不意に少し歪んだ引き扉が出したガラリという大声に、僕ははっと振り返る。白竜、の文字がちらつく。
「え、なになに。何でこんな暗い中でぼーっとしてんの」
「……カイか」
残念そうな僕の様子に、カイは苦笑する。そのまま僕の隣によってきて、角イスの上に座った。
「今日は何も描かないのか。コンクール、近いんだろ」
「……そうだね、描こうか」
角椅子から立ち上がり、イーゼルを立てる。その様子をカイはじっと見ていた。恐らく勘の鋭い彼のことだから、きっと何か感じているのだろうが、何も言ってこない。だからカイの隣はひどく気が楽だった。
朝と同じく他愛もない話を広げ、油絵の具を塗りたくっていると、先ほどの黒い気持ちがどんどん洗われていくようだった。こうやって、今まで苦い気持ちを消化していたことを、僕はやっと思い出す。
角椅子を重ね、隣で曲芸を始めようとしている馬鹿な友人を諭すと、カイの顔が輝いた。「やっとシュウ笑ったな」その言葉に少し気恥ずかしくなる。この友人には頭があがらない、妹や白竜と同じくらい大切な存在だった。
律儀にきっちりと場所に戻すカイに、サッカー部に入ればいいのに、と声をかける。運動神経が抜群だというのに、カイはどこの部活にも入らず、たまにぶらりと美術部に来ては談笑して帰っていくのだった。何度目か分からぬ言葉に、カイは眉を下げる。
「うーん、サッカー部ねえ。俺も入ろっかなーと思ったけど、俺の動きに合わせてくれる奴、いないし。シュウがいればいいんだけどなあ」
「僕は美術部があるからね」
「でも、白竜に誘われてるんだろ?」
彼の話が出て少しどきりとしたが、平静を装う。
僕の家族はサッカーが好きで、こちらに引っ越してきてから地元のジュニアクラブに入ってサッカーをしていた。元々、カイと知り合ったのもそこだった。他にも友人は出来たが、みんな他の中学に散らばってしまっている。
最初は僕もサッカー部に入ろうと思っていたけれど、今のサッカー部のスタイルと僕達のスタイルは微妙にずれていたため、なんとなく気落ちしてしまったのである。公園の遊具で遊んでいるような動きをしながらサッカーを楽しむカイに、合わせられる奴は恐らくこの学校で僕くらいのものだろう。だがそれで良かったと、今では思う。もしサッカー部に入っていたら、僕は嫉妬で狂い死にかねない。
しかし体育の授業などで僕のサッカーの腕前を知った白竜は、何度も誘ってくる。そのたびに断るけれど、執着されているようでなんとなく嬉しくて断っている部分があるのはないしょだ。
そんな僕の思いを知ってか知らずか、カイはそんなことを言うのだから、少し困ってしまう。
「誘われてるけど。スタイルが違うと、なんとなくやりにくいんだよね」
「だよなあ。……そうだなあ、俺、シュウが一緒に入ってくれるならサッカー部入る。うん、そうしよー」
「えっ」筆が止まった。
「そうしたら一石二鳥じゃん。サッカーできるし、シュウはいるし。俺、シュウが美術部で絵描いてるの見るのも好きだけどね」
「なんかそれ、ちょっと責任重いなあ」
「そんなことないって。シュウだって、サッカーやりたいって思う時あるだろ?」
邪気のない笑顔で迫られて、ちょっと詰まった。確かに、サッカーをやりたいと思った時がないといえば嘘になる。クロッキーをしている時、あそこに混ざりたいな、と思ったことは何度あったか。
ボールの感触、芝生の匂い、頬を撫でる風。
あ、まずい、少し足がうずうずしてきたかも。
「……まあね」
「だろー? だからさ――」
「シュウ、迎えにき……た」
嬉々とした様子で離すカイの後ろから、白竜が息を切らして駆け込んできた。カイの姿を見て、顰め面になる。もう最終下校の鐘がなっていたことに、気づかなかった。僕は油絵の具をしまい始める。
「あらら。白竜くんのお迎えか」白竜の顔を見て、カイがいたずらがバレた子供のような表情をする。「機嫌を損ねる前に帰ろうかな」
「じゃあシュウ、先に帰るな。その気になったら俺に教えろよ」
「うん、ばいばい」
さっさと身支度を整えて、扉の前で手を振るカイに手を振り返す。白竜は疑問符を浮かべていたが、イーゼルを片付けてくれた。
「さっきの、何だよ」
「え?」
「だから、さっきの。カイが言っていただろう」
廊下を歩く白竜の呼吸は、大分整っていた。校門で待てばいいのに、彼はわざわざ着替えた後、走って部活棟に行き、美術室まで迎えに来てくれる。一度、何故校門で待たないのかと尋ねたことがあったけど、やけに恥ずかしそうな様子だったので、それ以来聞いたことはない。
もしかして。もしかして、長く僕といるためだったり、しないだろうか。なんてね。
自分に都合のいい解釈を胸に閉じ込めながら、白竜に笑う。
「僕がサッカー部に入ったら、カイも入るってさ」
「……は」
「僕もカイとサッカーやりたくなっちゃった。ちょっと入ってみようかなあ」
長らくスカウトして来た身からすると結構喜ばしい話なんじゃないだろうか。それにカイは実力もある。白竜はどう思う、と尋ねようと横を見ると、窓が見えるばかりだった。
白竜は、数歩後ろで立ち止まっている。「どうしたの、白竜」その拳がきつく握りしめられているので、僕は少し心配になって白竜に駆け寄った。彼は俯いて、何やら考え込んでいる。
「白竜」
「……駄目だ」
「え?」
「だ、駄目だ。カイのためなんかに入るなんて、絶対に許さないからな。入るのなら、俺のために入れよ」
あげた顔が夕日で赤く染められていて、僕はたじろいだ。まるで顔が赤くなっているように見えて、なんだか僕の顔にもじわじわと熱が集中する。
なんてエゴイスト。なんて奴。そう思いながらも、僕は平静を装うのに必死で、しばらく乾いた笑いしかでなかった。
まるで嫉妬のようだ。白竜は、その言葉が、どれだけ僕に影響をあたえるのか、わかっているのだろうか。きっとわかっていないに違いない、いや知らないほうがいいけど、罪な奴だ。そんなんだから、モテるのに。
目頭が熱くなって、体の奥がじんと熱くなる。うれしさで胸が一杯になる。いつからこんな想いを抱くようになったのか、覚えていない。
白竜がたまらなく好きだった。
「何言ってるんだよ」しかし僕はその想いを必死で押し隠す。
「白竜は僕が大好きだね」
なんでもない一言だ。友人のじゃれあいのような一言、他意はない。そう、他意はない。自分で吐いたその言葉に、胸が膿んだように痛んだのも、必死に押しつぶす。
白竜は何も言わなかった。何も言わず、ぎゅうと拳を握り締めている。
先ほどの告白をどうしたのか聞こうかと思ったが、やめた。それは僕が聞いてはいい事柄ではないし、僕が聞いて良い権利などない。あるのは友人でいられる幸せだけ。
下駄箱に手をかける。夕日が目に眩しかった。
カイと話したり、絵を描いたり。こんな風に、白竜から嬉しい言葉をもらったり、こういうことがあるから、僕は汚い感情に呑まれそうになるのを抑えることができるのだ。自分の気持ちを隠すことに、手馴れてしまった。 また今日のように突き崩されるまで、気持ちを覆う鎧の準備はできている。
僕は友人のままであるべきなのだから。高望みなんて、贅沢だよ。
【終】