空調の音ばかりが響く広い部屋は、生ぬるい風で満ちていた。
 足を踏み入れて後ろ手に扉を閉じる。室内には不機嫌な表情を隠そうともしない猫が一匹、彼のためにしつらえたベッドの上に座り込んでいた。背後の窓から差し込む月光がその頬を遠慮がちになぞっている。

 裏社会での道楽から徐々に広まり一般家庭にも定着した、三角耳と尻尾を持つ人間じみた動物。猫、という愛称で親しまれるそのペットを帝人が飼い始めたのはつい最近のこと、当初から人間に換算すれば20歳前後の姿をしていた。
 着の身着のまま放浪していた猫を見つけたのは人混みから少し道を外れた路地裏で、行き倒れそうになっていた彼を家に招いたのがすべての始まりだった。
 整った顔立ちと痩せた身体。
 猫は臨也と名乗った。
 それがどこで誰が名付けたものなのかは知らない。タグもなくしてしまったと言う。しかし帝人が一緒に暮らしたいと申し出たとき、臨也は嬉しそうに笑ったのだ。
 帝人はとっくに臨也に囚われていた。自覚も、していた。

 帝人は予想どおりの光景に、表面上は眉を顰めただけに止める。内心でわき上がる愉悦を抑えながら、自制した低い声で猫を呼ぶ。

「臨也さん」
「…早くこれ、はずしてよ」

 威嚇するように臨也が僅かに身じろぎするだけでも、首輪からベッドに繋がれた鎖がちゃり、と軽やかに音を奏でる。床に散乱する羽枕の中身に帝人はため息をついた。猫は意外と簡単に癇癪を起こす。退屈を嫌う。

「どうして僕がそれをつけたのか、解ってないんですか?」

 そう問いかけてみれば、息を詰まらせて視線を泳がせる。耳が垂れ、尻尾が所在なげに布団をぱしぱしとたたく。緩く波打つシーツの白さは、臨也の黒い服装や髪を浮き上がらせる。床も壁も色味のないこの部屋では、透き通る夜の蒼さと臨也の漆黒だけが存在を主張していた。
 眉を下げて詰問する帝人に臨也は渋々と言った体で口を開く。

「…だって」

 つまらなかったから。
 目をそらしたままぼそぼそとこぼした言葉はやはり猫らしい。"気まぐれでしなやか"という謳い文句の通りだ。だが帝人が聴きたいのはそんな定石ではなかった。

「これで三度目ですよ、臨也さん」

 帝人の言うとおり、これまで臨也は二度飼い主──帝人から脱走し保護されることを繰り返していた。三度目の今回もやはり捕まったのだが、一言二言言い含められるだけで許されていたこれまでと違って首には鎖が付けられ、文句を言う間もなく引きずられてこの部屋に閉じこめられたのだ。
 けして逃げ出さないという、帝人と臨也の間のたったひとつきりの約束。それさえ守れば無償の愛が提供される禁忌。予定調和だ。変化の無い日々に臨也が耐えられるはずもなく、やがては外に憧れるだろうことを帝人は最初から見越してこの協定を交わした。
 家具がひとつきり、窓は格子で囲まれている、まるで牢のような部屋がこの家に存在したとは、慈しまれ世話されてきた臨也が知る由もなかった。

「……」
「仏の顔も三度まで、って言いますよね」
「…う、ん」

 窘める帝人の言葉からもそっぽを向いたまま、臨也はちらちらと帝人を伺ってくる。
 その深赤の瞳にかすかに不安を読みとり、帝人は例えようもない充足感を覚えた。
 縛り付けたい、と思う。もう決して逃がさない。誰にも渡さない。
 子供のような独占欲の発露。帝人は散らかる羽根を踏みしめながらゆっくりと歩を進め、ベッドのすぐ脇で立ち止まる。見上げてくる臨也の頭を撫で、訝しげな視線を受け止めてにこりと、温度のない笑みを浮かべた。

「僕の言うことが聞けますか?」
「え…?」
「素直になるなら、ここから出してあげます」

 譲歩に見せかけた甘言。数秒躊躇した臨也が頷いたのを見届けて、帝人は口元の歪みを深めた。

「じゃあまず、にゃあって鳴いてください」

「な、…!」
「どうしたんですか?」

 素直じゃない子は嫌いですよ、と帝人は唇を吊り上げたまま畳み掛ける。小首を傾げてこちらを見る顔は年齢不相応に幼く可愛らしいと言えなくもなかったが、貫く視線は鋭さと冷たさを併せ持って臨也を囲う。
 しかし、鳴けなんて。
 想定外の要求に臨也は戸惑う。そもそも高いプライドを持つ臨也が、そんな求めに応じられるわけがない。或いはそれを承知の上で、態と羞恥を煽るためのものなのかもしれなかった。
 臨也はこれまでの環境から間違った判断を下す。
 帝人ならば。
 きっと許してくれるだろう、という浅はかな考え。

「い、いや…だ」

 静かすぎる部屋に否定が波紋を広げる。片眉をあげるだけの反応をみせた帝人はふ、と微笑み、こちらの出方を伺う臨也の瞳をそっと片手で覆い、抱き寄せて耳元で囁いた。

「言うことを聞かないなら、お仕置きですね」

 尻尾がぱたり、とシーツに落ちた。


玩具をつかう
ナイフをつかう


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -