すき、きらい、すき、 | ナノ





『それじゃあ、私は顧問と話に行ってくるので、よろしくお願いします』



至急届けなければいけないものなのだと釘を刺され、有無を言わせず出ていってしまった副会長。いや、受け取ったのは確かに俺だが。しかしまさか、あいつに自分から会いに行くことなんてもうないと思っていたから、受け取ったものの俺は酷く戸惑っていた。
しかし届けなくてはならない。これでも生徒会長として、素行はともかく仕事は優秀な方だ。根も葉もない噂だけが一人歩きしていた時だけでなく、久谷とのセフレ関係にあったときも、それから親衛隊長と関係がある今だって、きちんと真面目に仕事はこなしている。久谷と関係があった時は、いつもより大幅に時間を掛けていたのも確かだけれど。
そんな根は真面目な俺が急ぎの書類を蔑ろになどできるわけもなく、仕方なく生徒会室を出て風紀委員室へと向かっていた。



(…あいつがいなけりゃ、いい話だ)



心配してくれた副会長には悪いけれど、会えばどうにかなるという話でもない。今さら会ったところで久谷にとって俺は、ただのセフレだと思っていたのに突然ふってきた男、だ。嫌な顔をされるならともかく、歓迎されるとは考えづらい。
だから、久谷がいない風紀委員室に行くのが一番楽な成行だった。残っている風紀委員に、長に渡しとけと言って預けるのが。俺にとってもあいつにとっても、双方がマイナスの気持ちになるのを防ぐ穏便な術だった。

ただ、もしもあいつがいた時は、どうすればいいのだろうか。
自分が果たして冷静に、普通の対応ができるのか、正直少し不安だった。今までだって、あいつと事務連絡をしたことは数回ある。しかし副会長に色々言われたせいか、もしくは色んなことをその前に考えていたせいか、心が浮わついている今、動揺なくそれを成し遂げられる自信はなかった。自信がなくとも、やらなければならないのだが。



(俺が会いにきたと知ったら、あいつはどんな顔をするかな)



多分、きっと、恐らく、あいつは嫌な顔をするだろう。鬱陶しいような、面倒くさそうな、不愉快そうな嫌な顔。いや、あるいは無表情かもしれない。俺が言った、前の関係に戻ろうというのを実行してくれていて、まるで俺には興味がないといった顔で書類の説明だけは聞いてくれるかもしれない。それがある意味、一番やりやすいんじゃないかとも思う。


だけど、もしかしたら。
もしかしたら、本当に微々たる可能性だけれど、あいつは俺が会いにきたことを、喜んでくれるかもしれない。歓迎してくれるかもしれない。どうしてやめるなんて言ったんだと、詰ってくれるかもしれない。
―――そんな、愚かな考えが頭を過り、思わず笑い出しそうになった。



(…そんなこと、あるわけないのにな)



懲りずに未練がましく、まだそんなことを考えられる自分の浅ましさと無神経さに驚き呆れる。本当に、自分の欲にはどこまでも従順らしい。






あともう一つ角を曲がれば、もう目的地はすぐそこというところまで迫ってしまった。一歩進む毎に、ずしりと少しずつ重くなっていく足取り。もはや動かなくなりそうな足を叱咤してなんとか歩みを進めていた俺は―――突然横の扉から出てきた男に、心臓が止まりそうになった。



「―――っ」
「き、りゅう…?」



驚きの表情で俺の名を呟いたのは、紛れもなく俺が資料を手渡さなければならなかった男で。予想外の展開に脳の対処が追いつかない。動揺からか、怯えからか、恐怖からか、もしくは喜びからか、勝手に震えだす腕を隠すように背後に回した。
待て。待ってくれ。まだ心の準備ができてない。



「…珍しいな、お前がこっちまで来るなんて。なにか風紀に用か?」
「や、俺はその、急ぎの資料を…」



数回ぎこちなく瞬いたあと、なにも言えずにいる俺に助け船を出すように口を開いた久谷。久しぶりに正面から向かい合い、今にも逃げ出しそうになる。足は震えてないか。顔を強ばってないか。声は上擦ってないか。目は泳いでないか。どれ一つとっても以前の俺らしくできてる自信がない。だから嫌だったんだ、頼むから準備をさせてくれ。少しだけ待っててくれたら、俺様でも優等生でも淫乱でも、今までみたいになんだって演じきってみせるから。
だけどそう思うと同時に、拒絶はされていないらしいことに、泣きたくなるほど喜んでいる自分もいて。もうそれだけでどうだっていいかもしれない、とまで思った簡単な自分に心のなかで笑いながら、それでもなんとか平静を装って資料を手渡そうとした時だった。



