すき、きらい、すき、 | ナノ





こうして一番の心配の種がなんとか落ち着いたことにほっとした俺は油断していたのかもしれない。まさか、最近近くで見掛けることさえなかったあいつが、俺の生息地付近に近寄るだなんて思ってなくて。だからなにも考えずに扉を開けて―――目に飛び込んできた人物に、俺はぽかんと口を開いた。



「―――っ」
「き、りゅう…?」



無意識に口から零れる名前。
最近は無表情のポーカーフェイスしか、しかも遠目でしか見れてなかったというのに、こんなに近くに僅かに動揺を表に出している桐生がいるなんて、まさか会いたすぎてついに幻覚まで見えてしまっているのか。そんなアホな考えが、一瞬の間で頭を過り、さすがにそれはないと自分で否定する。
しかしなにも言おうとしない桐生は今にもそのまま立ち去ってしまいそうで、どうにかして引き留めようと口を開いた。



「…珍しいな、お前がこっちまで来るなんて。なにか風紀に用か?」
「や、俺はその、急ぎの書類を…」



―――書類。
そうか書類か。俺に会いに来たわけじゃない。そりゃそうだ、当たり前だ。
確かに今日、俺宛の急ぎの書類が生徒会から来るから戻ってこいだなんだ言われた気がする。てっきりまたいつものように副会長か補佐が持ってくるもんだと思っていたから、まったく興味はなかったのだが。それなのにまさか会長直々に持ってくるなんて、そんなの誰が想像した?
きっと僅かでも遅れていたら、その書類は部下経由で俺に回ってきたことだろう。タイミングの良すぎる自分を褒めつつ、差し出された封筒を受け取ろうとした時だった。



「久谷様ぁ、お忘れものですよ〜」



背中から掛かる甘えた声。
当然それは桐生にも聞こえていたようで、ぴくりと止まってしまった手に顔が強ばる。まずい。今は、このタイミングは非常にまずい。よろしくない。
しかし、大人しく中にいろという願いは簡単には聞き入れられない。静止をかけるより先に後ろから首に絡んできた腕は、先程邪魔はしないと言ったはずの奴のもので。



「ちょ、お前はちょっと中入ってろって!」
「え?なんでですかぁ?あっ、会長様…!」



俺の言葉に首を傾げたところで俺の前に立っている人物に気づき、すぐにぱっと腕が外される。さっと視線だけ送れば、ごめんなさいという表情が返ってきた。
すぐに桐生へと視線を戻すと、第三者の登場に微かに目を見張っていた端正な顔が、しかしすぐにいつものポーカーフェイスへと戻っていってしまって。それに気づき、俺は慌てて口を開いた。せっかくさっきまでは僅かでも感情が表に出ていたのに、これじゃ、またいつもの事務連絡と同じじゃねぇか。



「あ、えっと桐生、これは、」
「俺に説明なんざいらねぇよ。ほら、資料だ」



弁解しようとするも、もうすっかり元に戻ってしまった冷めた表情と共に冷めた言葉で返され、拒絶される。確かに俺は桐生に弁解も説明もする必要はないけれど、それでもしたいと、お前にはわかってほしいと思うのに。
ぐいと書類を押し付けられ、反射的に受け取ってしまう腕。これさえ受け取らなければもう少し話せるのではないかと気づいたときにはもう遅かった。



「じゃあな、邪魔して悪かった」
「桐生、だからこれは…!」
「うるせぇよ、俺には関係ねぇ」



資料を渡したらお役御免だとでも言うように、さっさと背中を向けてくる桐生。その背中に食い下がり一歩踏み出すも、振り向いた冷たい視線で射抜かれる。
そうして吐かれた拒絶の言葉は、的確に、俺の心臓を抉ってくれた。


上手く言葉が出てこない。その腕を掴もうとして上げかけた腕も、所在なく空を掴む。
そんなことをしている間にあっというまに消えてしまった黒髪。もたもたしている自分にチッと舌打ちをして追いかけるも、角を曲がったところでその姿はもう消えていた。
最悪だ、絶対勘違いされた。なにやってんだよ俺は。あ"ーもうと頭をがしがし掻きつつ、その場にしゃがみこむ。しばらくするとそっとその隣にやってきて、申し訳なさそうに縮こまる影を見上げた。



「…それで?なにが忘れ物だって?」



忘れ物もなにも、今日はあの教室に入ってからなにか身に付けていた物を取った覚えはない。見上げる俺に、さっきまで甘えた声を出していた男がヒラリと紙を差し出し、引き攣った笑みで答えてくれた。



「えーっと、電話番号とアドレスを?」
「は?」
「あー…いや、はい、セフレ用の方しかお伝えしてなかったなーと、思いまして」
「…そうかよ……」



ぴっとその紙を受け取って、えへっと色々誤魔化すように可愛く笑うのを見つめてから俺ははあーっと項垂れる。頭上でごめんなさいごめんなさいと平謝りする声を聞きながら、いやお前のせいじゃないと思いつつそれを言葉にする気力はなかった。
こいつのせいじゃない。わかってる。寧ろ引き留められなかったのは俺の力量とあいつの中の俺の存在の小ささのせいなのだけど。それにしても、あまりにもタイミングが悪すぎるだろう。いくらなんでもあの時じゃなくてよかったのに。



「あー……ちっくしょう」



こいつの言っていた通り、俺は確かに一回捨てられている。捨てられたという表現が正しいかはともかく。そしてそれを裏付けるような桐生の態度。冷たい視線。関係ないという言葉。
はっきりと他人から口にされた言葉と、本人からの拒絶の態度。
あれは、さすがに、正直凹む。



(―――や、凹んでる場合じゃねぇか)



あいつに会いに行く前に、ケジメをつけておかなければならない。
少しでもあいつとの関係の枷になるものをなくすために。自己満足かもしれないが、それでも俺が本気なんだと伝えるために。


桐生の後ろ姿が消えた方向を恨めしく見つめつつ体を起こす。セフレ用のスマホを取り出しながら、俺はゆっくりと立ち上がったのだった。






*end*




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