきた手が、ピタッとぎこちなく動きを止めたのが気配でわかる。僅かに顔をずらしてそちらをそろりと窺い見れば、不自然な状態で停止してしまっている久谷と目が合った。
「愛されてるし、愛してるし、それだけでいいだろって、俺だって思ってる。お前と一緒にいられてこれだけ幸せで、これ以上、なにを、って」
「ゆう、き」
「だけど俺、もっと幸せになれるって、知ってるから……だから、もどかしくてたまらない。もっともっと幸せになりたいって、思っちまう」
今度こそはっきりと顔を横にして、目を見開く恋人を見上げる。そうして宙で固まってしまっている手に自分の指を絡ませ、ゆっくりと唇を開いた。
「――なあ、なんで抱いてくんねえの、弘毅」
零れ落ちた本音。
瞬間、あっという間に引き寄せられる。抱き締められたと言うよりも、どちらかというと胸にガツッと押し付けられたような勢いで。体は覆い被さるような形で久谷の上に乗り上げる。強かに打ち付けられた胸は固いけれど温かく、さっきの倍以上の鼓動を奏でていた。
「まて、まて侑紀、お前なに言ってるかわかって、」
「だってどんなに誘っても煽っても、うんともすんとも乗ってこない。俺が嫌なのかと思えばトイレとか風呂場で俺の名前呟きながら抜いてやがる」
「は!? ちょ、まてなんで知って……!」
「愛されてないとか不安になることはねえけど、不満には思うだろ、そんなん……」
慌てる久谷を余所に、口から出るのはどうしても拗ねたような言葉で。もう我慢なんてできず、固い胸に不満訴えるようにぐりぐりと頭を押しつける。
欲求不満なわけではない。性欲を満たしたいといっているわけではない。
ただ、触れたくて、触れてほしい、だけで。愛しくて堪らない恋人と一緒にいて、もっと触れてほしい、もっと近づきたいと思うのは不可抗力だろう。
だって桐生は知ってしまったから。
久谷と初めて心も体も繋がることができたあの瞬間、生まれてきてよかったと震えた心を。夢物語ではなく、心の底からそう思える瞬間があるのだということを。
一つになりたい。もっと深く交わりたい。
その一心だった。誘って、煽って、それはもう襲い掛けるほど。しかし、全身全霊を掛けたところで、それでもダメで。
『今さら怖気づくんなら、最初から手なんて出すんじゃねえよ……!』
だからあれは、最後の手段だったのだ。
なにをしてもダメならば、いっそ失望してみせれば、幻滅してみければ焦らせることができるのではないかと。もしくは怒りで勢いに任せて抱いてはくれないかと。そう、自棄のように発した言葉。
「なんでだよ……なんで手ぇ出してこねえの、お前」
けれどそんな試すようなことをした桐生に対して、久谷は途方に暮れたように口を噤んだ。だから、つい飛び出してしまったのだ。
ぎゅ、と久谷のシャツを握り締めながら呟けば、さらにキツく抱き締められる。
「……い、いいのか?」
「え?」
「本当に抱いて、いいのか?」
そうしてこちらを抱き竦めながら、恐る恐る紡がれた言葉。不安そうな声音。
それを耳にした瞬間、桐生はその胸板に手を突いてガバリと上半身を起こしていた。
「……は?」
「え?」
「はああ?」
「おい?」
ソファに沈んでいる久谷を見下ろす。まじまじと見つめるも、その瞳は誤魔化しなど映してはいなくて。信じられない、という思いで僅かに首を振った。
「お前、それ本気で言ってる? あんだけ誘ってて、俺がお前に抱かれたくないって思ってるって、本気で?」
「だ、だって!」
「だってもくそもあるかよ! どんだけ俺がお前に触れたかったと思ってる!」
「――っ、俺、だって……!」
ギリ、と噛み締められる唇。激昂する桐生を見上げながら、久谷はなにかを堪えるように顔を顰めた。
「俺だって、俺だってお前に触れたかったさ! だけどお前はあんな辛い思いをしてるんだ! そんな簡単に触れられるはずねえだろ……!」
「っなん、」
「お前のことが、自分でも怖いくらい大切なんだよ! 辛い思いをさせた分、大切に、これでもかってほど大切にしたい! これ以上、お前を傷つけたくないんだ……!」
悔しそうに、白くなるまで握り込まれる拳。泣きそうな、しかしどこまでも愛おしそうな瞳が桐生を見上げる。
