※嘘つき、嘘つきの続き






 私が医者を志すようになったのは、他でもない、弟のためだった。


 小さい頃から、弟は直ぐに怪我をしたり、体調を崩しがちだった。
 大きな家の静かな和室。体調を崩した弟は、しばしばその部屋にて療養し、私たち家族から隔離されていた。
 医者や、時田や他の使用人などが行ったり来たりする隙を見計らって、弟の様子を見に行った。辛そうに咳き込みながらも、私が近くに居ることに気付けば、汗ばむ額を気にもとめず、安心したように微笑む弟。

 兄さんがいれば、すぐに元気になれるような気がするよ。

 自分よりも少し小さな手のひらをぎゅっと握り締めれば、ありがとう、と弟は言う。
 時田に見つかって部屋を追い出されるまで、私は弟のしっとりとした手のひらの温もりを感じていた。









「望、体調はどうだ」
「ええ、おかげさまで」

 点滴の細いチューブが繋がる弟の腕に視線を落とす。その腕の細さが苛々を募らせる原因の一つでもあった。
 弟はこの数ヵ月ですっかり痩せ細ってしまった。食べても体が受け付けず、直ぐに吐いてしまうのだと言う。

「望、腕を切るのは止めなさい」
「兄さん」
「貧血もだが、ただでさえ抵抗力も落ちているんだ、直ぐに倒れるぞ」
「もう倒れてますよ」

 ふふ、と笑う弟は酷く痛々しい。軽口を叩くだけの余裕があると言えば聞こえは良いが、実際にそこに込められているのは諦めだった。私は、そんな弟に何もしてやれない。






 弟は、自分の生徒たちに心配をかけたくないのだと言って小さく笑った。だから、弟の体のことを知っているのは、父上や母上、時田や景兄さん、弟の職場の人たち(これも本当は弟は嫌がったのだが、主治医としてその意見は認められなかった)、そして私だけだ。妹や、甥っ子には何も伝えていない。妹は、ああ見えて実は泣き虫だから。
 小さな頃から人のことばかり気にかける弟の性格はこの年になっても健在で、それこそが、細い傷跡が残る左手首と何度も繰り返す自殺未遂の理由だと、私は少しも気付かなかったのだ。







 弟の体調が急変したのは、ちょうど秋休みに入る少し前のことだった。秋休みと言っても一週間程の短い休みだったが、その直前だったこともあって、弟の生徒たちは特に疑うこともなく、「先生のいつものずる休み」程度に思ったようだ。

 そうして数日の間、私は出来る限り弟の傍にいた。弟の手のひらを握り締めると、弱々しい脈拍が伝わる。いつの間に、この手はこんなに小さくなってしまったのか。私にはわからなかった。

 何のために自分は医者になったのか。それは他でもない弟のためだ。
 兄さんがいれば、すぐに元気になれるような気がすると言って笑った、幼い頃の弟の姿が浮かぶ。

「私は、こんなことをするために医者になった訳じゃない…!」

 弟に余命を宣告することと、日に日に弱っていく姿を見守ることしかできない自分が酷く愚かで、逆に笑うことしかできなかった。





「…いさん」
「……のぞ、む」

 弟の声で目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだった。握り締めた手のひらは知らぬ間にほどけていた。

「兄さん、お願いがあります」
「…望?」

 弟の声は穏やかで、その表情には辛さも痛みも全く見受けられない。こんな顔をする弟はいったいいつぶりだろうか。

「ベッド横の棚の引き出しに手紙が入っているんです」
「手紙…?」
「はい…なので、それを届けて欲しいんです…宛名はそれぞれ書いてます」
「あ、あぁ、わかった…」
 そういうと、弟は安堵したようににっこりと微笑む。

「兄さん」
「なんだ」
「…ありがとう」
「…望?」
「私は兄さんの弟でいれて良かった」
「何を、そんな改まって…」

 湿っぽいのは勘弁だ、と冗談染みて言い、弟の手を再び取って握り締める。

 ひんやりとした、脈拍の伝わらない――まるで死んでいるかのような――手のひらに、背筋が凍るような気がした。

「兄さんはずっと私の誇りでした」
「のぞ、む」
「愚かな弟でごめんなさい」
「の、望」
「そうだ兄さん、覚えていますか」

 手のひらの感覚と反して、弟は元気そうな笑顔をこちらに向けて言うが、私はそれらに対応出来ず、ただ焦ってばかりだった。

「小さい頃、私が寝込むと、兄さんはよく和室に来て、一緒にいてくれたじゃないですか」
「あ、あぁ」
「あの時に私が言った言葉は嘘じゃないし、今でもそう思っていますよ」
「望、」
「兄さんがいるだけで、凄く安心できて…辛くても、苦しくても、兄さんがいれば何でもなかった」
「っ、のぞ、」
「私は、本当に兄さんに救われていたんです…ありがとう、兄さん」

 そうして弟は小さな声で、大好きです、と呟いた。




 いきなり視界が暗くなる。遠くで名を呼ばれている気配がして、それに反応するように目を開いた(視界が暗かったのは目を閉じていたかららしかった。眠っていたのだ。先程の出来事も、つまり)。
 目の前には看護師。どうしたんだ、と尋ねる必要もないくらいに、彼女の顔は悲痛そのものだった。

「先生…先生の弟さんの体調が急変して……」







 病室に急いで向かいながら、震える指で携帯を握った。
 電話の相手は、弟の急変に備えて近くのホテルに滞在している家族。間に合わないなんて事にはならないでくれ、と願う。











 その日は、大雨だった。
 弟が死んだのは、家族が到着してから数分後のことだった。





愚かすぎて笑えてしまう





―…―…―…―

これ、大丈夫かなぁ
ドシリアス、すみません(ノω\)


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