パロのちょっと前の話。シュウ視点です。



 僕は毎朝5時に目覚めて、6時半までには家を出なくてはならない。そうしなければ間に合わないから。
 今日もすっかり目覚めた僕は、妹を起こしてご飯を食べさせた後に急いでマンションから飛び出した。エントランスホール前では、朝日に白髪を透けさせて、白竜が静かに待っている。
 「おはよう」と挨拶すると、白竜は微笑を浮かべた。毎朝のことながら、この笑みは心臓に悪い。早朝から僕は心臓を高鳴らせてしまう。どくんどくん、胸の奥で、ヘタクソなダンサーがタップを踏む。

「そんなに焦らなくてもいいのに」
「白竜を待たせるの、悪いだろ」
「俺のわがままなんだ。気にするな」

 さりげなく車道側を歩かれ、してやられたという気持ちになる。こうなったらもう、学校につくまでこの位置は変わることはない。今日こそ、その女の子にやれば喜ばれそうな紳士的な行為から脱却しようと思ったのに。
 本当は、もっとゆっくり出ても学校に間に合う。それほど遠い距離ではない。けれど、白竜はサッカー部だ。そして僕は美術部。白竜には朝練があった。
 その彼の登校のためだけに、一時間の睡眠を犠牲にして付き合う僕は我ながら滑稽だと思うけれど、幸せだった。
 白竜の隣を歩くのが。


「おはよー」
「おはよう」
「今日もシュウが一番か。白竜の登校に付き合うなんて、シュウも大概だよなあ」

 誰もいない教室に、カイが間延びした挨拶で入ってくる。そろそろ生徒が登校してくる時間なのだろう。僕はクロッキー帳を閉じた。窓側の席からは、サッカー部の活動がよく見える。
 僕が白竜の登校に付き合うようになったのは、元々は彼が言い出したことだった。シュウがよければ、を三回くらい繰り返した後に、ぼそぼそと「俺と一緒に登校しないか」と言われたのを覚えている。二つ返事で快諾した僕に、彼は驚き半分喜び半分だったので、少し嬉しかった。
 とはいえ、僕は文化部なので、朝練があるわけではない。だから、いつも白竜と別れた後は教室に戻り、自分の席でクロッキーをする。対象はサッカー部が中心だった。特に、白竜。
 白竜は見ていて飽きないし、描いても描き足りない。俊敏さに富んでいるから、いつも走り回っている。そのためクロッキーをするのは至難の業だったけど、おかげでクロッキー帳が今年に入って早くも4冊目になった。このクロッキー帳は、誰にも見せたことがない。勿論、幼なじみのカイにも。見られたら僕は本当に顔から火を出して、焼け死んでしまうだろう。
 カイと他愛もない話をしていると、廊下がどやどやとうるさくなってきた。恐らくサッカー部の一年生が戻ってきたのだろう。動物だったら耳が立っているだろう、僕は耳に神経を集中させる。

「そう思うよな、白竜!」
「うるさいから耳元で騒ぐなよ」

 期待通り、白竜の声が聞こえてきて、胸がきゅんとした。彼らは隣のクラスのため、この教室を素通りしていく。

「そういえばさ、俺の従兄弟がエロ本おいてったんだよ。見る?」
「俺達まだ14歳だろうが、ばかだな」

 「帆田は朝から元気だなー」とカイがけらけらと笑う。談笑が遠のいていく中、僕は頭をがんとゆすられたような衝撃を受けていた。
 エロ本。僕達はいわゆる思春期というやつで(自覚はないけれど)、そういうのに興味がないわけではない。僕は、元々淡白なほうだからあまりそういうのに興味はわかないけれど。考えただけで目眩がする、あのチカチカしそうな極彩色に触るなんて。
 しかし白竜も男だ。十人十色、僕みたいに興味が薄い奴もいれば興味津々な奴もいる。白竜はどうなんだろう。そういうのを見て、興奮するんだろうか。えっちしたいとか、思うんだろうか。
 女の子と。

