階段を上りながら、彼と出会った日のことを思い出す。孤児院でもいつも一人で、ずっと絵本ばかり読んでいて。淋しくて辛くて、絵本の中に描かれたこの空を、本物の空を見ることが出来たのならば、そんなことはどうでもよくなると思った。だから、孤児院を脱け出してこの柱に近付いた。
 誰もいない、人の気配のないその柱の入口の扉を、ゆっくり引いた。外に出る方法は知らなかったけれど、柱の中に入ればわかるだろうと思っていた。そして、そこで彼と出会った。

「お前、なんでこんなところに」

 人がここに近付くことがそんなにも予想外だったのだろう。彼は大きく目を見開いてこちらを見ていた。僕にとっては孤児院の先生以外に久しぶりに見る大人で、しかも先生達は皆けっこう年を取っていたから、若い人を見るのは本当に久しぶりだった。

「あなたはだれですか?」
「……それはこっちの台詞なんだがな」

 まぁいい、と彼は言って僕を連れて柱の外に出た。

「ここに近付いたらいけないって、お父さんお母さんから教わらなかったのか?」
「……そんな人、ぼくにはいませんから」

 泣きそうになるのを我慢してそう答えれば、彼はしまったと顔をしかめた。悪い、と謝る彼の顔は、僕よりもずっと悲しそうで。

「その、すまん」
「いいんです、……あの、代わりと言ったらあれなんですけど」

 僕は確かその時、誰でもいいから話ができる人が欲しかったのだ。ずっと独りぼっちで、絵本の空ばかり見ていて。だから、

「これからもここに来ていいですか」
「な……」
「ぼく、空を見たいんです」
「……外に出るのは駄目だ」
「おねがいします……あの、話をしてくれるだけでもいいんです」

 そんなやり取りが続いて、彼はここに来ることと話をすることだけ許可してくれた。



「もうあれから10年近く経ったんだ」

 毎日のように彼のところに通った。彼と話している間は、ずっと楽しくて仕方がなくて。一人じゃなくなって、僕は嬉しかったんだ。
 それにしても、彼は本当に何者だったんだろうか。彼をベッドに寝かしつけた時にぐるりと部屋の中を見回したが、人が生活するにはあまりにも物が少なすぎた。その時に、物が少ないということだけじゃなくて違和感を感じていたのだが、その正体にようやく気付く。そうだ、食事の形跡が、まったくなかったのだ。
 僕が持ってきていた食事はせいぜい一食分で、それで一日の栄養を補えるはずなど当然ない。そもそも彼はこの柱から離れたことはないようだった。なんで今まで不思議に思わなかったんだろう。いくら童顔だからって、10年経ってまったく見た目の変わらない人間がいるだろうか。そもそも彼はいつからここにいるんだ。外の世界にいたことがあるのは、一体いつの話だ。この階段を使った形跡がまったくないのは何故だ。どうして彼はこの柱にいたんだ。

 その時、下から名前を呼ばれた気がした。その声にびくりと体を震わせる。もしかしたら彼が目を覚まして、追ってきたのかもしれない。やばい、急がなければ。
 階段を上る足を早める。どれくらい歩いたのかはやはりわからない。本当に頂上に近付いているのかも不思議に思うくらいだった。だが、それからまたしばらくすると階段の奥の方から薄く光が漏れているのに気付く。ようやく頂上に近付いたのだ。人工的な光なんかじゃない。太陽というものの光が、そこから漏れているのだと思ったら胸が熱くなった。
 とにかく上る。彼があんなにも駄目だと言っていた理由など考えもせずに、ただ自分の望みのままに。そうして……ようやく、扉の前までやってきた。隙間から漏れる光が眩しくて、それだけで僕は少し泣きそうになる。

 長い間誰も触れていなかったのだろうその扉は固く、重かった。ぎぎ、と嫌な音を立てるその扉を、ゆっくりと押した。


 空、だ。


 想像していたより遥かに美しい空。ここは傘の上だ。傘の上に、色とりどりの花が咲き誇る。綺麗で、僕なんかの言葉では言い表せないくらいに綺麗で、空が青くて太陽の光が暖かくて美しくて、僕は、泣いてしまう。
 一歩、また一歩と花畑に足を踏み入れる。こんな美しい世界があるのに、どうして傘なんかがあるんだ。どうして誰も来ようとしなかった。僕はただ泣いて、呆然としていた。言葉が出ない。何もいらない。

「――古泉!!」

 背後から、彼の声が聞こえた。振り向くとそこには彼がいて。よく見ると腕にナイフか何かの切傷があり、そこから血が滲んでいる。恐らく痛みで眠気を振り払ったのだろう。

「このっ……バカ野郎っ……!」

 彼は僕の腕を取るとそのまま引っ張り、柱の方に押しやって、そのまま扉を閉めた……自分の身を外にやったままの状態で。扉を開けようと必死で扉を押すのだが、彼が向こう側から押し返しているようで動かない。

「どうして! せっかく空を見れたのにどうしてこんなことするんですか!」
「……お前は、どうして傘があるのか考えたことがあるのか……!」

 扉越しに彼の声が響く。絞り出すようなその声は、今まで聞いたことがないくらいに震えていた。怒りからか、それとも。

「そんなこと……別に」
「死ぬからだよ! 太陽の光はお前等には毒だからだ!」
「な……」
「だから誰も外には出ないし近付かない! もう300年もだ! 300年間、外に出ようとするバカ野郎を防ぐために俺はずっとここにいたんだ!」

 扉を押す腕に、力が入らない。どういう、え、彼は何を。死ぬ、? 300年? 何だ、何を言っているんだ。

「扉の近くに瓶が置いてあるだろ、古泉、いいからそれを飲め! そうしたらお前は死なない!」
「どう、いうこと、ですか」
「太陽の光を中和してくれる! いいから飲むんだ!」

 彼に言われた通り扉の近くを見渡せば、そこには彼が置いたのだろう小瓶が置いてあった。言われた通りに飲み干して……それからふと気付いた。

「なぜ、貴方はそちら側にいるんですか」





第4回BLove小説・漫画コンテスト応募作品募集中!
テーマ「推しとの恋」
- ナノ -