すき、きらい、すき、 | ナノ





「ほら、俺しかいないぞ。話したいことがあるんだろ?」
「はっ、はいっ!く、久谷様ぁ…!」
「うわっなにしてんだおい!」



いつでもこいよと手を広げると、なにを勘違いしたのか、感極まったように飛び込んでくる小動物。おいおいなにしてんだこいつは。ハグ待ちで手を広げてたわけじゃねぇよアホ。セフレだった時もこんなことしてなかったろうが、おい。



「おい放せ!話がないんだったら」
「き、桐生様が!」
「あ?」
「桐生様、が…っ」



ぎゅっと腰にしがみついてくる手を剥がそうとしたところで出てきた名前に動きが止まる。しがみついたまま上げられる顔。続きを促すように見つめると、さっきとは比べ物にならない水分が一瞬でその瞳を覆った。げっと引いた俺を余所に、今にも飽和して溢れてきそうな涙を湛え、震える声で言葉を紡ぐ。



「僕、見てしまったんです…っもう、どうしたらいいかっ」
「は?見た?なにをだ?なにかあったのか」
「桐生様が…っき、桐生様は、久谷様だけでは、ないのです…っ!」
「は…?」



瞬間理解できずに数回瞬く。
桐生が?あいつが、俺だけじゃない?



「どうして、どうしてあの人なのですか…!?久谷様は、桐生様以外切ったのにっ…!それなのにあの人は、今でも不特定多数と乱交しているのですよっ!」
「ちょ、待てお前、落ち着けって」
「落ち着いてなんかいられません!久谷様は、良いように使われ、遊ばれていたんです…!」



いや、違う。違う、だってそもそもが、セフレなんだ。そうだ、セフレで、ただ、専属契約したってだけで。だからそんな、遊ばれていたなんて、そんな表現がそもそもおかしいのであって。
頭の動きが、酷く鈍い。自分でもよくわからないほど、衝撃を受けている。



「この間はあんなに楽しそうにお二人でいらしたのに!それなのに、あの人はあんな簡単に股を開いてっ…」
「………」
「誰でもいいんです、あの人は…!ヤれれば誰だっていいんですよ…っ」



誰でも、いい?
それは俺だってそうだった。そうだったはずだ。
確かに専属契約は破られた。だけどそんなの、笑って許せるくらいのもののはずだ。そもそも始めたのだって、ゲーム感覚だったのだから。上手くいけばめっけもん。そんな、お互いに軽いものだったはず。

それなのに―――それなのになんで、こんなにも頭に血が上る。



「相手は…相手は、誰なんだ」



気づけば口走っていた問い。
聞いてどうする。聞いたところで、俺はあいつのセフレだ。そう、セフレでしかないんだから。



(…―――セフレでしか、ない?)



頭を過った言葉に、自分の頭から出てきたはずの言葉に、予想外の衝撃。
ちょっと待て、それ以外に、なにがあるって言うんだ。なんで、なんで俺は、こんなに動揺してるんだよ。



「き、今日のお相手は、ご自身の親衛隊の隊長さんでした…っ」
「今日の?」
「あの、さっきたまたま、見てしまったのです…!そしたら、いてもたってもいられなくて、僕…っ!」



はらはらと泣き崩れる華奢な体。それを受け止めながら、しかし足は前へと動き出そうとする。
行ってどうする。行ったところでどうにもならない。浮気じゃあるまいし、別にあいつを責めたいわけじゃない。じゃあどうしたいんだ俺は。なんでわざわざ、行こうとするんだ。行ってどうしたいんだ、俺は。

動こうとする体を、しかし小さな障害物が邪魔をする。なんだと下を見れば、懇願するように必死に首を振っているのがいた。



「おい放せ」
「ダメ、ダメです…っ!行っちゃダメですっ、傷つくに決まってる…!」
「は?なんで俺が傷つくんだ、いいから放せよっ!」
「そんな顔で言われても説得力なんかありませんっ!僕は、あなたを傷つけたくなくてここに来たのにっ…あっ」



押し問答をしている所に、微かな着信音が響く。ぴたりと止まる双方の動き。これは、俺のスマホの音だ。
一先ずぐっと引き剥がしてから、後ろポケットを探す。さっき手渡されたセフレ用ではなく、ポケットから出てきたスマホは着信音を流しながらブルブルと震えていた。

