誰にも悟られないように帰途を辿り、鍵を開けるのには些か苦労した。
 暗いなか手探りで電気をつけ、とりあえずリビングのソファに連れ帰ってきた猫を横たわらせる。寒々しい部屋を暖めようとエアコンをつけた。足元でおかえり、と鳴く唯我独尊丸をしばしの間待たせて、応急処置にとりかかる。こういう時にどうすべきか適当な手順があるはずもなく、とりあえず濡れタオルを準備して汚れた顔だけでも拭ってやり、少しでも早く体温が回復するように毛布をかける。毛布が汚れてしまうことはさほど気にすることでもなかった。
 ほんの気紛れ、のようなものだ。ここにずっと置いておくだとか、近い未来の見立てがあったわけでもない。唯見捨てられなかっただけ。そういえば以前兄と二人で捨て犬を世話していたこともあった、と思いかえす。連れて帰ることはできなかった子犬は結局、ある日誰かに拾われていって、手作りの段ボール箱の家からはいなくなっていたのだけれど。
 猫が起きた時のためにと風呂の湯を沸かし、とりあえず目覚めるまでとソファを背もたれにして明日の台本を読むことにした。規則正しい呼吸と徐々に色を取り戻してきた頬を見る限り、それほど心配しなくてもいいだろう。疑問点は後々解決すればいい。すり寄ってきた唯我独尊丸を撫でつつ、幽は台本に没頭した。


 気づけば結構な時間がたっていた。

 ふと視線を感じて後ろを振り向くと、赤い瞳が幽を出迎えた。じい、となんの感情も乗せずにこちらを見つめてくるそれは臨時の同居人のもの。幽もあえてそのまま見つめ返す、無言の睨めっこは数分間続いた。

「… …あなた、だれ」

 先に根負けしたのは猫のほうだった。毛布を肩まで引き上げてくるまり、恐る恐るといったふうに尋ねてくる。

「…平和島幽」
「…へいわじま、かすか、さん」
「幽でいいですよ」

 芸名を名乗らなかったのは、羽島幽平を知らなかった猫に余計な知識を与えたくなかったからだ。プライベートに関わることに仕事を持ち込むことは出来る限り避けたかった。

「貴方が行き倒れていたみたいだったから…連れてきました」
「ここは、どこ?」
「俺の家です」
「…ふうん」

 しきりに周囲をきょろきょろと見回す猫はなにかに怯えているようにも見える。幽は少し首を傾げたあと、猫の目をじっと見つめた。毛布の端をを握りしめる猫に「好きなだけいていいですよ」とだけ告げ、その手をゆっくりと撫でて力を抜かせる。指を絡めてソファから立ち上がらせ、覚束ない足取りの猫に合わせながら風呂場へと誘導していく。

「貴方の名前、聞いてもいいですか?」
「…臨也」
「臨也、さん。タオルはそこにあります。風呂の使い方とかは」

 こくり、と頷いたのを確認して、幽は脱衣所の扉を閉めた。
 いざや、と名乗った猫がどのような事情を抱えているのかはわからないが、あの様子を見るとあまりいい状況ではないらしい。何回か読み返した台本を机に置き、色々と聞きたいことを考えてはみたものの、最終的には猫がいつか喋ろうとしてくれることを待つしかない。シャワーの音が止まった時には既に幽はそう決断を下していて、とりあえずはイザヤを落ち着かせるためにと紅茶を淹れているところだった。

「……」
「おかえりなさい」
「……」

 湯上りで湿った髪から雫を滴らせながら歩いてきた猫を出迎え、ソファに座らせる。自分もその横に座ってイザヤのために用意した紅茶のカップをテーブルに置き、膝に飛び乗ってきた唯我独尊丸の喉を掻いてやる。イザヤがなにかを言いたそうにしていることは気配で察していたが、幽はそれほど急ぐことでもないと思っていた。無理に話してもらいたいわけではない。イザヤがこの家をすぐにでも出たいというなら別だが。
 そうして何をするでもなくぼう、と考えを浮かせていると、イザヤが耐えかねたように口を開いた。

「…幽、くん」
「…何ですか?」
「っ、俺」

 眉を寄せて言い淀んだ後、イザヤは急にき、と顔をあげて幽の腕を掴んだ。バランスを崩した幽の膝から唯我独尊丸が飛び降りる。イザヤはそのまま幽の膝を跨ぎ、もう片方の手のひらを幽の肩に乗せた。ルームライトが逆光になって表情がよく見えないが、幽が無言でイザヤを見上げると、イザヤは確かに唇を釣りあげて淫靡な笑みを形作った。

「これくらいしかお礼できないから、これでもいいかな…?」

 そう笑うと、イザヤは尻尾をするりと幽の足に巻きつける。尖った爪でつと幽の頬を柔らかく引っ掻き、肩口に頬を寄せた。やわかな猫毛が幽の首を擽る。"これ"がなんなのか言わずとも解る。確か、猫の起源は快楽のための玩具だったはずだ。
猫だからなのかざらざらした舌が頬の稜線を辿り、唇をぺろりと舐めた。情欲に濡れた赫と視線が交差したとき、幽は黙ってイザヤの細い肩を押し返した。

「え」
「…お礼は、いりません」

 幽にそう言った趣味はない。仕事柄言い寄られたことも少なくはないが、事が事だけに丁重に避けてきていた。ましてや相手は今日拾ってきたばかりの猫で、これから互いのことを知っていこうというのだから尚更だ。
 それに。

「それから、…演技もいらない」

 "慣れている"幽だからこそ見抜けたイザヤの騙り。僅かな仕草に滲み出る焦り。押し返した掌を今度は握りしめ、幽は口をぽかんとあけたまま固まっているイザヤに告げた。しばらく黙りこくっていたイザヤはみるみるうちに頬を染め、ぱっと幽の手を振り払って膝から降り、耳と尻尾をへたりと垂らしてソファに座りこんだ。幽が動向を見守っていると、両手で顔を覆ってしまう。尻尾だけがぱたぱたと忙しなくソファの革を叩く音が響く。

「…あー…」

 暫しして溜息を吐いたイザヤは薄く朱に染まった顔のまま幽を横目に見て、

「俺、ここにいてもいいの」

 呟く声は弱々しかったけれど、幽にはちゃんと届いていた。幽は頷く前にイザヤの足元を目線で示す。イザヤがつられて自分の足先を見れば、唯我独尊丸が優雅に尻尾を振ってイザヤを見据えていた。

「貴方に遊び相手になってほしいみたいです」

 だからここにいてくれますか。と幽が穏やかな声音で言うのと、唯我独尊丸がニーと甘えるように鳴いたのは同時だった。
 イザヤは一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた後、唯我独尊丸を抱き上げて頬擦りし、うん、と頷いた。








【幽ルート:猫と猫 END】



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