すき、きらい、すき、 | ナノ





「桐生様、私は、貴方に幸せになっていただきたいのです」
「それなら…っ」
「なにかを諦めたり、遠慮した末の幸せではなくて…貴方にとって最善の、最後まで諦めなかった末の幸せを」



その末が私だと仰るのなら、その時は喜んでその手をとりますが。
そう言って笑う仁科は、少しだけ後ずさって俺から距離をとる。仁科の向こうに見えたのは、外へと続く扉で。

あそこを抜けて、久谷の元へ行けとでも言うのか。ぶつかる前に諦めるんじゃなくて、まずはぶつかってみろと。
そしてダメだったら戻ってこいと。そうした結果お前を選ぶのなら、それを受けてくれる、と。
お前は、そう言いたいのか?



(そんなの、できるわけがない)



これまで散々甘えてきた。こいつの俺への気持ちにつけこんで、散々いいように使ってきたんだ。仁科がどんな気持ちで俺を抱いてるかなんて見ないふりして、ずっとずっと、傷つかないように守ってもらってきたから。俺ばかり優先して、自分を殺してもらってきたんだから。
だからもう、そんなわけにはいかない。これ以上、お前に苦しい思いをしてほしくないんだ。



「無理に、決まってんだろ…」
「…なぜですか?」
「俺がどれだけお前に救われたか…それを無下になんて、できるわけねぇだろ!今度は俺が、お前に想いを返したいんだよ…!」



本当に、どれだけ仁科から貰ったかわからない。それを、今度は俺が返していきたい。簡単に返せるとは思わないけれど、このあたたかい想いを、幸せを、少しずつでも返していきたいから。

空いた距離を埋めるように、一歩踏み出し近づいて抱き締める。瞬間動揺して僅かに固くなった仁科の体は、しかしすぐに力が抜けて、ゆるりと腕が背中に回ってきた。



「まったく…馬鹿ですね、桐生様は」
「なっ」
「私を聖人君子のようにお思いなようですが、お忘れではないでしょう?貴方と久谷委員長を引き離した張本人は、他でもない私ですよ」
「でもそれは、」
「私は貴方を手にいれるためにどんな手段だって厭わなかった。弱味を握り、ぐらつく気持ちにつけこみ、とことん甘やかした。そっちの方が貴方を堕とすのに有効な手段だと判断してたら、監禁だってなんだってしたでしょう…そんな人間ですよ」



少しだけ体を離した仁科が、そう言って綺麗に笑う。
そうかもしれない。そうかもしれないけれど、それでも俺が、仁科の行動に救われていたのも確かだったから。
わからない。どうしてお前がそんなに否定したがるのか。理解ができないと、そう視線で訴える。



「でもそれで、お前の狙い通り俺は堕ちただろ…なんで、どうしてそれじゃダメなんだよ…」



抱き締めている腕にぎゅっと力を込める。
必死の想いを込めて至近距離で見詰めると、仁科は困ったように笑った。



「そうですね、自分でも驚いてます…。だけど私は、自分の気持ちよりも貴方の幸せを優先したいと思うくらいには、貴方が大切なんだと、ようやく気づいたんです」
「だったら!」
「貴方が一番欲しいものを諦めるなんて、あってはならないから。私の隣を選んでいただいても、貴方がなにかを諦めて犠牲にしているのなら私は純粋に喜べない」



そう言って、もうなにもかもを悟ったような、吹っ切れたような顔をする仁科。嫌だ、やめてくれ。そんな、そんな顔をされたら、俺は。
背中に回した拳を握り、俺は俯くしかなくて。俯いてしまった俺の頭に、ちゅっとキスが落とされた。



「行くんです、桐生様。久谷委員長のセフレになった頃の、自分のためなら他を蹴落とすくらい貪欲な貴方はどこにいったんです?」
「…っ」
「貴方が今、本当に欲しいのは―――愛しているのは、誰ですか」



穏やかに問いかけるあたたかな声。
ゆるゆると顔を上げると、慈しむような瞳とかち合って。



(俺が今、本当に欲しいのは―――…)



頭を過るのは、ただ一人で。
大きて力強い手。俺を包み込むあたたかい腕。意地が悪そうに笑う横顔。酷く楽しそうに駆引きを紡ぐ唇。そして、俺を救ってくれた言葉。
思い描くすべてに、きゅう、と胸が痛くなった。



「……っ、ごめん、ごめん仁科…仁科、俺は…!」
「桐生様…」
「―――俺は、久谷を諦めたくない…っ」



ぎゅっと握り締めた拳。
もう、この華奢な体に寄りかかることは、縋りつくことは、許されない。

背中へと回していた腕を解いて、ゆっくりと体を離す。向かい合った仁科は、満足そうに笑っていて。



「それでいいんです、桐生様。私は十分、貴方に幸せな時間をもらいました。だから今度は貴方が幸せになる番です」
「仁科…」
「もちろんダメだった時のために、私の隣は空けておきますけどね」
「…っ」



おどけて笑う仁科は、体を横にずらす。道を開けて、さあどうぞ、と促すように腕を広げた。

本当に、感謝してもしきれない。できることならば俺は、ずっとお前の傍にいたかった。お前が笑う姿を、一番近くで見ていたかった。
他でもない俺の手で、お前を幸せにしてやりたかった。
本気でお前を、愛したかったんだ。
でも―――…



「ありがとう仁科…っ」
「ええ…幸せに、なってください」



駆け出した足も、想いも、向かう先は一つしかなくて。
もう、後戻りはできない。






*end*




back