(世界の終わりに傘を、)







 大きな傘が、この世界を覆っている。
 青空は見たことがない、恐らく誰も。いつからそうなのかは知らない。誰も知らないし、知ろうともしない。それがこの世界では当たり前のことで、誰もおかしいとか思わなかった。疑わなかった。
 僕の友人(と呼んでいいのかはわからないけれどよく話す機会があるのだからそう呼んで差し支えはないだろう)は、この世界で唯一空を知っていた。どうしてか、それは彼が外部の人間だからだ。ただし、それを知っているのは僕だけ。彼は、この世界を覆う傘の中心部分の、柱の中に住んでいる。
 この世界の子供たちは皆、小さい頃に親から「傘の柱に近付いてはいけない」と教えられる。理由などない。そういう決まりだからだ。だけど僕にはまずそれを教えてくれる親がいなかった。

「お前、なんでこんなところに」

 彼の驚いた顔は、今でも覚えている。悲しいような嬉しいような怒ったような笑ったような。
 それが今から10年程昔の話で、今僕は17を過ぎた。背も伸びたし体つきもがっしりしてきたし、声も低くなった。
 彼はあまり変わらない。10代後半から20代前半のような風貌で、10年という月日の割に成長らしき成長が見られない。大人になるとそんなに目に見えて成長はしないんだよ、と彼が言っていたことを思い出す。仮に僕と出会った頃が今の僕と同じ年代だったとすると、今は27歳前後ということになる。童顔なんですね、と笑うと、うるさい気にしてるんだバカ、と怒られた。



「お前さぁ、よく飽きないな」

 毎日毎日こうやってここに来て、暇人だ。そう彼は毎日繰り返す。でもそうしないと貴方、何も食べないで過ごすでしょう。そういつも通り反論する僕に、はいはいわかったわかった、と答えながら彼はサンドイッチと紅茶を受け取った。

「飯はちゃんと受け取ったんだから、さっさと帰れよ」
「嫌です」
「強情な奴め」
「何とでも。それより、お願いがあるんです」

 彼の隣に座り込んで、自分の分のサンドイッチをかじりながらそう言えば、彼の手の動きが止まる。

「何度言っても、外には出さんぞ」
「はぁ、またですか」
「またもクソもない。駄目なものは駄目だ」

 この彼が居座っている傘の柱。この中は、彼の居住スペースを除けばあとは上部へ向かう螺旋階段になっている、らしい。頂上まで上りきれば扉があり、その向こうに空があるという。僕は傘に描かれた擬似的な空しか知らない。だから、一度でいいから本物の空を見たかった。

「空は綺麗なものなんでしょう?」

 鞄の中から一冊の絵本を取り出す。これは、僕が小さい頃から肌身離さず持っていたものらしい。らしい、と曖昧なのは、僕には幼い頃の記憶があまりないからだ。ただ、孤児院の先生がそう教えてくれた。僕はこの絵本と一緒に捨てられていたのだそうだ。だからかどうかはわからないが……僕はこの絵本の世界にどっぷりと浸かっている。美しい空の下、美しい花畑で遊ぶ仲睦まじい親子。子供が作った拙い花冠に喜び微笑む優しい母親と、子供を抱き上げる父親、楽しそうな子供。

「僕は、空を見たいんです……」
「……それでも駄目だ」
「食事、もう持ってきませんよ」
「別に構わんぞ、特に必要は……いや、自分で調達しようと思えば出来るんだし」
「意地悪」
「意地悪で結構」

 はぁ、とため息を吐いて、絵本に視線を落とした。真っ青で美しい空が、そこにはあった。




 そんなやり取りはいつものことで、だけど僕の「空を見たい」という欲求は日に日に増していった。僕ももう17だ。30前のオッサン(と言うと失礼かもしれないし実際のところ年齢もはっきりしていないのだが)には体力で負けることはないと踏んでいる。

「この暇人め」
「もう聞き飽きました、それ」

 くすくすと笑って、今日の分のパンとコーヒーを差し出す。無言で彼が受け取ったそのコーヒーには、睡眠薬が入っていた。彼さえ眠ってしまったならば、邪魔をする人は誰もいない(だってここには彼しかいないし、近寄るのは僕だけだからだ)。邪魔さえ入らなければ、あの階段を上れるだろう。外から見てもあの柱の頂上までは酷く遠い。以前彼が言っていたことから想像するに、頂上まで軽く一日はかかるようだった。
 コーヒーをぐいと飲み干して、それから彼はこちらを見て言葉を漏らした。

「おい古泉」
「……何ですか」
「何度も言うが……絶対に外には出るなよ」
「……なぜ?」
「何故かなんて知らなくていい。とにかく……っ、え」

 ぐらり、彼の身体が傾く。薬が回り始めたようだ。何が起きたのかよくわかっていないような彼は、こちらをじっと見た。

「ごめんなさい」
「こい、ず……」
「僕、どうしても空が見たいんです」

 そこまで言うと、ようやく彼は理解したようだった。やめろ、駄目だ、と必死で口を動かしているが強烈な眠気には勝てなかったようで、そのままがくりと落ちた。意識のない彼を抱え、柱の中に入る。彼の居住スペースであるそこの一角にはベッドが置いてあり、そこに彼の身を置いた。毛布をかけてあげて、彼が眠ったのを確認してから階段を上り始める。彼に飲ませた睡眠薬は即効性があるがその代わりに長くは持続しないものらしい。とにかく急がなければ。

 この階段を上れば、あんなに渇望した空がある。そう思えば、長く緩やかに続く螺旋階段を進む足取りは軽かった。階段は埃被っていて、汚かった。誰も通らないというのは確かな話なのだろう。そういえば彼はこの階段を降りてこの世界に来たのだろうか。それならば、それはいつ頃の話だろう。埃の積もり具合を見るに、10年や20年ではきかない気がする。
 どれくらい歩いただろうか。時計を確認しようとしたら時計の針が止まっていた。電池が切れてしまったのだろう。この階段には窓がないからどれくらい上ったのかを確かめることもできない。窓もなく灯りらしい灯りもないくせに何故か少し明るい階段が、酷く不気味なものに見えた。かつかつと階段を上る足音だけが響いて、それ以外は何も聞こえなくて、それだけで狂いそうだった。
 それでも僕は、空を見たいというただそれだけで進んでいった。




【アマギフ3万円】
BLコンテスト作品募集中!
- ナノ -