「久谷様ぁ、お忘れものですよ〜」



久谷の奥から聞こえた、少し高めの甘やかな声。
僅かに表情が固まる久谷が口を開きかけたのと、その声の人物が顔を出したのは同時だった。



「ちょ、お前はちょっと中入ってろって!」
「え?なんでですかぁ?あっ、会長様…!」



ひょこりと満面の笑みで久谷にじゃれかかったのは、見間違えようのない顔で。もう二度と見たくもないと思っていた、二週間前は俺を陥れることができて心底愉快そうに笑っていたあの顔が、今度は俺を見て、焦ったような顔をした。



(―――なんだ、そういうことかよ)



二人の気まずそうな目配せを見て、浮わついていた気持ちがストンと納得した。しかしどこかで落胆している自分に気づき、いや違うだろうと考え直す。
そういうことかよ、じゃない。寧ろこれ以外に、どういう事態になってると思ってたんだ、俺は。久谷が俺に焦がれてくれてるとでも、セフレを作らずに待っていてくれるとでも思っていたのか、馬鹿らしい。久谷が拒絶しなかったのは、もう俺なんか過去の人間で、次の相手のいるあいつにとってはどうでもよかったからだったんだ。


ついさっきまでは久谷と久しぶりに面と向かった衝撃と拒絶されていなかった喜びでヒートしていた思考が、すっと冷めていくのがわかる。馬鹿らしい。自分に言い聞かせるように、その言葉がぐるぐると頭を回った。



「あ、えっと桐生、これは、」
「俺に説明なんざいらねぇよ。ほら、書類だ」



ぐいと手元に押し付ければ、反射的に受け取る大きな手。その節くれだったゴツい指が、この間まで俺をどんな風に触っていたかと思うと、さっきまでどんな風に隣の華奢な体を触っていたかと思うと、堪らなくて。その手から無理矢理目を離す。

もういい、これで任務完了。あとは帰るだけだ。こんなところにはいたくない。二度と副会長の頼みなんか聞いてやるか。もう絶対にごめんだ。



「じゃあな、邪魔して悪かった」
「桐生、だからこれは…!」
「うるせぇよ、俺には関係ない」



くるりと踵を返すと、まだ後ろから食い下がってくる声。
なんのつもりなんだ。昔のオンナに今のオンナを知られたからってどうした困ることがある?確かに気まずいかもしれないが、間違ったことは、弁解しなくてはならないようなことは、なにもしていないというのに。
食い下がってくる意味がわからないが、このままだとこんなところでこいつらの関係やらなんやらを説明されてしまいそうで。ああ、もしかしたらこいつが本命なのだと言われるのかもしれない。だけどなんにせよ、そんなことを伝えられて冷静でいられるわけがない。そんなこと、お前の口から直々に聞きたいわけがないから。
仕方なく振り返り、冷めた視線と共に拒絶の言葉を吐けば、久谷はぐっと堪えるように口をつぐんだ。結局たったそれだけで引き下がり、二人並んで仲良く沈黙する姿に、俺はそれでいいと笑みを浮かべたのだった。






わかっていた。
わかっていはずだった。
わかっていたつもりだった。

俺は、あいつにとって大勢のセフレの中の一人でしかなかったこと。俺が断ったって、俺がいなくなったって、俺の代わりなんかいくらでもいるってこと。
わかってると言いながら、それでも動揺し、落胆し、嘆く心を、思いっきり嘲笑ってやりたくなる。
そしてなにより―――…



(その中でももしかしたら、弁解したくなるくらいには、気に入られてたのかもしれない、なんて)



そんなことを考えるだけで幸せになれるのだから、本当におめでたい頭をしていると、我ながら思うのは仕方ないことだった。




どこまでも貪欲になるくせに、呆れるほど安くもなれる自分が、自分でも意味がわからなかった。期待して、落胆して、失望して、傷ついて。それでもまた、懲りずに期待しようとしている自分が。
だけど、たった一つだけ、今も昔も確かなものがある。
それは、自分が貪欲になるのも、あるいは安くなるのも―――あいつ一人に対してだけだということ。ただそれだけだった。






*end*




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