Arcadia | ナノ
「…菱川?」
珍しい客に思わず名前を呼ぶと、ぴくりと反応する体。あれは、兄―――瑠依の方か。
向こうからの久々すぎるコンタクトに、思わずぱちぱちと瞬く。するとなにをもって安心だと判断したのかは知らないが、俺はもう行くぜと峰岸は歩き出す。去っていくその背中を思わずふっと振り返り、俺を一人で置いていくのかと一瞬呼び止めそうになったがしかし、峰岸が動いても一瞬たりともブレずに真っ直ぐ俺だけを見つめる菱川に思い止まる。
どう考えてもあいつが話したいのは俺一人なんだ。他の人間を呼ぶべきじゃない。そう思い直して、一人で菱川のもとへと踏み出した。
「どうした菱川兄、久しぶりだな」
「っ、会長先輩…」
話があるんだろう?だから待っていたんだろう?そうだというのに、俺が近づく度に少しずつ後ずさる華奢な体。一応確実に距離は縮んでいく。しかし酷く緊張していく固い表情や、ぎゅっと握られた拳を見ていられなくて。一体何に対して何故そんなに緊張しているのかわからない。だけどとりあえず、数人分の間隔を空けて俺は立ち止まった。
「なんだ、なにか俺に話があるのか?」
「あ、僕…瑠佳が…」
「あいつが?」
促すように、なるべく優しく繰り返す。しかし他のものをまるっきり無視するように俺だけに向かっていた薄茶色の瞳が、瞬間ふっと揺らいだ。一瞬困ったような泣きそうな顔をした菱川は、すぐにぶんぶんと頭をふっていつもの顔へと戻ってしまった。さっきまでの、すがるような色を消して。他を一切寄せ付けない、きっぱりと拒絶するような顔をして。
「違う…違う、なんでもない」
「菱川?」
「なんでもないから、ごめん、気にしないで」
じゃあね、そう言って去ろうとする菱川。ちょっと待て、なにかあったからここに来たんだろう?俺に話そうとしてくれたんだろう?弟と二人だけですべてを完結させるお前が、それでも俺に助けを求めたいと思ってしまうほどのなにかがあるんだろう?
このまま放っておくわけにはいかない。逃げるようにいなくなろうとする菱川の手をぱっと捕まえた。
「っ!」
「ちょっと待て、俺に話があるんだろう?」
「ちょっと、放してよ」
「生徒会室に来い。大丈夫だから」
「ちが、いらないってば!」
すぐにパシッと跳ね除けられる手。大きくて丸い目が、きゅっとつり上がって俺を睨み付ける。まるで、猫だ。全身の毛を逆立てて威嚇する、ふわふわの蜂蜜色した毛の猫。その中で唯一、色素の薄い瞳だけが微かに揺れる。
「僕は、僕らは平気なんだ。僕らだけで平気なんだよ」
「おい、落ち着け」
「僕らの世界に他はいらない。会長先輩の助けは、いらないんだ」
「菱川、だけどお前、」
「だから―――僕だけで、大丈夫」
「あっおい!」
突然たっと背を向けて走り出す菱川。さすが猫というかなんというか、あっという間にその背中は小さくなっていく。スタートにワンテンポ遅れた俺は、こっちが走り出す前からもうすでに遠くなった後ろ姿に諦めて、その場でがしがしと頭をかいて見送った。
「…あー、くそ」
見つめていたって仕方がない。引き止められる言葉も信頼も持っていなかった自分へぶつぶつと悪態をつきながら、俺は俺で生徒会室へ向かうために逆方向へと歩き出す。
あの菱川の方から真剣に接触があるなんて、本当に初めてで。なにかあったのは確かなんだ。だけどそれをすぐに相談できるほどの信頼を、俺に勝ち得てなかったってことなんだろう。あいつらは全てが二人だけで完結しているから。そもそもここまであいつが来たってこと事態が奇跡なんだ。それだけ切羽詰まってるってことか。
兄の方だけということは、弟になにかあったんだろう。となると今、あの双子はバラバラなのか?だけど少なくとも長谷からは、そんな報告は上がってきていない。篠崎と同じクラスのあいつがそれに気づかないはずがないのに。
「…ちょっと、探ってみっか」
乗りかけた船だ。お節介かもしれないが、調べておくに越したことはない。それにもしあいつらになにかあったら、後々こっちにも影響が出てくるんだから。
そう思い俺は、片手で書類を抱え直しながらスマホを取り出したのだった。
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