「きっと、今抱いたら自制が利かなくなる。あの時だって、あんな目にあった直後だったってのに俺、酷い抱き方して……」
「酷い?」
「絶対に傷つけたくない。大切にするって、誓ったんだ……こんなに好きになったのは、初めてなんだよ」
「……」
「だから――大切にさせてくれ」
告げられた言葉に、僅かに目を瞠る。そうして呆気にとられること数秒、桐生は小さく震える息を吐き出した。
「……っけんじゃ、ねえよ」
「え?」
「勝手に、自己完結しやがって……」
「ゆう、」
名前を呼ばれる前に、右手が胸倉へ伸びていた。そのまま乱暴に掴み上げ、額がぶつかる勢いで口を開く。
「ふざっけんじゃねえ! 傷つける? 正気かよ!」
「は? ちょ、侑紀、」
「お前の優しさが、大切にするってのがそんな下らねえ手段しかねえんなら、」
「っ」
「――俺は大切になんか、されたくない」
零れ落ちた言葉。
言い切った瞬間、ガツッとぶつかる勢いで唇を合わせた。反応が遅れた口内に舌を突っ込み、上顎を擦り上げるように蹂躙する。
「はっ、ん、んんっ」
「んんっ、ゆう、」
「んぅ、はっ」
突然のキスにビクッと跳ねた体は最初こそ戸惑っていたものの、すぐに答えるように動き出す。引き寄せるようにぐしゃりと頭を掻き交ぜられて、ああこれだ、と桐生の口元がゆるりと弧を描いた。
「ふ、はあ……っ」
「っゆ、うき」
「はっ、少しはヤる気になったかよ、王子様?」
散々貪りあった唇を放し、上気した恋人を見下ろす。なにが傷つけたくない大切にしたい、だ。抱きたくて堪らないくせに紳士ぶっているのを揶揄してやりながら、桐生は笑みを浮かべてみせた。
すると熱い息を吐く久谷の指が、するりと顎のラインをなぞって。今度こそ隠しきれない欲情を灯した瞳が、桐生を見上げながらゆるりと緩んだ。
「大切に大切にしようと思ってたんだけどな……どうやらお姫様は、そんなこと望んじゃないらしい」
「ああ、」
「ったく、どうなるかわかんねえよ? 正直俺は、自制できる自信がこれっぽっちもない」
苦く笑う久谷は、もうすっかり欲情しているくせに、まだ自分を抑えようとしているらしい。困ったように、しかしどこかもどかしそうに輪郭を撫でる手に、桐生は頬を摺り寄せて目を閉じた。
「しつけえよ……俺は抱き潰されるほど柔じゃない。それにお前と触れ合えるなら、なんだっていい」
「なんだっていいんなら、ゆっくり進んでいったっていいんじゃ、」
「俺は、お前を感じられることこそが幸せなんだ」
言いながら、もう一度だけ唇を触れ合わせてすぐに離れる。そうして綺麗に笑ってみせた。
言わなきゃ伝わらない。わかってはもらえない。気持ちだって読み違える。さっぱりわからないことだってあるし、深く読みすぎることだってある。
お互いのことがすべてわかるなんて、程遠い話だった。むしろ驚くほどにわからなかった。お互いが、どうしようもなく手探りで。
だけどそれはきっと、決して悪いことではない。
相手がどうしようもなく愛おしくて、大切だから。だからこそ言えなくて、ケンカする。愛しいからこそ読み違い、すれ違う。
――わからないということは、きっと酷く愛おしいものなのだ。
「お前と触れ合って、お前と抱き合って、俺は死ぬほど幸せなんだって感じたい」
「ゆう、」
「だから大切にしたいって言うんなら――もっと触れてくれよ、弘毅」
紡いだ言葉に、今度は久谷から与えられる口づけ。
額を付け合ってキスを繰り返し、そうして久谷は愛しくて仕方ないという顔で口を開く。
「仰せのままに、お姫様」
揺らぎない愛などきっとない。永久に、常に幸せで在り続けることだってきっとない。それは、やっぱり夢物語で。
現実になると、どうしたってケンカもすれ違いもする。けれど、それでまた一つ絆は強くなる。愛おしさが増していく。
物語の主人公たちも、きっとこうして乗り越えるたびに絆を愛を深めていったのだ。そう思うと、もしかしたら自分たちも、「そうして二人は、幸せに暮らしましたとさ」と言えるのかもしれない、なんて。
桐生はそんなことをぼんやりと頭の片隅に浮かべながら、恋人の温もりにどうしようもない幸せを感じたのだった。
*end*
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