そこに表示された名前―――桐生侑紀の文字に、動揺を隠せず目を見開いた。



「か、会長様…」



ディスプレイに表示されているのが見えたのか、あちらも動揺して唾を飲むのがわかる。震えるそれを数秒見つめたあと、俺はすっと指を滑らせた。



「―――はい、久谷」



緊張して僅かに震える声。
情けねぇなと自分にイラっとしながら、しかしまだ酷く緊張したまま相手の返答を待つ。



『…よお、こんな時間までご苦労だな、風紀委員長』
「桐生…」



耳に届いた掠れた声。散々喘がされたと物語る、自分も何度も生で聞いたことのある、情事直後の声。機械越しでも伝わってくる色気のあるそれは、俺のお気に入りの一つだった。
それがなにを示すのか、わかりすぎるほどわかってしまって。無意識に、ぎりっと奥歯を噛み締めた。



『どこぞの親衛隊がやらかしたらしいじゃねぇか。久々にてめぇからの呼び出しがなくて安心したぜ。ザマーミロってんだ』



くつくつと笑う声。掠れて少し辛そうながら、けれど楽しそうな。ああ、いったいどんな顔して笑っているのか。
―――ダメだ、やっぱり会いたい。会って、直接話がしたい。



「なあ、おい桐生、お前今どこいる。今から行くから、」
『あー…いい、いい。来んでいい』
「は?」



俺が会いに行くと言ってるのに、返ってきたのは断りの言葉。
ちげぇよ、お前の都合なんて聞いてない。俺がお前に会いたいんだ、会いに行かせろ。
ムッとしてそう言うと、瞬間途切れる声。そして一瞬の間のあと、再び笑う声がする。



『バッカお前、俺なんか口説いてんじゃねぇよ』
「は?だから茶化すなよ。会ってお前に話が、」
『あ―――…なあ、もうやめようぜ』
「はっ…?」



瞬間停止する思考。
先までケラケラと笑っていた声が、一瞬で真剣な声音に変化する。
やめよう?なにをだ。いったいなにを、やめるって?



『あの専属契約っての、もうやめよう』
「おい、勝手になに言って、」
『なんか性に合わねぇし、飽きちまったんだわ』
「は…?」



なんでもないように、あっけらかんと伝えられる言葉。
ちょっと待て。待て、おかしいだろう。
いや…いや違うのか。おかしいのは俺の方なのか。わからない。最初は同じスタンスのはずだったのに、いつから掛け違ってきてしまったんだ。



「なんで…」
『んー、だから、もう飽きたってのと…それと、今日ちょうど、お前のファンクラブにも見られちまったし』
「え?」
『ほら、こないだ会ったあのチワワ。今お前んとこいるんじゃねぇの?』



思わずさっと視線をそいつへと走らせる。目が合うとびくっと反応したが、無視して再び視線を元に戻した。



『ヤってるとこ見られたし、こないだも粘着質っぽかったからどうせお前に言いに行くだろうなと思って』
「だったらなんで、電話なんて」
『あ?だから、契約切るためだろ。チクられたりなんなりって、面倒くさいの嫌いなんだよ。ちょうど飽きてきたところだったし、だったらもういいかって』



あ、ルール破ったのは悪かったよ、ごめんな。
さらりと告げられる謝罪の言葉。
謝罪?やめてくれ、謝罪なんかされたら、そしたら、それは。



『ま、そんなわけだから、ゲームは終わりだ。これからはまた、前までと同じ関係な』
「ちょ、前って」
『そう、前に戻るだけだ、簡単だろ?』



簡単だと?前までの俺たちの関係に戻るのが?
極力目を合わせず、会話もせず、視界にも入れない。
お互いを生理的に受け付けない、犬猿の仲。

あれに、あの状態に、戻れと言うのか―――…



『じゃあ、それだけだから』
「え?待てよ」
『じゃあな、ゲーム、なかなか楽しかったぜ。ありがとな』
「おい!おい待て桐生!桐生…っ!!」



ブツリ、切れた接続。
その瞬間、手からスマホが滑り落ちた。

頭が、ついてこない。
飽きた?やめる?戻る?前の関係に?
遊びは、ゲームは、もう終わり―――…



先まであいつの声を届けていた機械を拾うこともできず、そっと抱き締めてきたやつを振り払うこともできず。
しばらく俺はただそこに、呆然と立っていることしかできなかった。






*end*




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