「なー、シュウ」
「えっ。ああ、うん、そうだね……」

 カイに話しかけられ、我に返る。心臓がきゅっとした。


 人が少なくなった学校はひどく寒々しい。こんな時に、体温の温かみを知る。夕日が四角く差し込んで、昼間を蜜色に染めていく、この異世界のような空間が、僕はたまらなくすきだった。放課の鐘は境界線だった。
 教科書をカバンにしまい込み、さていざ美術室にいかんと教室を飛び出すと、階段の隅に見慣れた姿があった。
 「あ、はくりゅ……」う、最後の母音は僕の喉にするすると引っ込んでしまった。白竜はこちらに気づかない、その前には、同じクラスの女の子。名前はよく覚えていないけど、顔は知ってる。入学初日、僕と同じ保健委員になった女の子だ。
 とたんにまるで走馬灯のように、あの日の記憶が甘く蘇ってきた。僕と白竜が友達になったあの日、僕はきらきらとしたあの記憶がもったいなくて愛しくて、片時も忘れたことなどなかったのに、今めぐるそれは子供の落書きのようにぐんにゃりとしていた。
 帰ろう。見てはいけない。あれは僕が見てはいけないものだ。あの女の子のもじもじとした様子とか、影の中でもわかる、赤らんだ頬とか。
 二人に気付かれないように、背を向ける。部活棟に行くにはあの前を通るのが一番近いのだけれど、通りたくはないと体が泣いていた。
 なるべく気配を殺して校舎から飛び出すと、僕はただ足元だけを見つめて、部活棟へと走った。サッカー部の声が聞こえる。いつもならじっくりとその様子を眺めるけれど、今の僕にそんな余裕はない。
 階段を駆け上がり、美術室の扉を乱暴に開けると、べっこう飴の石膏像が僕を見つめた。誰もいない、最近テストが近いから、みんな勉強しに帰っているのだろうか。けれど今は好都合だった。
 机に突っ伏して、胸に手を当てる。心臓が痛い。厚い制服でもわかるくらいのこの高鳴りは、けして走ったせいだけではない。
 あれは、紛れも無く告白だった。酸欠でじんわりと涙がにじみ出る。仰いだ天井が歪んだ。
 白竜は、親友の贔屓目を抜きにしてもかっこいい。イケメン、という部類に入る。頭もよく、その上一年生なのにサッカー部のレギュラーに早くも抜擢され、その功績は輝かしい。思わず、眩しくなるくらいに。
 少し言い方は悪いが、光に集まる虫のように、白竜の周りにはいつも沢山の人がいる。サッカー部の人間だったり、あるいはクラスメイトだったり、あるいは女の子だったり。とにかくいつも目立つ存在だった。
 僕は目立つことが嫌いで、影の存在となることを好んでいたから、今でも、たまに、彼が僕を親友と位置づけしてることに疑問をもつことがある。白竜が光だとするならば、僕はそれに引き寄せられた蛾の一匹にすぎないのだから。
 だから、白竜がモテるということは、他クラスながら、なんとなく感じていた。性格は少しひねくれている部分があるけれど、それを補う美点がある。女の子が放っておかないのは簡単に予測できた。
 しかし、目の前で見てしまうと、こうも打撃を受けるものだとは思わなかった。人知れず唸り声が出る。

「……白竜は、つきあっちゃうのかなあ」

 独り言は予想以上に美術室に響き渡り、またじんわりと涙が滲んだ。
 あの女の子は可愛いと、どこかで誰かが噂していたのを聞いたことがある。女性の華美はよく分からないが、他者から見て彼女がそのような位置にいるのは間違いないのだろう。
 胸が違う意味でドキドキとしてきた。まるでテストの結果を舐めるように見られているような、そんな緊張感が心臓を圧迫する。
 白竜が女の子と付き合うのは、嫌だ。しかし僕にそれを止める権利は全くない。僕に許可された権利は、彼の友人でいることだけなのである。それ以上の思いは持ってはいけないと自分ではわかっているのに、僕は禁忌を犯した。
 僕が女の子だったらよかったのに。貧相で柔らかくもなんともない体を思い出し、また鬱々とした気分になる。僕が女の子だったら、白竜と添い遂げることも、想いを伝えることも、全部許されていたはずなのだ。神様にしても、世間体にしても、全く正常な営みである。白竜は、女の子のほうがいいに決まっているのだから。
 ふと妹のことが浮かんだ。まだ小学生の、可愛い、大事な妹。僕によく似ていると言われている彼女を、白竜に会わせてみようか。どんな反応をするだろうか、そこまで考えて、頭が暗くなった。肉親をだしにするなんて、馬鹿な事を。そこまでして、僕は白竜をあきらめられるというのだろうか。
 今味わっているこの想いを、僕は何度も経験し、その度に精神を歪ませているのに、お笑い種だ、僕は全く諦められていないのである。
 古い角椅子がきしむ。大好きな筈のこの甘ったるいオレンジの空間の、隅っこの影が、ずくずくと僕に襲いかかってきて、この狂気じみた穴の中に入ってきそうな気がして、寒気がした。
 寂しい。ここは一人じゃ寒すぎる。

【続】

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